頑固爺の言いたい放題

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邪馬台国への行程 (3)

2012-04-16 15:58:45 | メモ帳

「秘められた邪馬台国」(八尋秀喜著 梓書院 2011年9月初版)に述べられている邪馬台国への行程を考察してみよう。

 八尋氏は宮崎大学工学部卒業の測量士である。同氏は1975年に古代船を復元した丸木船を建造し航海実験した経験があり、その記録と大宰府天満宮に現存する史書『翰苑』を武器にして、邪馬台国の場所を推理している。

 同氏の論旨のベースは次のようである(計算基礎は省略)。

1里:430メートル

1日に進む距離: 徒歩 50里(出所 唐六典)(430m×50 = 21.5km)

                船 18.5 km (3.7 km ×5時間…1日に漕げる時間の肉体的限度)

 

「邪馬台国への行程(1)」と重複するが、倭人伝に記されている行程は下記の通り。

帯方郡→狗邪韓国 7,000里

→対馬 1,000里

→壱岐 1,000里

→末蘆国(唐津)1,000里

→伊都国(糸島半島)南東へ陸行 500里

→奴国 東へ陸行 100里

→不弥国 東へ陸行 100里

→投馬国 南へ水行 20日

→邪馬台国 南へ水行 10日、陸路 1月 

総距離(帯方郡→邪馬台国):12,000里

 

さて、八尋氏の論考の要点は次の通り。

(1)  行程は二つのルートを組み合わせたものである。一つは、帯方郡から不弥国に至るもの(A)、他の一つは投馬国への行程水行20日と、邪馬台国への行程水行10日、陸行1月(B)。

(2)  行程(B)における二つの水行の起点は狗邪韓国である。

 

(3)  二つの水行のうち、投馬国への20日間については、狗邪韓国→対馬→壱岐→投馬国であり、具体的には、壱岐から九州西岸を南下し、薩摩半島の串木野に比定する。

(4)  邪馬台国への水行10日については、狗邪韓国→対馬→壱岐→北九州沿岸(奴国の那の津に比定する)であり、邪馬台国は那の津に上陸してから南へ54キロ以内の地点である。

(5)  那の津から54キロ以内とする根拠は次の通り。朝鮮海峡を横断できる浪静かな日は夏場の延べ30日しかない。海上の往復に20日間を要するから、用務に使える日数は10日間。魏使が到着すると、それを港の役人が女王に報告し許可を得るのに1往復、これに魏使の1往復を加え2往復。10日を2往復で割ると(10÷4=)2.5日。1日の歩行可能距離は21.5キロだから、2.5×21.5=53.75により、約54キロとなる。すなわち、邪馬台国は那の津から南へ54キロ以内の地点にあった。

(6)  那の津から南へ進むと、45キロの地点に有明海があるから、有明海までのどこかに邪馬台国があったことになる。具体的には筑後川の上流の朝倉、那珂川の上流にある吉野ヶ里などが候補地になる。

 

《池澤康コメント》

§ 水行の起点を狗邪韓国とするのは画期的な考え方だと評価する。但し、その場合は、帯方郡から狗邪韓国までの行程に水行がなかったことが条件であり、それは確認できない。

§ 入国してから出国するまでの所要日数を推定し、その所要日数から邪馬台国までの距離を割り出すプロセスにやや無理があるように思う。

§ かりに邪馬台国が那の津から45キロの地点にあったとして、陸行の所要日数は八尋氏の大前提により1日21.5キロだから、45キロ÷21.5キロ=2.09 であり、長くても3日あれば到達する。それでは倭人伝にある「陸行1月」に矛盾する。『秘められた邪馬台国』の序文に「倭人伝を可能な限り忠実に読み解き、古代日本の邪馬台国を突き止めます」とあるが、結果はそうなっていない。「可能な限り」とはできないことの予防線だろう。

 


邪馬台国への行程 (2)

2012-04-13 16:03:25 | メモ帳

「日本古代史を科学する」(PHP新書)において、中田力氏は邪馬台国の位置を宮崎平野に比定する。

 (1)     伊都国

中田氏も、通説通り、魏使は東松浦半島(末蘆国)の唐津近辺に上陸したと考える。問題はそこから先である。通説(古田武彦氏など)では、伊都国を糸島半島に比定するが、中田氏は倭人伝の記述「東南陸行五百里にして伊都国に至る」をそのまま読み解くと、末蘆国からの行程は次のようになると主張する。

