頑固爺の言いたい放題

森羅万象なんでもござれ、面白い話題を拾ってレポートします。

日本食レストラン業界を牽引するノンジャパニーズ

2021-09-28 16:23:05 | メモ帳
昨日(9月27日)の読売新聞は、外食大手が海外への出店攻勢を強めているという趣旨の記事の中で、「海外の日本食レストランは約156,000店(2019年)で、2013年の3倍近くに増えた」と報じている。念のため<海外の日本食レストラン数>で検索したところ、農林水産省のHPに次のデータが見つかった。

アジア                          101,000
北米                                29,400
欧州                                12,200
その他                            13,600
合計                              156,200

同データによれば、全世界の日本食レストラン数は、13年前の2006年対比6.5倍となった。通常、レストランの店舗数は人口の自然増程度しか増加しない。だから、13年間に6.5倍になったのはとてつもない急成長なのである。

本論に入る前に、なぜマスコミが「日本食レストラン」という用語を使うかについて説明しておきたい。

Chinese restaurant の日本語訳が「中国料理店」であるのと同様、Japanese restaurant の日本語訳は「日本料理店」のはずである。しかし、海外ではラーメン店、牛丼店、「牛角」のような焼肉店もJapanese restaurantのカテゴリーに入れており、こうした料理は日本人の感覚では日本料理ではない。そこで、「日本食レストラン」という用語が考案されたと考えられる。

さて、日本食レストランの急増が始まったのは1970年代の後半、米国においてである。それまでは日系人が日系人と日本企業の駐在員を相手にする店が大半だったが、寿司ブームが起きて、にわかにアメリカ人が寿司店に押し寄せるようになった。

なお、寿司ブームは健康志向の高まりとともに、日本製の車・カメラ・TV受像機などの品質が高く評価されるようになったことで、日本そのものに対する信頼感が生まれたことが背景にあった。

その寿司店急増の原動力は中国系アメリカ人だった。当時、中国料理店は過当競争状態になっていたため、中国人のオーナーシェフが寿司に転向したのである。彼らは日本人経営の店で寿司の調理法を学んで新しい店を開き、その店で学んだ別の中国人がまた新しい店を開いた。つまり、中国人の間で、ねずみ算式に寿司店が増えたのである。そこで発生した問題は調理技術の低下だが、これについては別の機会に譲る。

その後、鉄板焼きやラーメン、牛丼なども人気を呼び、日本食レストラン業界が多角化したことも、店舗数の増加をもたらした。そして、日本食ブームは米国東海岸から、大西洋を隔てた欧州に飛び火した。

そうした中、韓国人、タイ人、ベトナム人なども、コメに馴染みがあることや、日本人の振りをしてもアメリカ人にはわからないこともあり、人気がある日本食レストラン業界に参入した。

2005年時点*で北米(米国・カナダ)に約10,000店あった日本食レストランの内、約40%が中国人の経営だった。そして日本人と韓国人の経営がそれぞれ15%、残りの30%がタイ、ベトナムなどのアジア人と白人だった。

*注 「2005年時点」としたわけは、その時まで爺は米国の日本食業界に関与していた関係で、当時のデータが手元にあるため。

2000年代以降、グローバルな視点でみると、日本食店の増加はアジア、特に中国で加速したようだ。冒頭に引用した読売新聞の記事によれば、回転寿司店の「スシロー」が広州にオープンし、1時間以上の待ち時間になる繁盛ぶりというが、こうした日本資本の店は全体から見ればほんの一部で、中國ではほとんどが中国人がオーナーシェフの店と思われる。

一般論として、エスニック料理店はその民族がオーナーシェフであるのが通例だが、日本食レストランだけは例外で、全世界的に見れば、日本人経営の店は1%程度ではなかろうか。つまり、ノンジャパニーズが業界の急成長の主役であるという点で、日本食は特異な存在なのである。


丁寧語システムが崩壊した韓国

2021-09-25 17:33:56 | メモ帳
1週間ほど前、このブログで「させて頂く」を乱用する政治家を批判したが、韓国では敬語・丁寧語の乱用が日本どころではないらしい。次の文例をご覧いただく。(「日本語の行間」扶桑社新書、シンシアリー著 から引用)

「コーヒーがいらっしゃいました」
「価格は〇〇ウォンでいらっしゃいます」
(ゴルフ場でキャディーが)「ボールがバンカーに落ちられました」

この問題に関するシンシアリー氏の見解を「日本語の行間」(以下、本書)から、かいつまんで引用する。(青字)

