黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

明るい日射しの中の御霊神社(県道3号線紀行・第3章)

2021-10-14 19:55:18 | 県道3号線紀行

晴れました

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ます。

あちゃあ、ちょうど小学生の集団登校に遭遇です

急遽、脇道に避難です。

ああ、怖かった

ボクは全然平気だよ

ひめちゃんたちは、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

厚い雲に覆われた赤城山は、その姿を現しませんでした。

 

 

 

新着記事です

 

上野国分寺から少し東に行くと、推定国府跡付近の史跡がいくつもあります。

まず、御霊神社です。

確かかなり前に訪問して、記事にしていたはずですけど、見当たりません

前回訪問時には、工事中でした。

どうなったかな?

確認に再訪です

 

近くのコンビニに駐車して、記憶を頼って歩きます。

付近の案内板があります。

でも、かなり古いもののようです。

手前が北です。

上野国分寺の南前の、まっすぐな県道はまだありません。

道は本来まっすぐではなかったようです。

ただ、史跡のだいたいの位置関係は、わかります

 

 

御霊神社に到着です。

あれ、すっかり新装開店という雰囲気です

西側にあるのが、一の鳥居ですね。

説明板も、しっかりあります。

ちょっと難しい

ここには、国府に仕える役人の指定を教育する学校があったんですね

そののち、室町時代の初め、総社長尾氏の氏神として建立されたんですね

今でも、長尾さんと深い縁があるようです

 

 

奥に武将の像があります。

こんにちは、初めまして

後ろには、「初代蒼海城主・長尾尾張守従五位下忠房公」とあります。

奉納は、令和庚子年皐月朔日(れいわかのえねのとしさつきついたち)です。

去年です

あらためて、初めまして、こんにちは

 

 

さてさて、社殿で参拝です。

きれいな新しい鳥居です

鬼瓦には、長尾氏の家紋・九曜巴です

2礼2拍1礼です

 

 

さて参拝が済んだところで、気になっていた庚申塔を確認です。

 

社殿の東から裏に回ります。

東はほとんど庚申塔ですけど、石宮がいくつか、馬頭観音が1基です。

裏から西にかけても、庚申塔だらけです。

接着剤の跡が目立ちます。

レイアウトし直されて、並べ替えられたのかな?

倒壊を防ぐ為に、しっかり接合されたのでしょう。

 

「さわるときけん」の白い文字が目立ちます

付近は、新興住宅地という感じになってます。

子どもが遊んで、怪我をしたら困りますものね。

説明板に「千庚申」の文字がありました。

まさか千はないでしょうけど、実にたくさんの庚申塔です。

さりげなく、しつこくなく、レイアウトされています

 

かつては、暗い林の中の御霊神社だったということです。

今では、明るい日射しの中の御霊神社でした

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千葉周作も詣でた妙見様(県道3号線紀行・総集編2)

2021-10-12 15:24:51 | 県道3号線紀行

昨日の夕方、ひめちゃんは小次郎パパとお散歩して帰ってきました。

おうちの門を入ろうとして、「あ、ケンくんが来る

ケンくんが、こっちへ向かってます

 

慌ててパパをそこらにつないで、お久しぶりのご挨拶です

お久しぶり、逢いたかったわ

ひめちゃんは、ケンくんが大好きなのです。

でも、パパはウチの娘に手を出すなとうなります。

 

久しぶりだね

バイバイ、そのうちにまた寄るよ

 

 

 

 

「千葉周作も詣でた妙見様」、改めて資料を探したり、アップしなかった写真まで眺めてみると、どうも勘違いしていた所もあります

かなりの部分リニューアルです

 

 

(2019年7月23日)

上野国分寺ガイダンス施設で、妙見寺(みょうけんじ)について聞きました。
是非に寄らなくてはと、細い細い道をナビのいう通りやって来ました。
駐車場に白線が引いてあります
何かイベントがあるのかな?

