黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

竜骨伝記の真実・その3(必要としている者に納めよ!)

2019-05-12 16:29:52 | 竜骨伝記

昨日の夕方、ひめちゃんはタバサねーちゃん&獅子丸と、堀之内の南の無量寺界隈をお散歩しました。
獅子丸家のおとうさんの話だと、このあたりは昔は宿(しゅく)といって、町中の道路の両端に水路が流れていたそうです。
あずま道の六道の辻から伸びた山上道との関連がありそうな地名です


むこうから赤柴のケンくんがやって来ました。



「あ、ひめちゃんだ
「ケンくーん
ひめちゃんはケンくんが大好きなのです。
最近は朝夕獅子丸と一緒なので、ケンくんちに寄れないのです
歩み寄ってご挨拶しようとしたとき、「ワンワン、俺の妹に手を出すな
獅子丸が邪魔をしました
獅子丸はケンくんをライバルだと思っているようです。
「そのうち、ひめちゃんだけで寄るからね





復元竜骨伝記・現代語訳、後半です。

今、このように効能すばらしい竜骨を発見できたことは、深い因縁があるのだろう。
お釈迦様は八歳の迷える龍女を救い、役行者や弘法大師は大蛇を助け、源空はさくらが池の大蛇を助け、日蓮聖人は七面大蛇を七面大明神と鎮守なさった。
私はそのような偉大な先達におよぶべくもない。
けれども、今この竜骨を発見した縁で、あまたの人々にこれを見せ、その導きの力によって、この山の古い縁のある所をすべて訪ね終え、来世への名誉を残す事ができた。

宝永七年(1710)寅正月三日    木食屡睡(もくじきろうすい)

この通りのほかに、言い伝わる因縁はない。
(来世への準備を終えた私にはもう必要がないので)貴殿の働きで、この頭の加力を頼みとする者に納めよ。

田中藤左衛門殿(たなかとうざえもんどの)        屡睡(ろうすい)  



田中藤左衛門は木食屡睡から、この竜骨伝記(由来書)付きで竜骨を譲られたのです。
そして、竜骨と竜骨伝記と、田中藤左衛門のサインのある證書寫を持って、焼けて堂宇のなかった常廣寺にやって来たのです。
当時の常廣寺はまさに、「この頭の加力を頼みとする者」だったのです

近江商人田中藤左衛門は、偶然に常廣寺にやって来たのではなく、しっかりと計算してやって来たのです
「この頭の加力」で竜骨ビジネス大成功でした
けれども、いつしか竜骨も忘れられ、現在はどうしているのでしょうか?


近年八雲大竜神を祀る龍神堂が建てられました。



竜骨は八雲大竜神という解釈なのでしょうか?
八雲大竜神の御朱印もあります




次は、竜骨伝記に添えられていた田中藤左衛門の證書寫を確認します


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竜骨伝記の真実・その2(伊予国笹ヶ峰で発見)

2019-05-10 23:19:32 | 竜骨伝記

朝、ひめちゃんは獅子丸と、山上城の本丸と二の丸の間の堀切を通りました。
紫陽花の名所とかいいますけど、まだ寂しい状態です。
堀切を抜けて、北の高台に登ります。
南以外はすばらしい眺めです
ここら辺が常廣さんが草庵を結んだ所になりそうです
往来する人や車もよく見えます




春の赤城山天正院常廣寺です



この山門は創建当時の面影を残しているそうです。

なかなか風情のある本堂と桜のコラボです。



上の2枚は4月8日、下は4月16日です。
左手に龍神堂、赤い鳥居の奥が本橋院殿の埋蔵金があったという噂のある墳丘です。





復元竜骨伝記・現代語版

私は修行のため、四国は伊予国(愛媛県)、国境に連なる土佐山の笹ヶ峰という人里離れた仙境に、三年ほど住んでいた。
木の実草のみを食べてはかなき生命をかろうじてつないでいた。

