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九州王朝説に対する批判

2011-09-13 17:39:55 | メモ帳

前回は古田武彦氏の「九州王朝説」を紹介し、私なりの疑問点を述べた。では専門家はどう言っているか。安本美典氏の反論(『虚妄の九州王朝』梓書院 H7年4月)を紹介する。

 

広開土王(好大王)が戦った相手は? 

高句麗の広開土王の石碑によれば、高句麗が倭軍と闘ったことは間違いないが、古田氏は「当時の大和朝廷には、半島に出兵した記録がないから、広開土王が交戦した相手は九州王朝の倭軍である」と主張する。これに対し、安本氏は次のように反駁する。

 

広開土王が戦った相手は神功皇后が率いる大和朝廷の軍勢である。神功皇后の活躍が記された『記紀』では、信じがたい童話的記述もあるが、『常陸国風土記』、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『万葉集』、『続日本書紀』、『古語拾遺』(斎部広成807年)、『新撰姓氏録』 (815)等に息長帯日売(神功皇后)の新羅征討に関する記述があり、神功が実在の人物であり、その新羅征伐は疑いない史実である。

 

神功皇后が活躍した時代について、これまで360-390年とする説が多かったが、安本氏の「天皇の平均在位十年説」によれば、神功の活躍した時代は390-410年と推定され、広開土王の石碑の記述に合致する。

さらに、安本氏は「新羅の皇子、未斯欣が倭国に人質となった(402)のち、見張りを欺いて本国に逃げ帰った話(418)は、『紀(神功皇后紀)』と『三国史記』の両方に記載されているから、史実であること間違いない」から、広開土王の戦った相手が大和朝廷であることが裏付けられると主張する。

 

倭の五王とは?

古田氏は「5世紀に晋や宋に朝貢した倭の五王すなわち讃(413421425)、珍(438)、済(443451)、興(462)、武(479)とは大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の王である。『記紀』に五王の朝貢に関する記述がないのは、それが九州王朝の事績だからで、大和朝廷の天皇に比定しようとしても無理があるのは当然である」と主張する。

 

これに対し、安本氏は「倭の五王とは大和朝廷の天皇である」として、次のように論証する。

 

倭王武の上表文「東は毛人を征すること55ヶ国、西は衆夷を服すること66ヶ国」にある毛人に関し、『旧唐書』に「東北の隅は隔てつるに大山を以てす。山外は即ち毛人国なり」という記述があり、関東以北を毛人の領域としている。また『上宮聖徳法王帝説』には、「蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣」という記述があり、この毛人は明らかに蝦夷であって、蝦夷のことを毛人と呼ぶ伝統があったことがわかる。また、『記紀』には日本武尊が陸奥の国で蝦夷を討ったという記述がある。すなわち、「毛人を征すること55ヶ国」は、中国と日本の史書において合致している。

 

また、「西は衆夷を服すること66ヶ国」における「衆夷」については、安本氏は「畿内から見れば、西の衆夷とは『記紀』に記される熊襲や土蜘蛛を指すのだろう。しかし、北九州から見れば、西には北九州内の国しかない。九州王朝は九州を治めていたはずで、自分の領域である北九州の国々を衆夷と呼ぶのは解せない」と主張する。

 

隋書との不一致:

古田氏の主張「『隋書』によれば、最初の遣隋使は開王20年(推古8年、600年)だが、『紀』では推古15年となっている。また、『隋書』では、608年の遣隋使が最後となっているが、『紀』では614年にも遣使の記録がある。『隋書』と『記紀』の記録が食い違うのは、九州王朝と大和朝廷の両方から遣隋使が派遣されたことを示す」

 

これに対し、安本氏は「中国側の史書と日本側の史書が一致しない例は数多い。不一致をもって九州王朝が存在した証にすることはできない。中国の史書には間違いが多いのである」と主張する。

 

白村江の戦い:

663年、白村江で日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍がと戦い、日本・百済は敗れ、百済は滅亡した。古田氏はこの戦いにおける日本軍を大和朝廷軍ではなく、九州王朝軍であると説く。

安本氏はこれについて、「古田説によれば、九州王朝は531年の磐井の乱によって叩き潰されていたはずだ」と指摘する。

 

九州年号:

古田氏は、李氏朝鮮で編纂された『海東諸国記』(1471年成立)に載っている善化、正和、発倒、僧聴などの年号を九州年号と称し、九州に王朝があった証拠である、と主張する。

 

この点について、安本氏は次のように批判する。

九州年号という呼称は鶴嶺戊申の『襲国偽僭考』に使われているだけである。同書には「今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり」とあるが、その古写本なるものは現存しない。すなわち、九州年号という呼称には疑問があり、そうした古代年号が実在したかどうかの確証はない。

 

結論:安本氏の「九州王朝説」批判は次のように要約される。

古田氏の九州王朝説の最大の問題点は、九州王朝の存在を示す直接的な文献的証拠がなにもないことである。古田氏は、『記紀』は誤りに満ちているが、中国や朝鮮の文献にはまったく誤りがないという前提で自説を展開するが、それはあまりにも一方的な態度である。九州王朝説は根拠がない妄想にすぎない。