提灯の行列です。
イベントが近そうです。



説明板があります。



非常に古い神社のようです。

「西の建物が神社であり、東の者が寺院で或事は誰もよく知るところである。」とあります

知りませんでした



ウィキペディアによれば、
平将門の乱では、染谷川の戦いで苦境に追い込まれた平良文が不思議な声を聞き、導かれてついていったところ当寺にたどり着いた。そこで僧から七星剣を渡され、以来妙見菩薩の加護を受けるようになった。良文と関係の深い秩父神社、千葉神社は当寺から勧請されたものである。


平将門が新皇宣言をしたという、上野国府もすぐそこです
将門の乱の時に、血で染まった川が染谷川だとか、残念ながら確認してきませんでした
今度行ったら、確認してきます



山門から入り直しです
山門にも提灯の行列です。



左の門柱には妙見尊、右の門柱には妙見寺です

左に行くと神社、右はお寺と言うことですね。

 

夏祭りの案内があります。

訪問したのは、カメラの日付だと7月23日です。

とても終わった後とは、思えませんでした

日付をよく見なかったので、これからと信じてしまいました

 


左の階段を登ります

テントも設置されたままでした。





妙見尊を祀る妙見堂に到着です
静けさに包まれています。




脇に群馬町時代(現在は高崎市引間町)の説明板があります。

 


現在の社殿は、天保10年(1839)の再建だとあります。
そうすると、千葉周作が馬庭念流との騒動(文政3,1822)で上野を撤退した後の再建になります


千葉周作が詣でた社殿とは異なるようです




脇からの妙見堂です。



後ろからの妙見堂です。

彫刻が見事です

総社神社と同じ大工の作って、誰だろう?

 

一回りしてテントに出ました。



鐘楼堂のと間には舞台です


夏祭りの準備万端というところですけど、終わった後だったようです


ここは、みやま文庫『上州の観音札所』(内山信次、平成3)によれば、

廿三番 引間 三鈷山妙見寺 正観音 

 群馬県群馬町引間213

妙見寺は古くは七星山息災寺といった。現在正面の建物は妙見社で、寺ではなく神社であるが、社殿はまったく仏堂である。隣の寺が妙見寺である。一般の神社と神宮寺との関係とは違い、妙見寺の妙見堂と考えた方がよさそうだ。妙見神の本地は釈迦または観音とされる。

  夢もさめ迷ひもはれて妙見寺いろ香に法の中の道しば

 

御朱印はあるはずですけど、「御朱印を」というには、静寂すぎて諦めました

 



お寺の前から、駐車場に戻ります。


こちらの門柱は、「左・三鈷山妙見寺、右・天台宗」です。


お寺と神社が今でも一緒に存在していました

妙見信仰とは北辰妙見菩薩に対する信仰で、もともとは道教の北極星・北斗七星に対する信仰だそうです。
北天にあって動かない北極星(北辰)は宇宙のすべてを支配する最高神で、北斗七星はその乗り物で、人々の行状を監視し、生死禍福を支配するといいます。
そこから、北辰・北斗に祈れば、災厄をのがれ、福がもたらされ、長生きできるという信仰が生まれたそうです。

そうだったんですか


千葉氏は平良文の子孫ということです

 

 

 

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悲願の南大門・上野国分寺跡(県道3号線紀行・総集編1)

2021-10-11 14:52:32 | 県道3号線紀行

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

むむ、行く手に見えるは、戦闘的な面持ちの猫です

獅子くんは、もう戦闘モードです

猫くん、じっと見つめて視線をそらしません。

落ち着いて、庭石の上にジャンプ。

ここのうちの子かな?