 

  • 伊都国が糸島半島に存在したならば、魏使は唐津で下船せず、壱岐から直接伊都国に向かったはずだ。それにもかかわらず唐津で下船し陸行したのだから、伊都国は海岸ではなく内陸部にあったと考えるべきだ。

 

  • 糸島半島は唐津から東北の方角にあるから、「東南陸行五百里」に符合しない。やはり、倭人伝の記載通り、東南の方向に進んだと考えるべきだ。1里を60メートルとすると、五百里は30キロメートルであり、現代の地図で調べると、それは唐津街道の山間部から平野部に出るあたりである。この地点は自然の関所のような場所で、通過するものすべての管理が可能である。倭人伝には「千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐まるところなり」とあり、この地形にピタリ合う。

 

 

 

古田氏など伊都国を糸島半島に比定する多くの学者・研究家は、唐津を出て陸上を糸島半島に向かう時、最初は海岸沿いに東南方向に進むことになるから、倭人伝の記述に合っているとする)

 

 (2)  奴国と不弥国

伊都国から次の奴国への行程は、「東南奴国に至る、百里」となっているから、伊都国から東南へ6キロメートルであり、JR唐津線とJR長崎本線が交わるあたりである(図1)。

奴国から次のへの行程は、「東行不弥国に至る、百里」によって奴国から東へ6キロ進むと佐賀駅あたりになる。このあたりは当時は海だった。不弥国には港があったのだろう。

 

(3)  投馬国

不弥国から次の投馬国への行程は、「南、投馬国に至る水行二十日」となっている。投馬国の戸数が五万余戸(人口20万)という大集落であることから、有明海の南方向にある大平野で、かつ船で20日以内に行けるところは熊本しかない。

(しかし、有明海は波が穏やかであり、佐賀から熊本までの水行に20日を要するとは考えられない)

 

(4)  邪馬台国

投馬国から邪馬台国への行程は「南、邪馬台国に至る、女王の都するところ、水行十日陸行一月」となっている。佐賀から熊本まで20日を要したのだから、その半分の距離の場所、すなわち八代で上陸したはずである。

(それでは佐賀→熊本の水行に20日を要したという矛盾をそのままなぞっており、熊本→八代の水行に10日を要するのは同じ矛盾と言わざるを得ない)

 

八代から内陸に入ると山岳地帯であり、現在と同じように球磨川沿いの道を辿ったはずだから、人吉盆地に入ったことは間違いない。ここから先はどの方角に進んだかの情報はないが、倭人伝では邪馬台国が海岸に面していたように記述されていることから、邪馬台国は西都から宮崎に至る日向灘に面した地域にあったはずである。

(八代から日向灘沿岸部までの陸行に一月を要したとは思えない。この矛盾を説明していないのは残念である)

 

《池澤康コメント》

中田氏は医者で、専門は脳神経学である。科学者の視点で古代史の謎を解くことに挑戦したが、邪馬台国の比定に関するかぎり、科学の力が発揮されたとは思えない。そして、倭人伝最大の問題点である「水行十日、陸行一月」を解明していない。

 

 

 

 

 


邪馬台国への行程 その(1)

2012-04-10 17:18:47 | メモ帳

最近、古代史に関する本が2点出版された。一つは「秘められた邪馬台国」で、帯封には「測量士が『翰苑』と『地球号』の実験から隠された女王国への道と解く!!」とある。もう一つは、「日本古代史を科学する」で、その帯封には「学界のタブーを破り、自然科学者の目が衝撃の事実を次々と・・・」とある。この「・・・科学する」の中に『邪馬台国への道』という章があるので、この二点に述べられた「邪馬台国の場所」を論評してみる。