 

安本氏の批判は大筋において的を射ていると思うが、安本氏は古田氏の主張をすべて論破しているわけではない。例えば、『隋書』に、600年に隋が倭国に使節を遣し、国王に面接したという記述があり、国王の名前は姓が阿毎(あめ)、名が多利思北孤、阿輩鶏弥(おおきみ)、皇后の名は鶏弥とある。明らかに国王は男性だが、当時の大和朝廷の天皇は推古で女性。これをもって、大和朝廷以外にも王権が存在した証拠とすることは論理の飛躍であるが、だからといって単純に『隋書』の誤りとして看過するには、矛盾があまりにも具体的のように感じられる。

 

私は安本氏の主張に分があると思うが、古田氏の主張の一部には傾聴すべき点がいくつかあり、古田氏も論破されたとは思っていないようだ。1973年に「失われた九州王朝」(朝日新聞社)を発表して以来、あまたの批判を受けたが、同書の復刻版が2010年に出版されていることからしても、古田氏は自説を曲げていないようだ。

そして、「九州王朝」説を唱えるのは、古田氏ばかりではない。次回はその説を紹介する。

 



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14 コメント

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興味深いけれど… (minor)
2014-02-13 14:37:14
通りすがりですが、興味深く読みました。

ですがそもそも安本氏は専門家(考古学)ではないですよね?寧ろ趣味人かと。
安本氏の主張は単に後からの主張なので分があるように見えるだけだと思いますよ?

吉田氏が論破されたと思っていないのは当然で、安本氏は吉田氏が広げた枝葉を否定しているにすぎず、根幹を否定するに至っていませんから。
枝を切った所で幹は切れません。
安本氏にしても自分の説にかからない部分はどうでもよい話ですしね。

なのでこれは「九州王朝説」への批判とは言えず、吉田氏の論点に対する批判ではないでしょうか。


>■広開土王(好大王)が戦った相手は?
>■倭の五王とは?
>■隋書との不一致
これは何の根拠もなく言い張っているだけですよね。
一つ一つの否定の為に「あの説」「この説」と立場がバラバラです。専門家ではないからかもしれませんね。

ちなみに倭王武の件ですが、熊襲等なら反発勢力ですので、毛人と同じ「征する」になります。「服する」とは反発しないものなので、自国の領域を指すと考えて正しいでしょう。
自らの支配規模を誇示する文章に於いて、自らに忠実な国の数を含めない理由などありませんよ。
多い方が良いのですから。


>◆白村江の戦い
>◆九州年号
これは吉田氏が本来の中国の史書からという論点からそれて想像を広げた話なので、九州に王朝があったかどうかとは関係が無くどうでもよい話でしょう。


物的証拠も「一つの前提」を作られては機能しません。
教科書などの古代史は、物証の発掘が乏しく年代測定も出来ない未熟な時代に考えられたものを土台として組み上げてきていますから、平衡のとれたものになっていないのです。

日本古代史も妙な「前提」無く物的証拠からくみ上げて冷静に検討される日が来ることを願っています。
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安本氏・・・。 (やる気梨)
2015-01-04 14:11:15
 お初にお目にかかります。そんなに古田氏の説がだめだとは思いませんが。
 ・広開土王の石碑のとおりなら、倭軍は度々撃退されており、神功皇后が三韓を征伐するどころの話じゃないですよね?これについてはどう思いますか?
 ・倭の五王ですが、多くの研究者らは大王の在位年数とか漢風名と和風名の対応、大型古墳の事を取り上げます。でもそれだけじゃないですよね。王らが名乗った、使持節都督や開府儀同三司。都督府・太宰府との関連性や記紀に記述されない神籠石山城群。また、豪奢な副葬品を伴う装飾古墳や石人・石馬の存在。これらについてはどう思いますか?
 ・隋書との不一致ですが、例えば、倭国人は大人・子ども・身分の上下などに関わらず、刺青をしていた。同姓不婚だった等。今の日本に通じるものがありますかね?
 ・白村江の戦いですが、国の存亡に関わる戦いで主力を率いる天智天皇が軍勢を渡海させないってどう思いますか?筑紫君や毛野君が軍勢を渡海させているにも関わらずですよ。
 ・九州年号ですが、実際に木簡に記されたものが発見されましたよ。どう思いますか?
 古田氏が中国史書のみに依拠した研究を行っていると思いますか?何でも否定できるとは思えませんが。実際に彼の著作を全て目を通してみてはどうでしょうか。
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Unknown (昭和青年)
2016-02-14 23:07:03
安本氏に分がある・・
卑弥呼や壱与の魏への遣使が、なぜ神功皇后一人の行為に日本書紀ではすり替えられているんですか?二人が大和朝廷の女王なら、許されることじゃないですね。それに、すり替えはこれだけですか?