AとBが会話する時、Bが目上ならAはBに対して、尊敬の意を示すために謙譲語、丁寧語を使う待遇を与える。これを「尊待(ジョンデ)する」と言う。Bが目下なら、くだけた口調で上から目線の言葉使いになる。これを「下待(ハデ)する」と言う。AとBが対等な立場なら、「平待(ピョンデ)する」となる。

尊待する側は常に尊待し、下待する側は常に下待する。子どもならともかく、大人同士ならなにかしかの上下関係を適用し、「平待」になることはない。この上下関係を決める要素は、生年月日、職業、職位、性別、教育水準、乗っている車、住んでいる場所、着ている服、親や配偶者の職業、など無数にある。

自分が相手より上であると思うことで自然に、侮蔑、軽蔑、差別の感情が生まれる。

だれもが尊待されたいと願い、下に位置する側は相手が「尊待されたい」と願っているはずだ、と忖度する。モノに丁寧語を使うのは、間違った語法だと知っていても、そういう表現にしないと、会話の相手が気を悪くすると考える。その結果が敬語・丁寧語の乱発なのである。

日本人も相手をリスペクトする場合は敬語や丁寧語を使うが、韓国人の敬語・丁寧語はそんな生易しいものではなく、常に相手が自分より上か下かを判断することから始まるようだ。

そもそも、「相手よりも自分の方が上だ(下だ)」と思っても、「だから何?」と聞かれれば、われわれは答えようがない。

例えば、同期入社の同僚よりも数日早く生まれたことで上になっても、別にどうってことはない。しかし、韓国では違うようだ。

ましてや、その上下関係が侮蔑、軽蔑、差別の感情に発展すると言われても、なぜそうなるのかよくわからない。

シンシアリー氏は「日本語を覚えて初めて敬語の意味を理解した」と述べているが、これは韓国語の敬語には相手をリスペクトする感情が込められていないという意味だと解する。





平成天皇の訪中、その背景と影響

2021-09-22 17:01:26 | メモ帳
今回は前々回の「中国共産党 暗黒の百年史」(本書)の書評の続編であり、本書に記された中国の反日運動に関する石平氏の見解について考察する。

以下、石平氏の「中国の反日運動」観をかいつまんで紹介する。(青字)

1989年の天安門広場における大虐殺事件で、中国は世界から孤立し、西側諸国による経済制裁によって、経済崩壊が起こりかねない状況にあった。その中国を救ったのは、江沢民総書記などが宮澤喜一内閣に執拗に働きかけて実現させた平成天皇の訪中である(1992年)。

天皇の訪中を契機として、日本は対中制裁を解除し、他の西側諸国も追従した。天皇訪中は中国にとり、その後の発展の突破口となったのである。それからの30年、中國は経済の高度成長をなしとげ、GDPで世界第二位の経済大国となり、日本の安全保障を脅かす軍事大国にのし上がった。

立場が逆転した中国はその後、日本を見下すようになる。1998年に来日した江沢民主席は滞在中、終始威圧的且つ横暴な態度を貫いた。極めつけは、宮中晩餐会で出席者全員が礼服を着用する中、ひとり人民服で列席し、「日本軍国主義は対外侵略の誤った道を歩んだ」と言い放った。

そして、江沢民政権は国民の求心力を高める方策として、反日運動を中心とする愛国主義精神高揚運動を推進した。日本を悪魔的存在ときめつけ、メディアを利用して国民に日本への憎悪の感情を煽り立てた。愛国を題材にする歌、本、映画が作られ、学生たちは全国に350ヵ所ある抗日記念館を見学することを義務づけられている。

2005年、国連のアナン事務総長が日本の常任理事国入りを示唆すると、中國各地で数万人単位の暴動が起き、北京や上海では日本の公館襲撃事件に発展した。暴徒は日本に対して抱いている人種差別的な偏見と憎悪感情により一種のヒステリーを起こし、日本の常任理事国入りに感情的に反発したのである。この「理由なき反日デモと暴動」は、まさに1990年代以来中国共産党政権が行ってきた反日教育の大いなる成果であり、反日運動の総決算というべきである。

そうした中、習近平国家主席は「中華民族の偉大なる復興」というスローガンを掲げて、アジア支配と世界制覇の野望を露わにした。このスローガンの意味するところは、かつての中華帝国の威光を取り戻し、共産中国を頂点とする新しい「華夷秩序」を形成することである。

今、振り返ってみると、1992年の平成天皇の訪中は、日本にはメリットが少なかった反面、中国にとってはまさに起死回生の策だった。だからといって、中國が日本に感謝したわけではない。むしろ、恩を仇で返す形で反日運動を仕掛けた。それを元中国人が語っていることが興味深い。