バイバイ

 

高縄の集荷所を廻って帰ります。

まだ花いっぱい運動の花々が、元気に咲いています

 

おうちに帰ると、椿の花の中にカエルさんです。

まだ暖かいから、こんな風景もありですね

 

 

 

観音寺南(高崎市棟高町)の信号を、東に進路を取ると、まもなく巨大なイオンモールがあります。

イオンモールをすぎて暫く行くと、上野国国分寺跡の表示です。

道の北側に、まもなくありそうです。

こちら南からは訪問したことありませんけれど、北側からは何度か訪問しています。

そのうちに、また訪問したいと思っています。

とりあえず、2019年7月の訪問記事です

(過去記事のリメイクには総集編を付けます。)

 

 


遺跡に電話番号がないので、上野国分寺跡ガイダンス施設の電話番号をナビに入れて出掛けました。
ひたすら西に行きます。
大渡橋(おおわたりばし)で、利根川を渡ります。(県道3号線の北の幹線道路を行ったようです。)


しばらくして、ナビの指示通り右折すると、お寺に突き当たりました
いつか来たときも、そうでした
細い道を左折し回り込んで、なんとかガイダンス施設に着きました

ガイダンス施設でパンフレットをもらったり、いろいろな話を聞いたり、ビデオを見たりします

国分寺跡の大きな発掘調査は2度、昭和と平成に行われたそうです。
国分寺跡には、十数軒の民家があったそうですけど、移転してもらったそうです。

新しいパンフレットの国分寺のイメージです。



七重塔がそびえます
講堂は昭和の発掘では金堂とされましたけど、平成の発掘ですぐ前に金堂が発見されたので、講堂であることがわかったそうです。
全体が塀でかこまれていたのですね。


ガイダンス施設には、瓦の破片もいっぱいありました。

天平13年(741)、聖武天皇によって国分寺創建の詔が発せられました。
けれども、実際に建立するのは地方の実力者たちで、協力した証拠に瓦に文字塔を刻んだそうです
馬の字が逆さに刻まれた瓦の破片は印象に残りました

上野は七重塔を持つ国分寺を建立するほど、実力のある地域だったそうです



パンフレットにある国分寺の配置図です。



なんとなくイメージが湧いてきました。


外を見ると、塀が前に来たときより劣化しているように見えました
そして、ミスマッチな黄色い板が目立ちます



伝統的工法で作ったもので、記録によると300年後には崩れていたとあるので、監察しているのだそうです。

修理しないのだそうです
黄色いところは壊れたけれど、将来南大門を建てる予定があるので、とりあえず塞いでいるのだそうです



国分寺跡の紹介ビデオに、ちょっとだけひめちゃんちのある上野国山上の山上多重塔が出ていました
山上多重塔は、ほぼ東に車で約1時間の所にあるので、山上と国府・国分寺の関係も気になるところです



ついでに、先ほどお寺に突き当たって、やっと回り込んだ話をしました。
「妙見様を祀る妙見寺です。古いお寺ですよ。あの秩父神社もこの妙見様を勧請したそうです。北辰一刀流の千葉周作もお参りに来たそうです。」
「ええ、そうなんですか帰りにお参りしていきます


 

ガイダンス施設のあと、国分寺跡を歩きます。
南大門跡から入ります。



ここに壮麗な南大門があったんですね
そして、再建計画があるんですね

悲願の南大門です


廻る築垣(ついがき)を近くで観察です。





説明板もあります。



「古代と同じように土を固めて高く積み上げる版築(はんちく)という方法で復元してあります。」とあります。
さっき、ガイダンス施設でも、土をついて固めた話をききました。
奈良の人がきても、奈良より奈良らしいと感激してくれたという、ご自慢の築垣です


七重塔跡の方に行きます。



基壇が復元してあります。
説明板もあります。



七重の塔基壇と礎石の一部が、1200年以上経ってもここに残っていたとは

 

七重塔跡から、南大門跡を望みます。



さぞかし往時は壮麗な景色だったことでしょう



もう一ヶ所基壇が復元されています。
最初は金堂跡と思われていましたが、平成の発掘ですぐ前に金堂跡が発見されたので、講堂跡だとわかったそうです。

 

講堂跡から、七重塔跡と築垣をのぞみます



築垣の向こうの屋根は、ガイダンス施設です。

築垣の劣化があまり進まないうちに南大門が復元できるといいですね



上野国分寺は上野国府推定地のすぐ近くです。

僧寺の所が現在地です。

山王廃寺、国府推定地(蒼海城跡)、総社神社、総社歴史資料館、訪問してあります

記事は後日に

古代の道はまっすぐではなかったということで、少し外れても、県道3号線紀行です

 

