今朝は今冬初めて、車のフロントガラスが凍りました
いよいよ上野国山上(こうずけのくにやまがみ)にも、本格的な冬がやってきたようです
5年前(2019年)の12月、ムーハウスのみんなは元気で、しっかりお散歩していました
獅子丸は実家に帰って半年、明るく元気に過ごしています
ひめちゃんと獅子丸は岩神沼まで、時にはさらに上の童沢貯水池まで足を伸ばしていました
東の牧場にも行っていました。
大きなヤギさんもいました。
その後ヤギ家族が増えて賑やかになりました
『桐生老談記』、新しい章です。
桐生新田勢揃い出陣の事、付けたり、桐生使者討ち死にの事
去る程に、水漸やく落ちて其の日の未の刻(午後三時)ばかりに、松嶋水死の由、新田へ注進申しければ、
国重公甚だ立腹なされ、よしなき災難にて時刻を移すのみならず、味方の名折れしでかしたる事心外なり。この上は忽ちに取りかかり、打ち亡ぼすべしとの御定にて、
当家の軍師なれば、藤生、金谷に大将給えば、両人内談を定めつつ、藤生は桐生に帰り、忽ちに軍勢を相触れ着頭を記されける。
紀伊守を大将にて、荒井、茂木、高橋、外山、荒巻、伊藤、小林、薗田、広瀬、岩下、木村、岩水、安田、柳田、須永、籾山、常見、垣根上、大津、箱島、永井、稲垣、加藤、江原、鹿島、栗原、野田、内田、片山を先として、名有る人々三十一人、上下二百四十八騎、是を先陣にて、桐生峠に懸かり、後陣の勢を待ちたり。
さて後陣は、谷右京を物頭にて、広沢、吉沢、境野、久方、下菱、荒戸、本宿の地侍、荒戸鷺沼の辺りにて勢を揃えて押し出す。小倉、仁田山、須永、高津戸の地に侍を相添えて、上下都合七百二十人、天正六年十月四日早旦に我先にて乗り出す。
あらすじです。
午後三時頃ようやく松嶋淡路守が水死した報告が新田に届いた。
由良国重公は、非常に立腹され、「とんでもない災難で時間を費やしただけでなく、味方にとって不名誉な事をしでかしてくれたのは心外である。このうえは、ただちに戦を仕掛け黒川衆を打ち亡ぼすべきだ。」と決定された。
藤生、金谷の両名が大将に指名され、両名は相談して、藤生は桐生に帰り、直ちに戦の準備をした。
藤生紀伊守を大将に、荒井、茂木、高橋、外山、荒巻、伊藤、小林、薗田、広瀬、岩下、木村、岩水、安田、柳田、須永、籾山、常見、垣根上、大津、箱島、永井、稲垣、加藤、江原、鹿島、栗原、野田、内田、片山を先として、名有る人々三十一人、上下二百四十八騎を先陣で、桐生峠にさし懸かり、後陣の軍勢を待った。
後陣は、谷右京を物頭(足軽大将)として、広沢、吉沢、境野、久方、下菱、荒戸、本宿の地侍、荒戸鷺沼の辺りで軍勢を揃えて出陣した。
小倉、仁田山、須永、高津戸の地侍も動員して、上下合わせて720人、天正6年10月4日朝早くに我先と出撃した。
天正6年(1582)10月、上杉謙信の死から半年後です。
由良勢は、終に黒川谷に押し寄せます
たくさんの人の名字が出てきます
たぶん、『桐生老談記』がかかれたころ、桐生にいた人々の名字でしょう
先陣は240騎で桐生峠にさしかかったとありますけど、桐生峠がどこか分かりません
現在、桐生峠という峠は見当たりません
後陣の人達は、荒戸つまり渡良瀬川と桐生川の間の原野、現在の桐生の街中辺りで集合して出陣です
小倉、仁田山、須永、高津戸の地侍も動員とは、高津戸城悲話が嘘のようです
『桐生老談記』では、里見兄弟の高津戸城悲話は天正6年9月18日です
ちょっと時間的に近すぎの様な
初稿 2020.01.22 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」
改稿 2024.12.08