では、日本政府はなぜ天皇の中国訪問を受け入れたのか。日本が「お人好し」だったことは確かだが、それだけとは思えない。そこで思いつくのは先の戦争に対する贖罪意識である。

当時の日本は、中國や韓国の言うことは、多少の無理難題でも受け入れようという精神状態になっていたのではなかろうか。天皇訪中(1992年10月)の同年1月、慰安婦日本軍連行説に激昂した韓国人の暴動に対し宮澤首相が何度も謝罪したのは、朝日新聞の嘘を信じたこともあるが、基本的には宮澤氏の深層心理に、戦争に対する贖罪意識があったからだと想像する。さらに、記事を書いた朝日新聞の記者にも贖罪意識があったのだろう。

そもそも、日本国憲法が日本人に贖罪意識を植え付けた。前文の、<平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した>は、次のように解釈できる。<悪い戦争を起こした我々悪い日本人は、善人である諸国様の善意にすがって生きさせていただきます>。*

*(注)この解釈は「性善説に蝕まれた日本」(ケント・ギルバー著)からの引用。

さて、コロナ禍が起きなければ、習近平国家主席は2020年3月に国賓として訪日し、天皇にも拝謁していたはずだった。この来日未遂は<お人好し+贖罪意識>に<経済の結びつき>が加わった結果だろう。また数カ月前、中国共産党の結党百周年に祝電を打った日本の政治家が数人いたが、その様は殴られても、コケにされても、揉み手ですり寄っているようで、見苦しいことこの上ない。習近平の高笑いが聞こえてきそうである。

こうした中、米中対立の激化などいろいろな事件が発生し、中國の国家主席が訪日する可能性はなくなった。しかし、経済面での深い結びつきがある以上、中國と今後どう向き合っていくかは日本に課せられた難しい課題になっている。


地域商品券は税金の無駄使い

2021-09-20 11:20:24 | メモ帳
自民党総裁選で新型コロナ対策や年金改革などいろいろな課題に論戦が交わされている。問題はどの案件でも、何兆円単位の莫大な予算を必要とすること。一方、いずれの候補者も消費税を上げることは考えていないようだ。それはいいとして、その莫大な予算をどう手当てするのか。

結局、国債発行に頼ることになるのは自明である。国債が国内で消化されている限り、日本経済はパンクしないという議論もあるが、それでも野放図に赤字を増やすわけにはいかない。政治家は票にならないことは言いたがらないが、無駄な支出を減らすことも考えなくてはならない。

その無駄削減策の一つとして、地域商品券の廃止を提案する。

爺の住む湯河原町では、500円券11枚綴りの地域商品券が5,000円で買える。1人3万円が限度だから、限度いっぱい買えば、3千円の節約になる。毎回、販売開始と同時に売り切れになるので、最近は予約制になった。なお、冒頭に「湯河原では」と書いたが、この地域商品券制度は全国ほとんどの市町村で実施されているはずだ。

この制度の目的は、「個人消費の喚起と地域経済の 活性化を図り、地域の振興に資すること」(内閣府ホームページ)であるが、実際にはその目的が達成されているとは思えない。なぜなら、消費者は日常の買い物において10%安く買えるからといって、消費量を増やすことはないからである。中には、より高額の商品、例えば純米酒でなく吟醸酒を選ぶ、といったケースもあるだろうが、たかが知れている。

節約できた分はなにかに使われるはずだから、それだけでも「個人消費の喚起」になるという議論もあるだろうが、小田原へ行って映画を見たら「地域経済の振興」にはならない。銀行預金残高を増やすだけに終わってしまう家計もあるだろう。

プレミアム部分(節約額)が呼び水になって、経済を拡大する効果があるなら話は別だが、それは期待できない。しかも、そのプレミアム部分の原資は税金であり、国民経済全体から考えれば、よくてプラスマイナスゼロか、もしくはマイナス(銀行預金を増やす場合)である。

要するに、地域商品券は単なるバラマキにすぎない。誰も廃止を提案しないから、惰性で続いているだけではないだろうか。

地域商品券の国の負担額は1回数千億円であり、決して少ない金額ではない。この数千億円はコロナ禍で疲弊した飲食業・宿泊業などの差し迫った分野に配分すべきである。

「中国共産党 暗黒の百年史」書評

2021-09-17 17:16:04 | メモ帳
「中国共産党 暗黒の百年史」(石平著、飛鳥出版 2021年7月発行)には “えっ、そうだったの? 知らなかったなぁ!” という話が満載である。その内から、いくつかの話題をかいつまんで紹介する。(青字)