 

南大門を出て、ガイダンス施設の駐車場に向かうと、妙見寺が見えます。



このあと妙見寺にも寄りました

 

 

あれから2年あまり、悲願の南大門は、まだ再建されていないようです。

そのうち、南の県道3号線からも訪問します



 

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棟高の観音堂(県道3号線紀行・序章3)

2021-10-08 20:13:20 | 県道3号線紀行

ひめちゃんと獅子丸は、おとうさんを連れてお散歩に出ました。

今朝は、タバサねーちゃんと小次郎パパがおかあさんとお散歩です。

晴れて気持ちいね

タバサねーちゃんも、ひめちゃんと一緒にシャンプーやさんに行ってきました。

湯上がり美女です

 

小次郎パパは、最近後ろ足がちょっと弱ってきました。

でも、頑張ってお散歩です

 

あれ、ひめちゃんちにも桜の返り咲きかな?

よく見ると、プラムの木でした。

返り咲きは初めてのことです。

 

 

 

 

県道3号線を西に何処までも行くと、「観音寺南」の信号に突き当たります。

近くに観音寺があるのです。

信号を右折し少し行くと、ありました。

 

『ぐんまのお寺 天台宗Ⅱ』(上毛新聞社、平成24)によれば、

観音堂―群馬郡群馬町

開山草創年代は不明であるが、観音堂付近に経塚・猪除け塚などが残っており、境内から板碑、五輪塔、宝篋印塔など中世石造物が出土している。中でも観音堂内蔵の元弘二年(1333)の板碑は、新田義貞の鎌倉攻めに従軍した兵士の供養塔と思われている。『堤ヶ岡村誌』には、千葉常将と船尾山衆徒との戦かまたは、武田・上杉の戦乱時の焼失説が述べてあるが、「文明九年(1477)七月、古河公方成氏が白井の長尾景春支援のために出兵し、広馬場・保戸(渡)田・観音寺辺を打ち上げられたとの説もある(『国府村誌』)。

現在の観音堂は、焼失した寺の付属物であったのを、近隣の人が再建し、嘉永六年(1853)に修復されたと記録されており、徳川期より聖護院宮を総本山とする本山派修験で、西国分村の大蔵坊の霞下(支配下)で華水山勧学院観音寺持ちとなっていた。

 

ここは、文化と戦の記憶がいっぱいのようです

 

 

灯籠のある参道から参拝です。

説明板があります。

観音寺は、明治十年に廃寺となりましたが、境内には観音堂と大師堂が残され貴重な文化財として、永代世話人はじめ多くの住民の法師によって守られています。

現役で活動している宗教施設なのです。

だから、『ぐんまのお寺 天台宗Ⅱ』にも載っているのですね

 

 

古い石造物と新しい石造物が、いい感じでコラボしています

みなさん手に薬壺を持っています

薬師如来の皆様です

合掌

 

 

さて、観音堂です。

長い歳月を感じさせる、たたずまいです。

のぞき穴にお賽銭を入れて、合掌です

失礼します。

現役でご活躍中ですね。

正面の龍が生き生きしています

ご本尊様は、あの厨子の中でしょう。

おや、天井絵です

かつてのにぎわいが偲ばれます。

 

 

御堂を一回りです。

あれ、獅子くん、ちょっと苦しいかな

裏は網が張ってありますけど、こざっぱりして落ち着いた雰囲気です。

一周してきました。

あの額にも、文字や絵があったのでしょう。

 

 

観音堂の裏は、石造物が集まってます。

鳥居もあります

工事中のようです

 

 

観音堂の隣に、大きな観音様です。

合掌

 

 

さて、観音堂の斜め前の建物です。

経蔵とあります。

しっかり鍵がかかってます。

観音堂板碑群の説明板もあります。

板碑が何枚もあるのですね。

この付近は、平安時代の終わり頃より、天台宗行者の修験場(寺)であった勧学院観音寺が有ったところとしても有名である。

 

文化は、もちろん東にも伝わって広がっていったことでしょう

 

 

斜め後ろに、大師堂です。

『ぐんまのお寺』によれば、

大師堂は、間口二間半・奥行き五間あり、中には、近隣信者の奉造による大師像二十四体が安置されている。

なんとなく多くの大師像がある感じです

合掌

 

 

あれ、大師堂の脇にも石造物です。

合掌

皆さん、これからどうなるのかな?