中国の史書は平気で嘘を書きます。但し、それは自分たちの利害に関わる場合。
蛮夷の状況など、動物の生態記録のように書きます。
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コメント有難う (頑固爺)
2016-02-15 08:38:44
昭和青年様
かなり前の投稿を見つけて頂き、嬉しく存じます。
有難うございました。
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調べてから物を言ってください (特命希望)
2016-10-21 22:49:03
> ・隋書との不一致ですが、例えば、倭国人は大人・子ども・身分の上下などに関わらず、刺青をしていた。同姓不婚だった等。今の日本に通じるものがありますかね?
>http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1396067238
神武天皇の親衛隊みたいな男が入れ墨を目の周りにしてたってありますが。
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調べてから (頑固爺)
2016-10-22 10:58:04
特命(匿名?)希望さん
古い投稿にコメント頂き、有難うございます。
刺青の話、拝読しました。面白いですね。
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九州王朝説に対する疑問 (名無し)
2018-05-30 10:45:38
九州王朝が確固な支配権ものなら何故、後年まで大隅、薩摩の隼人の集団を完全掌握出来なかったのでしょうか。白村江の戦いで九州王朝が滅亡したと言われますか、その後何故、九州王朝の継承者を擁立して、しつこく九州王朝再興運動を展開しなかったのか?後付けですが鎌倉幕府滅亡後の中先代の乱、南北朝合体後の南朝の残党の執拗な抵抗があったことを考えたらなら、何らかの再興の動きがあってしかるべきでしょう。それが何の動きも見られないのはどうゆうことですか?2441
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九州王朝説に対する疑問 (名無し)
2018-05-30 11:24:22
九州王朝説信奉者は九州にも東大寺のような壮大な寺院があったと想定して、いろいろ遺跡を比定してるようですが、最初からないから、出てくる訳がないですよ、だって盧舎那仏の大仏が一番先に根本にあるから東大寺は東大寺たりうるのです。設定が最初から間違っているのにいくら探してもある訳がありません。奈良にある寺院でも昔は九州にあって奈良に遷したと主張している方がおられますが、伽藍全体の移築は不可能、立証実験でも行ったのでしょうか?本尊や経典、寺宝のみなら可能かもしれませんが、これだけなら移築とは言わないでしょう。あと一つ疑問に思っていることは九州王朝説なら先進技術を持った渡来人の集団が北九州を通り過ぎて、畿内の摂津や河内に定住する事態に対して、指をくわえて傍観してるのが理解できません。自分が九州の王なら黙って傍観せずに、筑前はおろか、豊前、筑後、肥前地域に定住するよう働きかけするのでは。それが出来ないということは九州王朝は架空の存在なのでしょう。仏教伝来以降は九州王朝説は確実に虚構のもの。もっとも弥生時代初めは九州王朝も実在した可能性は否定しないと思います。
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九州王朝が国分寺を造った (名無し)
2018-05-30 12:27:32
国分寺は九州王朝が造った。国分寺の伽藍で特に塔の配置が南北軸に対してぶれてるケースが多く、これは伽藍の工事に違う構想、規格で作られたから九州王朝の国分寺と主張する人達がいます、まず九州王朝が造った国分寺と主張するまでに、国分寺の全身寺院が当時各地の有力豪族、在地首長層の建立した氏寺、私寺の可能性を全く考慮に入れていません。国分寺発掘で白鳳瓦が出土することがあって考古学者も悩ましています。聖武天皇の国分寺建立の詔は七重塔を建設せよ、金光明最勝王経と妙法蓮華経を写経して塔に納めよであって、詔には直接国分寺を建立せよとではないので、これらの根拠を持って九州王朝が立てた国分寺と主張するのです。私は国分寺建立の前に何らかの全身寺院(有力豪族の氏寺)があったのではないかと考えています。だから白鳳瓦が出土しても不思議ではないのですよ。国分寺の伽藍敷地は国分寺建立前は何もなかったと考えがちですが、寺院建立に適した土地そうそう限られているのではないでしょうか?寺院建立に適した土地かどうか、一番良く知っているのは地元の住民、在地首長層、地元の豪族ですから国分寺の伽藍敷地に氏寺、私寺が存在してても不思議ではないでよ、塔がよく南北軸からぶれてる事例は全身寺院の創建塔を造り替えて七重塔を建設したから起こったことではないでしょうか?寺院における塔は創建塔を尊ぶ気風がある。塔が焼失しても再建にあたって創建塔跡を利用して再建する事案が多いのです。 (例外なのは、法隆寺の若草伽藍と西院、下野薬師寺)
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九州王朝説信奉者の態度 (名無し)
2018-05-30 12:51:36
仏教伝来以降の九州王朝説信奉者は全く畿内の古代寺院には関心を持っていません。まるで存在しないという姿勢です。そして九州から移築してきたと主張します。畿内の古代寺院跡からは多くの出土品が発見されるのに、九州ではそんなに出土していません。大和の飛鳥寺の塔跡の芯礎からおびただしい舎利荘厳具、鉄甲冑が発見されているのも関わらず、福岡県小郡市井上飛嶋にあったと主張しているのです。そこから移築したそうです。全て移築できるとは到底考えられません。
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