▼共産党は情報戦で国民党に勝利した
今でこそ、国民党が台湾に逃げて中国は共産党の独裁になっているが、中國で共産党が生まれたのは1920年であり、1949年まで29年間にわたり国民党と戦った結果である。

その最大の勝因は、共産党が国民党の内部情報を入手したことである。その手口は、共産主義を信奉する優秀な青年を選んで、国民党に入党させることに始まる。その工作員は才覚と努力で国民党幹部の信頼を勝ち取り、出世して機密情報を自由に入手できるようになる。日本の敗戦後に本格化した国民党との戦闘においても、この機密情報が勝利に大きく貢献した。

情報戦略は今でも中国共産党の得意とするところであり、例えばオーストラリアにおける諜報活動は「目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画」(クライブ・ハミルトン)によって暴露された。

秘密裡に工作員(つまりスパイ)を相手の中枢に送り込む以外にも、公然と情報戦を展開するケースがある。例えば、日本にもある孔子学院で、学生たちを洗脳しているのがそれである。

また米国のマイク・ホンダ下院議員は、2007年に米国下院議会で行われた「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」の代表提案者であるが、彼は中国の代弁者として、合法的に日本と米国の離反工作を行ったと考えられる。すなわち、情報戦における中國の勝利である。

▼中国共産党は殺人集団
毛沢東が率いる紅軍は、中國全土で「一村一焼一殺」のスローガンのもとに、農村地主や素封家を殺して、その財産を没収した。1928年から始まる5年間で、全国で10万人の富裕層が殺された。

1948年、日本敗戦後の満洲で、長春市内に立て籠もった国民党軍と市民に対して、共産軍は周囲を囲んで兵糧攻め作戦を展開した。籠城以前の長春の人口は50万人だったが、33万人が餓死して、生き残ったのは17万人だった。

共産党が内戦に勝利したあとの1950年には、かつての「一村一焼一殺」運動が再現され、全国で200万人もの富裕層が殺された。

きわめつけは1966年から10年間の文化大革命。この時期に殺されたのは数百万人とも数千万人とも言われ、実数は不明である。

世界史を見れば、異民族を理由もなく虐殺することは珍しくない。米国における白人の先住民虐殺や、古くは十字軍戦争である。しかし、罪もない同じ民族を虐殺するのは中国人の特質ではないだろうか。少なくとも、日本では稀である。精々、織田信長による比叡山の僧侶大虐殺ぐらいで、現代では到底考えられない。

しかし、中國では文化大革命のごとく、現代でも大虐殺が行われる。ましてや、相手が異民族となれば、虐殺は日常茶飯事である。チベットでは120万人、内蒙古では5万人が虐殺されたと言われる。また、ウィグルにおける女性に対する不妊手術の強制も、実質的には虐殺のようなものである。

さて、「中国共産党 暗黒の百年史」を読んでいて疑問に思ったことは、信じられないようなエピソードがすべて真実なのか、ということ。

石平氏は1962年、中国四川省成都の生まれ。1984年北京大学哲学科を卒業、1988年来日、1995年神戸大学大学院博士課程修了、2007年日本国籍取得。以後、執筆活動に入る。「なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか」(PHP新書)など数々の著作があり、HANADA、WILL、正論などの論壇誌や産経新聞にも頻繁に寄稿している。

経歴からして信頼すべき人物と判断する。また本書におけるエピソードは全て実名入りで、発生年月日も入っており、全部ではないが引用文献も記されている。

ということから、本書の記述はすべて真実に基づくと判断する。


野党はどこに向かうのか

2021-09-16 11:24:25 | メモ帳
立憲民主党の枝野代表は、自民党の現状を「総裁選と称する内部の権力争いにうつつをぬかしている状況」と批判。「適時適切に対応していけば救える命や後遺症を防げるケースがたくさんある。(自民党の)総裁選は午後5時以降にして、きちっとコロナ対策を進めてほしい」と訴えた。(産経新聞より)

最近、マスコミ報道は自民党の総裁選を大きく報じて、野党の影が薄いから焦るのはわかるが、総裁選の選挙活動を5時以降に絞ることは不可能である。それに、立候補者の内で、コロナ対策の実務に携わっているのは河野太郎氏だけだが、それもワクチンの手配が主だから、感染者の命に係るほどの仕事を担当しているとは思えない。コロナ問題の司令塔である菅首相はコロナ問題に重点的に対応していると判断する。つまり、この発言はやけくその言いがかりとしか感じられない。

では、立憲民主党は何を考えているのか。1週間ほど前になるが、もし次の衆議院選挙で政権交代を実現した場合、枝野内閣の初閣議でただちに決定する事項として、次の7項目の政策を発表した。

