今朝の赤城山には、雪雲が架かっているようです。
冷たい真冬の空気の一日でした。
ひめちゃんもタバサねーちゃんの、しっかりおうち犬(室内犬)で過ごしました。
2019年12月の黒柴家族です。
ひめちゃんと獅子丸は、よく山上城にも行ってました
城跡公園(三の丸)には上がらずに、二の丸と三の丸の間を通って帰ることが多かったようです。
帯郭のモミジは、少し盛りを過ぎていました。
隣の常広い寺の銀杏も黄金色になってました。
なぜか、もう2本ともありません。
桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事・その3
かくて新田勢は桐生勢と内談の為、石原与右衛門、木村次三郎、伊藤伊勢之介、この三人の兵を添えて、其の日の申の刻(午後四時から五時)に塩原に遣しけり。
さるほどに山中には、新田・桐生より寄せ来たる由、所々の寄居に触れ渡りしかば、高草木兵庫之介伊織、草木、さや戸の地に侍を五十人ばかり随えて後、五蘭田の寄居に籠もり、
手振り山の空深沢山の峯に、遠見の番所を構え、谷々に役番所を立ち添え、夜昼の用心おこたる事なく、両家の大軍の由を深沢山の番所へ知らせけり。
あらすじです。
新田勢は桐生勢と内談のため、石原与右衛門、木村次三郎、伊藤伊勢之介の3人を、その日の夕方塩原に派遣しました。
一方、黒川谷では新田・桐生から軍勢がやってくると、あちこちの砦に知らせました。
高草木兵庫之介伊織は、草木・小夜戸の地で侍を五十人ばかり随えてその後、五蘭田の寄居に籠もって、手振り山・深沢山に、遠見の番所を構えて、谷々にも役番所を置いて、夜昼夜油断なく、新田・桐生の大軍のことを深沢山の番所へ知らせていました。
塩原神明の森は、塩原にある神明社の森という意味のようです。
前回にも紹介しましたが、『大間々町誌基礎資料Ⅺ 大間々町の寺社』(平成9年)に神明社の写真と地図があります。
46が神明社です。
渡良瀬川にも近く、こちらの方が42の塩原神社より、陣を構えるに向いていそうです
黒川衆の番所のある手振山とも、渡良瀬川をはさんで向かい合ってます
「上州手振りうどん」というおいしい乾麺があります。
この手振り山からの命名なのですね
2020年1月27日、塩原神明社を確認してきました。
塩原神明の森
あの、茅葺きの趣ある社殿は崩れ落ちていました
初稿 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.12.12
(つづく)