 

 

東の道は、県道25号線です。

何処まで行くのかな?

そのうちに、機会を見て行ってみましょう

廃寺になっても無住になっても、信仰を持った人々に支えられて、現役の観音堂です

 

 

すぐ南の信号・観音寺南から左折して東に、県道127号線が10号線になり、さらに3号線になります

文化と軍隊が上野国山上に来た道・県道3号線、この道の記事を新旧織り交ぜて、西から整理してみます。

しばらくお付き合い下さいませ

 

また、もちろん、時にはまったく別の話題も取り上げます

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三ツ寺の豪族が眠る八幡塚古墳(県道3号線紀行・序章2)

2021-10-07 19:50:43 | 県道3号線紀行

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出てお散歩してきました。

蕨沢川に架かる2番目の橋・巧橋を渡ります。

そのまま南下して、諏訪神社の脇を帰ろうとしました。

でも、ものすごい通勤ラッシュです

急遽、また蕨沢川にかかる3番目の、名前のない橋を渡って帰ります。

みんな急いで出勤してるね。

 

エンゼルトランペットの咲いている道を帰ります。

最近はよく見かけるようになりました。

でも、全体に毒を持っているとか。

 

突然、獅子くんがハンターに変身です

何がいたのかな?

おかあさんがリードを放してくれないから、狩りに失敗しちゃったんだよ

 

 

 

県道3号線紀行、次は、やはり三ツ寺の豪族が眠るという保渡田古墳群に行ってみなくてはなりません。

何度も行っているはずですけど、何故か記事がありません

先日、久しぶりに出掛けて見ました。

 

 

かみつけの里博物館の駐車場に駐車です。

予想外に込んでいて、やっと駐車出来ました。

とりあえず、向こうに見える古墳に行ってみましょう。

周囲の景色に馴染んで、「犬のフンはお持ち帰りください 高崎市」ですって

埴輪がいっぱい並んでいます。

 

説明板があります。

都合で2枚になります。

ここは、八幡塚古墳です。

復元整備されたのですね。

1500年前につくられた八幡塚古墳ですか

八幡塚古墳は、南東1kmにある三ツ寺Ⅰ遺跡(巨大な館)に住み、榛名山の東南麓・井野川流域を治めた豪族の墓である。当寺、群馬県地域(上毛野)は国内でも有力な地域であった。八幡塚古墳の被葬者は、古墳の充実度からみて、この頃、上毛野各地に勢力を持った豪族のなかでも代表的な人物であったと考えられる。

 

ここをめざしたのは正解でした

 

たくさんの埴輪があります。

よく残っていましたね

そしてよくぞ復元されました

鹿は出血しているようです。

狩りの場面かな?

 

力士がいます。

兵士もいます。

巫女さんかな?

祭祀の場面かな?

 

 

さて、墳丘の方へ行きましょう。

あれ、「犬を連れて古墳内に入らないで下さい」ですって。

今日は人間だけなので、古墳内に入ります

 

 

数えませんでしたけど、かなりの階段を登りました。

 

 

墳丘上からは、遠くの山々が見えます

東南の方角には、上越新幹線の高架が見えます

あの辺りが、被葬者の豪族が生きて生活していた三ツ寺遺跡かな

 

 

おや、墳丘上に入り口があります

初めて気づきました。

階段があって降りられます

 

降りてみると、舟形石棺です。

三ツ寺の豪族が埋葬されていたんですね。

合掌

 

時節柄の注意です。

上野国山上(こうずけのくにやまがみ)は、ここらへんからほぼ東になります

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