(1) 補正予算の編成(コロナ対策少なくとも30兆円)
(2) 新型コロナ対策 (司令塔の設置)
(3) 2022年度予算編成の見直し
(4) 日本学術会議で任命拒否された6人の任命
(5) 入管施設でのスリランカ人死亡の関係資料公開
(6) 財務省の文書改ざん問題をめぐる赤木文書関連文書開示
(7) モリ・カケ・桜を見る会問題の真相解明チームの設置

爺は今のところ自民党を支持しているが、岩盤支持者ではなく、保守的無党派である。実際に、政権交代が起きた2009年の選挙では、選択に困って「みんなの党」に投票した。

その立場で、この7項目の政策を見て感じたことは次の通り。
(イ)(1)~(3)の案件に比べて、(4)~(7)の案件は重要度がかなり低い。これらを同列に並べたことには違和感がある。
(ロ)モリ・カケ・桜の案件については、すでに事実関係は出尽くしたのではないか。今さら何を引き出そうとしているのか。

立民党が政権交代を狙うのであれば、いかにして無党派層を取りこむかが最大優先事項のはずだが、上記の発言からはそのように意思が感じられない。少なくとも、爺がこの発言によって立民党支持に変わることはない。

重要度からすれば、コロナ感染の再拡大に備えて経済活動を制限する法案の必要性とか安全保障などの課題があるが、これらはすぐさま閣議決定できる性質の事案ではないということで、はずされたのだろうと解釈する。それならば、この7項目を発表した目的は何だったのか。

枝野代表は野党候補者の一本化によって、当選者を増やすことを画策しているが、だからといって本気で政権交代を目指しているかどうかは疑わしいと思わざるをえない。野党が与党の暴走を防ぐことは歓迎するが、発言力が強くなりすぎると、国の進むべき道を誤らせることになりはしないかと懸念する。


「させて頂く」の乱用は慎むべし

2021-09-13 15:20:52 | メモ帳
つい最近、TVのニュースショウに出演した高市早苗氏が「靖国神社を参拝させて頂きました」と言った。これは「靖国神社に参拝しました」で十分であり、「させて頂き」は余計である。少なくとも、この英訳は不可能であり、不要である。

敬語は日本の文化である。しかし、過剰に丁寧だと発言者の確固たる意思が曖昧になるし、冗長である。そもそも、「させて頂く」は「お言葉に甘えてそうさせて頂きます」のごとく、相手または関係者の意向に沿って行動するという謙譲的表現だったが、最近はただの丁寧語になった。それはそれでやむをえないが、乱用は誤解を招くから慎むべきである。

「させて頂く」を乱用する代表的人物は安倍晋三氏だが、安倍氏に限らず、政治家全員が然りである。選挙演説の時に立候補者が有権者に阿るためにバカ丁寧な言葉使いをするから、それがいつしかそれが口癖になったと思う。だから、国民全員がその真似をして、「させて頂く」をごく日常的に使うようになり、謙譲語が単なる丁寧語に変化した。

さて、爺は高市氏が次の総理大臣としてもっとも適任だと評価している。その理由は、同氏の経済政策が現状ではもっとも適切であること、そして国家観がしっかりしていてぶれないこと、である。

以前、このブログで次の総理大臣の適任者として河野太郎氏を挙げたことがあるが、いくつかの理由により撤回する。その理由を述べると長くなるので省略するが、その一つはおやじさんの「河野談話」を踏襲すると明言していること。せめて、“検討課題”にしてほしかった。

脱線ついでに、石破茂氏の態度を論評したい。「出馬するかどうかは白紙です」と言い続けているが、その態度は決断力に欠けることを意味する。いざという時、こんな人物が総理では即座に対応しかねるのではないかと懸念する。

本題に戻る。一部の国民が外出自粛に応じない件で、マスコミが「菅首相の言葉が国民に届いていない」と批判した時、爺は「悪いのは国民だ」と述べたが、菅首相の言葉使いが丁寧すぎて、迫力に欠けた部分もあったと思う。だからといって、高飛車な言い方でもマスコミは批判するだろうから、その塩梅は難しいことではあるが。

ともかく、日本の政治家は「させて頂く」に限らず、言葉使いが丁寧すぎる。特に、総理大臣ともなれば、もっと上から目線の命令口調でいい。もし、高市氏が総理大臣になった暁には、ぜひ言葉使いを見直して頂きたいものである。