まず「魏志倭人伝」に記された邪馬台国への行程の部分を再確認し、これまでの諸説を概観しておきたい。

「魏志倭人伝」には魏の使者が辿った道は次のように述べられている。出発地点は現在のソウル周辺と思われる魏の植民地、帯方郡である。

郡より、その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里。

始めて一海を度る、千余里。対海国(対馬に比定)に至る。

又、南、一海を渡る千余里、一大国(壱岐)に至る。

又、一海を渡る千余里、末蘆国(東松浦半島)に至る。

東南陸行五百里にして、伊都国(糸島半島)に至る。 

東南奴国に至る、百里。

東行不弥国に至る、百里。

(以上の距離を合計すると一万七百里)

南、投馬国に至る、水行二十日。

南、邪馬台国に至る、女王の都するところ、水行二十日・陸行一月。

一方、帯方郡から邪馬台国までの総距離は一万二千余里とある。

 大多数の学者・研究家は、行程のうち、伊都国までは意見が一致するが、その先は意見が分かれる。

畿内派は、行程を「伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国」の順だと考え、投馬国は吉備か出雲のいずれかだと比定する。問題点は「南、邪馬台国に至る」の方向が合わぬことで、南は東の誤りだろうとする。また、投馬国→邪馬台国の所要日数が「水行二十日・陸行一月」であれば、畿内では日数がかかりすぎるが、これは許容範囲としているらしく、論述を避けている。

 北九州派は、投馬国を大隅半島または鹿児島半島に比定し、「水行二十日・陸行一月」の部分になんらかの誤りがあるとする。そうでないと、邪馬台国は沖縄あたりの存在したことになってしまうからだ(実際に沖縄説もある)。

畿内派も北九州派も倭人伝通りに読み解くと、邪馬台国の場所は皆目わからず、江戸時代からずっと論争となってきた。しかし、古田武彦氏は倭人伝通りに読み解いて、邪馬台国の場所を博多湾沿岸に比定する。その要旨は次の通り。

 ◆  「水行二十日・陸行一月」は倭国内の特定の場所から邪馬台国への所要日数ではなく、帯方郡から邪馬台国への総所要日数である。「陸行一月」の大部分は朝鮮半島内における所要日数。

◆  「東南、奴国に至る、百里」と「南、投馬国に至る、水行二十日」には動詞がないから、これは行程の主線ではなく傍線である。他の行程を示す文には、「渡」「度」「行」の動詞があるから、行程の主線である。傍線であるにもかかわらず、奴国と投馬国だけ挙げたのは、この2国が邪馬台国(7万戸)に次ぐ大国だから(奴国は2万戸、投馬国は5万戸)。

◆  「東南、奴国に至る、百里」と「南、投馬国に至る、水行二十日」を除く主線だけの距離を合計すると10,600里で、総距離12,000里には1,400里不足する。これは対馬と壱岐を半周したとすればピタリ合う。すなわち、対馬は「方可四百余里」、壱岐は「方可三百余里」とあり、それぞれ一辺を四百余里、三百余里として、島を半周するには二辺を歩くことになるから、対馬での八百里と壱岐での六百里を合計すると1400里である。

◆  倭人伝の記述では、投馬国の次に邪馬台国の記述があるが、上述のように投馬国は主線ではないから、不弥国の次が邪馬台国になる。この2国の間に距離の記述がないのは隣接していたからである。

◆  結論として、邪馬台国は博多湾の沿岸にあった。

 『池澤康論評』

§古田氏は、対馬と壱岐を半周したとすれば、全体の距離がピタリ合うと主張するが、そこまで細部にこだわる必要はないと考える。船を島の北側に着けて、そこから南側まで歩行し、また乗船したとは常識的に考えにくい。着いた場所からまた乗船したと考えるべきだ。そもそも、陳寿は狗邪韓国→対馬、対馬→壱岐、壱岐→東松浦半島の距離をすべて千余里としており、大雑把な距離を示したにすぎない。そして、「千余里」の「余」には1割程度の許容範囲があるのではないか。それなら「余」の合計が1400里であっても納得できる。むしろ、古田式計算では「余」を無視していることになる。

 §「対馬と壱岐の半周」に賛同しかねるが、それでも古田説は倭人伝を記述通りに読み解けることを示したことにおいて、画期的業績である。古田説は30年も前に発表されており、他の論者たちは古田説を読んでいるはずだが、真向から反論しているものはないのは不思議である。