「秘められた邪馬台国」(八尋秀喜著 梓書院 2011年9月初版)に述べられている邪馬台国への行程を考察してみよう。
八尋氏は宮崎大学工学部卒業の測量士である。同氏は1975年に古代船を復元した丸木船を建造し航海実験した経験があり、その記録と大宰府天満宮に現存する史書『翰苑』を武器にして、邪馬台国の場所を推理している。
同氏の論旨のベースは次のようである(計算基礎は省略)。
1里:430メートル
1日に進む距離: 徒歩 50里(出所 唐六典)(430m×50 = 21.5km)
船 18.5 km (3.7 km ×5時間…1日に漕げる時間の肉体的限度)
「邪馬台国への行程(1)」と重複するが、倭人伝に記されている行程は下記の通り。
帯方郡→狗邪韓国 7,000里
→対馬 1,000里
→壱岐 1,000里
→末蘆国(唐津)1,000里
→伊都国(糸島半島)南東へ陸行 500里
→奴国 東へ陸行 100里
→不弥国 東へ陸行 100里
→投馬国 南へ水行 20日
→邪馬台国 南へ水行 10日、陸路 1月
総距離(帯方郡→邪馬台国):12,000里
さて、八尋氏の論考の要点は次の通り。
(1) 行程は二つのルートを組み合わせたものである。一つは、帯方郡から不弥国に至るもの(A)、他の一つは投馬国への行程水行20日と、邪馬台国への行程水行10日、陸行1月(B)。
(2) 行程(B)における二つの水行の起点は狗邪韓国である。
(3) 二つの水行のうち、投馬国への20日間については、狗邪韓国→対馬→壱岐→投馬国であり、具体的には、壱岐から九州西岸を南下し、薩摩半島の串木野に比定する。
(4) 邪馬台国への水行10日については、狗邪韓国→対馬→壱岐→北九州沿岸(奴国の那の津に比定する)であり、邪馬台国は那の津に上陸してから南へ54キロ以内の地点である。
(5) 那の津から54キロ以内とする根拠は次の通り。朝鮮海峡を横断できる浪静かな日は夏場の延べ30日しかない。海上の往復に20日間を要するから、用務に使える日数は10日間。魏使が到着すると、それを港の役人が女王に報告し許可を得るのに1往復、これに魏使の1往復を加え2往復。10日を2往復で割ると(10÷4=)2.5日。1日の歩行可能距離は21.5キロだから、2.5×21.5=53.75により、約54キロとなる。すなわち、邪馬台国は那の津から南へ54キロ以内の地点にあった。
(6) 那の津から南へ進むと、45キロの地点に有明海があるから、有明海までのどこかに邪馬台国があったことになる。具体的には筑後川の上流の朝倉、那珂川の上流にある吉野ヶ里などが候補地になる。
《池澤康コメント》
§ 水行の起点を狗邪韓国とするのは画期的な考え方だと評価する。但し、その場合は、帯方郡から狗邪韓国までの行程に水行がなかったことが条件であり、それは確認できない。
§ 入国してから出国するまでの所要日数を推定し、その所要日数から邪馬台国までの距離を割り出すプロセスにやや無理があるように思う。
§ かりに邪馬台国が那の津から45キロの地点にあったとして、陸行の所要日数は八尋氏の大前提により1日21.5キロだから、45キロ÷21.5キロ=2.09 であり、長くても3日あれば到達する。それでは倭人伝にある「陸行1月」に矛盾する。『秘められた邪馬台国』の序文に「倭人伝を可能な限り忠実に読み解き、古代日本の邪馬台国を突き止めます」とあるが、結果はそうなっていない。「可能な限り」とはできないことの予防線だろう。