朝日新聞の身勝手な社説を糾弾する

2021-09-10 15:39:15 | メモ帳
たまたまネットで<朝日新聞 社説>と検索したら、「慰安婦30年、被害者の救済が原点だ」という見出しの9月8日付の社説がでてきた。今回はこの社説をテーマにするが、部分的に引用すると「都合のいい部分だけ抜き出した」と誤解される懸念があるので、あえて全文を引用する。(赤字)

韓国人女性の金学順(キムハクスン)さんが、日本軍の慰安婦だったと名乗り出たのは、30年前の夏だった。重い証言を機に、日本政府の調査や市民らの支援活動、日韓双方での研究が活発化した。しかし、今なおこの問題は政府間の懸案であり続け、両国間の一部で極端な言説も飛び交う対立点になっている。

日本政府は1993年の「河野談話」で、旧日本軍の関与の下、慰安婦だった女性らの名誉と尊厳を深く傷つけたとして、反省と謝罪を表明した。政府は今も談話を堅持している。その後に設けられた「アジア女性基金」では日本から民間の寄付などが被害者に送られた。だが韓国では、日本政府の責任逃れだとの反発が起き、成功とは言い難い結果に終わった。

そして6年前。日韓は慰安婦問題での政府間合意を発表した。日本政府の予算により、心の傷を癒やす措置も盛り込んだが、後任の文在寅(ムンジェイン)政権は、この合意を骨抜きにした。

歴代の日本政府が謝罪を重ね、償いを試みたにもかかわらず、問題が前進しないのはなぜか。日韓双方はいま一度、冷静に考える必要がある。文政権は、合意が「被害者中心になっていない」と疑義を投げかけたが、具体的な改善策などは示していない。

日本側でも誠意を疑わせる言動があった。安倍前首相は、被害者に手紙を送ることについて「毛頭考えていない」と国会で答弁し、韓国側を刺激した。

そんななかでも専門家らの研究は続いており、慰安婦の実態は多様だったことがわかってきた。当時の経緯は、資料や証言に基づいてしっかり解明され、継承されるべきものだ。

金学順さんの証言が明らかにされた際は、韓国の市民団体が大きな役割を果たした。その後も、女性の人権問題を普遍化させ、活動の幅を広げた。

ただ、近年の政府間対話が停滞した要因には、これら市民団体の抵抗があった。日本の法的な責任追及にこだわるあまり、償いの受け入れを拒むよう女性らに働きかけることもあった。

被害者の傷を癒やす事業への向きあい方は、当事者の意思にゆだねられるべきなのは言うまでもない。救済を最優先にする原点を、日韓両政府とも見失ってはなるまい。

慰安婦合意はいまも破棄されていない。双方が重視する事項は、当時の両外相の発表に明記されている。負の歴史を乗り越える意思を交わした意義を、改めて認識すべきではないか。

掘り起こされる歴史の事実を謙虚に双方で共有しつつ、和解と前進の努力を高めていく。そんな姿勢が求められている。

この社説の最大の問題点は、朝日新聞が2014年に<朝日新聞は長年に亘り、“慰安婦は日本軍に拉致された”と報じてきたが、それは誤りだった>と誤報を認めたことにまったく触れていないことである。

そして、同紙は「日本政府は1993年の河野談話を堅持している」と述べているが、「河野談話」は<拉致>の誤報を前提にしたものであり、本来は、日本政府は「河野談話」をとっくに撤回すべきだった。

しかし、「河野談話」は放置されてきた。その理由は、2014年当時すでに、<日本軍による拉致>は国際社会の共通認識として定着していたので、「河野談話」を撤回すると「歴史の修正」だと非難される懸念があったからである。

今なお慰安婦問題がくすぶり続けるのは、韓国人が<日本軍による拉致>を未だに信じているからである。2015年の「慰安婦合意」は、当時のオバマ政権(副大統領はバイデン氏)の圧力によって生まれたものだが、この「合意」も<拉致>を暗黙の前提にしていたから、根本的解決をもたらすものではなかった。

朝日はこの社説で「被害者の救済が原点」と主張するが、「被害者」がいるなら加害者は誰なのか。いうまでもなく、その答えは「日本軍」であろう。つまり、朝日は2014年の誤報を認めていないも同然なのである。

今、朝日がするべきことは、韓国人に対して、そして国際社会に対して、「日本軍による拉致」は誤りだったことをしっかり伝え直すことである。韓国人が<慰安婦拉致>を信じている限り、この問題は根本的解決には至らないのである。

もし、朝日がクオリティーペーパーを自認するなら、過去のミステークの禍根をしっかりと断ち切るべきである。



オリパラ:メダル獲得の原動力はなにか

2021-09-07 16:02:43 | メモ帳
パラリンピックが終わった。各国のメダル獲得数は、中国が金で96個(2位は英国の41個)、総数で207個(2位は英国の124個)と断然他国を引き離しての1位だった。