そんなある日、古木の枯れ枝を拾って暖を取っていた時、巌穴に木の切株と思われるものがあって、それを掘り出してみたけれども、(それは切り株ではなくて)、生きていた所をみてないので名前の付けようがない。人里に持って行ってみんなに見せるけれども、「これは○○です。」という者もいない。

ちょうどその頃、日向国(宮崎県)から来た蛇骨を取って商売をしている人が、(やって来て)「これは蝮蛇のしゃれこうべ(頭蓋骨)です。深山には島蛇白蛇という大蛇がいます。その中でもこれは青蛇という大蛇の骨です。島蛇は毒虫
です。白蛇は疵薬だったと思います。とりわけこの青蛇は匂いを嗅ぐだけでも男女の腎気(精力)を強め、気のつまりからくる癇癪(かんしゃく)を直す薬蛇である。」
また言うことには、「疱瘡(天然痘)の流行時には、男でも女でも、ただ匂いを嗅ぐだけでも予防になり、たとえ懸かったとしても軽くすむ。」と。



ここまで前半です
竜骨が発見されたのは、四国の笹ヶ峰(愛媛県)です。
発見者は木食屡睡(もくじきろうすい)です。
木食さんは、煮る焼くなどの火食を絶ち、肉食を避け、ひたすら木の実草のみなどを生のまま食します。

不思議なものを発見した木食さんは、人里に持って行ってきくけれども、わかりません。

そんなときに、日向国(宮崎県)から蛇骨を掘り出して商売している人がやって来ます。
「これは蝮蛇の中の青蛇のしゃれこうべ(頭蓋骨)です。男女の腎気(精力)を強め、癇癪(かんしゃく)を直します。天然痘も匂いを嗅ぐだけでも予防になり、たとえかかったとしても軽くすみます。」と薬効を教えたのです
竜骨のすごーい効果です


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竜骨伝記の真実・その1

2019-05-09 16:08:05 | 竜骨伝記

ひめちゃんは獅子丸家に寄って、獅子丸とお散歩に出ます。
獅子くんを待ちます
朝なのに、けっこう影が長いです



いつも元気で好奇心旺盛な獅子丸です。




堀之内を西に出ます。
堀之内の南端から見た浅間山です。





「時知らぬ山は富士の嶺、いつとてか、鹿の子まだらに雪の降るらむ」という、昔習った文章が浮かびます。
たしか5月の末(現在では6月末)に富士山に雪が残っていたのを、都人がびっくりしたんでしたね。

まあ、こちらは5月の初めだけれど、まだ雪が残っているんですね


途中で、見たことある3名に逢いました



みんなで一緒に帰りました。





獅子丸家開基の常廣寺には、竜骨の由来を書いた「竜骨伝記」がありました。
けれども、大正12年1月1日の火災で、半分焼けてしまいました

ところが、焼ける前に、これを写して記録した人がいたのです
上野國新田郡世良田の毛呂権蔵(もろごんぞう)と下野小俣の鶏足寺の和尚の二人です。
毛呂権蔵は『上野国志』の中に記録しています。
そして活字本になって、国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧できます
鶏足寺の和尚の記録は、群馬県立文書館の鶏足寺文書の中にありました