一方、日本は金が13個、総数が51個で、ともに11位だった。その11位は人口の順位でもある。しかし、メダル獲得数が人口に影響されるとしても、人口に比例するはずがない。

では、オリンピックではどうだったかというと、米国は金で39個(第2位は中国の38個)、総数では113個(中国は88個)で、ともに第一位。日本は金が27個で米中に次ぐ3位、総数では58個で米中、ロシア、英国についでの第5位だったから大健闘だった。

さて、メダル獲得の原動力はなにか。まず、その国でスポーツが盛んであることが必要であるが、それには文化水準が高く、所得水準が高くなくてはならない。低所得ではアスリートがスポーツに打ち込む余裕がないし、観客がスポーツを観て楽しむ余裕もないからである。スポーツ施設が整っていることも必要だが、これは所得水準や文化水準に影響される。つまり、メダル獲得数は、人口以外に国の文化水準や所得が影響している。

こう考えると、米国や英国のメダル獲得数が多いことが納得できるが、不可解なのは中国である。中国の人口は世界一であり、GDPも米国に次いで第2位だが、貧富の差が激しく、人口の1割に富が集中していると言われる。中國の人口は13億人前後だから、1割といっても1億3千万人であり、日本の人口よりも多い。

したがって、中國のメダル獲得数が日本より多少多い程度なら納得できるが、それが米国並み(オリンピック)とか、はるかに多い(パラリンピック)となると、不自然である。なぜそんな不自然なことが起きるのか。その答えが、「月刊 HANADA」10月号の記事にあった。

その記事とは、百田尚樹と石平両氏の対談「中国共産党は史上最悪の寄生虫」と福島香織氏の「現代中国残酷物語」である。二つの記事から今回のテーマに関わる部分を抜き出してまとめると次のようになる。(青字)

中国では、素質のある子どもたちを全国からかき集めて、体育学校と称する訓練センターに入れて、朝から晩まで猛烈な特訓を行う。主に農村地帯の貧困家庭が子どもの供給源である。国語や算数などの基礎知識は教えず、体操なら体操だけ、卓球なら卓球だけを延々とやらせる。

しかも、体操選手なら体が小さい方が有利なので、ホルモン剤で成長を抑えることもあるらしい。また、重量挙げや陸上競技では、女性でも男性と見間違うような体格の選手がいるが、これは筋肉増強剤の投与によるものと言われている。

問題は、多くの子どもたちが中途で放り出されること。オリンピック選手になるのは、ほんの一握りの子どもたちで、ほとんどは中途で排除される。その子どもたちは社会適応力がないから、裏社会に入るか、乞食になるしかない。

幸いにして、オリンピック選手になっても、勝てば国家の宝としてもてはやされるが、敗けると国家の恥、非国民と罵倒される。挙国一致で養成される選手たちは、権威主義体制の生贄(いけにえ)なのである。

そういうことであるなら、オリンピックにおける中國のメダル獲得数が米国並みに多かった謎が解ける。しかし、それではパラリンピックにおける中国のメダル獲得数が欧米並みどころか、ダントツだったのはなぜか、という疑問が残る。

そのわけは、中國では障害児にも健常者のアスリート以上の苛酷な訓練が行われる一方、欧米諸国や日本では障害者の訓練施設がある程度整っているため、アスリート志望者が少なく、中国に比べて選手層が薄いのではなかろうか。これは想像にすぎないが、これしか理由を思いつかない。

今後もこの状況が続くだろう。日本は民主主義国家とメダルを争うのはいいが、メダル獲得至上主義になる必要はないと考える。


菅首相退陣の原因とその影響

2021-09-04 16:03:53 | メモ帳
菅首相が近々行われる自民党総裁選に出馬しないと表明した。後に控える総選挙で菅首相では勝ち味がないと懸念する若手議員がかなりいることもあり、総裁選で敗れる可能性が高いと踏んで、不出馬を決めたのだろう。菅首相としては当然の決断である。

これに対し、野党は「首相は無責任」(立民党の枝野氏)とか「首相の政権投げ出し」(共産党志位氏)と批判しているが、もし菅氏が自民党総裁選で敗れて退陣した場合は、「無責任」とも「投げ出し」とも言えないはずだ。相変わらず、論理性に欠ける人たちである。

さて、首相はGO TOキャンペーンや緊急事態宣言のタイミングで迷走したが、誰であっても大差なかっただろう。ワクチンの一日百万回接種の枠組みを作ったことは評価できるが、肝心のワクチン入手が滞っては、“仏作って魂いれず“である。

ワクチンの入手遅延については、供給側としても日本だけ優遇するわけにはいかないだろう。これまでワクチンの国産化を怠ってきたツケが回ってきたわけだが、それは菅首相の責任ではない。

そこにもってきて、従来型のアルファ株が、感染力が強い変異株にとって代わられるという不測の事態が発生した。

要するに、菅首相はツキに見放されたのである。

こうした中、外出自粛に応じない人々が増えた。健康維持は国民が自分自身で判断すべきことだが、マスコミは一斉に“首相の言葉が国民の心に届いていないからだ”と首相を批判した。これは国民を批判したくないマスコミが、首相を悪者にしただけの印象操作である。

結論を申せば、運がなかったこと、そしてマスコミに印象操作されたことで、菅首相は退陣を余儀なくされたのである。

さて、菅首相は密室の中での長老たちの話し合いで選出されたが、今度は自民党総裁選によって民主的に選出される。国民は関与できないが、候補者たちの政策論争は大いに国民の関心を呼ぶだろう。そして、その後に行われる総選挙では、自民党は次期総裁の政策を旗印に掲げるだろうから、国民はその時、じっくり考えて臨めばいい。

菅首相の退陣は、日本の政治を本来あるべき姿にするいい機会をもたらしたと考える。


潮目が変わったコロナ感染

2021-09-01 10:23:12 | メモ帳
コロナ感染者が自宅療養中に死亡したとか、若年層を対象にしたワクチン接種で長蛇の列ができたなどのニュースにかき消されているが、最近感染者はかなり減っている。

読売新聞によれば、8月31日のコロナ感染者数は、全国が17,713人、東京都が2,909人だった。数週間前は、これらの数値はそれぞれ20,000人と5,000人を超えていたから激減である。一日や二日だけならいざ知らず、十日も続けば、コロナ禍の潮目が変わったと判断していいだろう。

オリパラ開催前、反政府派は外国人の訪日や人流の拡大により、感染が拡大するのではないかと中止を主張したが、現在の感染者減少傾向を見れば、オリパラの開催はコロナ禍とは無関係だったことは明らかである。

称賛すべきは、サッカー10試合を有観客で強行した宮城県の村井嘉浩知事である。村井知事は「誰にも相談せず、有観客を一人で決断した」とHANADA 10月号のインタビュー記事で語っているが、その胆力に敬服する。

こうした中、プロ野球は5千人を上限とする有観客開催を続けている。また五輪開催に反対した朝日新聞が主催した高校野球も、中止どころか応援団を入れて開催された。今にして思えば、オリパラも高校野球も5千人限度の有観客でよかったと思うが、これを嘆いても愚痴になるだけだからやめておく。

話が横道に逸れたが、緊急事態宣言で観光地の人影はまばらになったが、東京都内などの盛り場の人流は減っていないという。この状況は、観光の主力である年配者は自粛しているが、若年層は自粛要請を無視していることを意味する。

それでも感染者が減っているのはなぜか。その理由は、ワクチン接種が曲がりなりにも進んでいること以外には考えられない。

菅首相が一日百万人のワクチン接種を目標に掲げた時、野党は「そんなこと無理だ、できっこない」と嘲笑したが、現実には一日百万人以上の接種に成功した。それでも、ワクチンの供給が十分ではないことや異物混入の事故などにより、接種作業はスムースに進行してはいないが、広範囲に実施されたことで、感染者の減少につながった。ところが、マスコミは菅首相のこの功績を語らない。

では、諸外国と比べて、我が国のコロナ禍はどんな状況にあるのか。本日の読売新聞によれば、日本のコロナ死亡者は16,069人。死亡者が多い順に国を数えると、日本は22番目である。人口では11番目だから、日本は死亡者に関するかぎり、大健闘である。ところが、マスコミはこの事実も報じない。

その一方で、マスコミは「首相の言葉が国民に届いていない」と大合唱して、コロナ禍が好転しないことを菅首相の責任であるかのように叫んでいる。そうかといって、野党もマスコミも「こうしたらどうか」という提案をするわけでもない。

さらに、マスコミは冒頭に述べた感染者減少傾向に気づいているはずだが、無視している。感染者が減ると、“倒閣ごっこ”がうまくいかないとでも考えているのか。どう考えても、マスコミの態度は公平性に欠けると思う。

その結果、菅内閣の支持率は20%台に落ちた。“倒閣ごっこ”が行き過ぎて、野党の政権奪取も夢ではなくなった。だが、それでは日本という国の存亡に係る事態となる。この辺りで、マスコミには大局を観る方向に舵を切ってほしいものである。