二人の記録から、「竜骨伝記」がよみがえります
復元作業は、ひめちゃんちのおとうさんが担当しました



復元竜骨伝記


一心修行の為四國豫州土佐山のさかひ
笹が峰といふ深山あり人家離れ三歳
住居す木のみ草のみを食ひ露命をつなぐ
折ふし古木の枯枝をひろひ寒風を凌折
しも株と思ひ巌穴よりほり出して見
折しも株と思ひ巌穴よりほり出して見
れども生きたる處を見るねば可名付やうも
なし里におろし萬民に見すれども何と
も名を付るものなし然折節日向國より
來る蛇骨を取りて世を渡る者是は
蝮蛇のされ頭なり深山には島蛇白蛇と云
へる大蛇あり中にも是は青蛇と云蛇の
こつなり島蛇は毒虫なり白蛇は疵薬と
億ゆとりわけ此青蛇はにほひを聞ても
男女腎氣を養ひ氣じゃくつかへをし
りぞく薬蛇なり又曰く痘疹の流行
る時には男女ともににほひを嗅しても
のがれ又軽しといひて去りぬ
今愚僧が眼に見あふこと因縁あるべき者か
釈尊は八歳の龍女を掬うひ役行者弘法大師
大蛇を助け源空はさくらが池の大蛇を助け
日蓮聖人は七面の大蛇を七面大明神と
ちんじゅし玉ふ愚僧も其の祖におよ
ぶにあらず今此頭を見出し以因縁諸人
にこれを見せ其他力によって一山の
古地をたづねをさめ来世の名聞を残す者也

寶永七年寅正月三日      木食屡睡

此とをり外傅る因縁なし貴殿
以働此頭納可申所の加力頼者也

田中藤左衛門殿          屡睡 



少し分かり易く句読点・よみがなをつけてみます

一心修行の為(ため)、四國豫州(よしゅう)土佐山のさかひ笹が峰といふ深山あり、人家離れ三歳住居す。
木のみ草のみを食ひ、露命(ろめい)をつなぐ。
折ふし、古木の枯枝をひろひ寒風を凌(しのぐ)。
折しも株と思ひ、巌穴(いわあな)よりほり出して見れども、生きたる處を見るねば、可名付やう(なずけよう)もなし。
里におろし萬民に見すれども何とも名を付るものなし。
然折節(しかるおりふし)日向國(ひゅうがのくに)より來る蛇骨を取りて世を渡る者、「是は蝮蛇(まむしへび)のされ頭(こうべ)なり。深山には島蛇白蛇と云へる大蛇あり。中にも是は青蛇と云(いう)蛇のこつなり。島蛇は毒虫なり。白蛇は疵薬(きずぐすり)と億ゆ。とりわけ此青蛇はにほひを聞ても、男女腎氣(じんき)を養ひ、氣じゃくつかへをしりぞく薬蛇なり。又曰く(いわく)、痘疹(とうしん)の流行(はや)る時には男女ともににほひを嗅してものがれ、又軽し。」と、いひて去りぬ。
今愚僧が眼に見あふこと、因縁あるべき者か。
釈尊は八歳の龍女を掬(すく)ひ、役行者(えんのぎょうじゃ)弘法大師大蛇を助け、源空はさくらが池の大蛇を助け、日蓮聖人は七面の大蛇を七面大明神とちんじゅし玉ふ。
愚僧も其の祖におよぶにあらず。
今此頭を見出し、以因縁(いんねんをもって)諸人にこれを見せ、其他力によって一山の古地をたづねをさめ、来世の名聞を残す者也。

寶永(ほうえい)七年寅正月三日      木食屡睡(もくじきろうすい)

此とをり外(ほか)傅る因縁なし。
貴殿以働此頭(きでんのはたらきをもってこのこうべ)、納可申所の加力頼者也

田中藤左衛門殿          屡睡 




「納可申所の加力頼者也」は難解です
どう解釈するかですけど、竜骨の御利益を必要としている人に納めるべきだと解釈すると、「申す所の加力を頼む者に納むべきなり」

田中藤左衛門は必要とする常廣寺に治めたのですから、この読みがよさそうです

次回現代語訳を試みて、竜骨伝記の真実に迫ります







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田中藤左衛門の記憶(七ツ梅跡)

2019-05-07 22:19:42 | 竜骨伝記

昨日の朝、ひめちゃんは獅子丸と堀之内の北、高縄の摩崖仏のあたりをお散歩しました。



摩崖仏の隣に住む、花好きおばさんのガーデンです。
遅咲きの黄色い牡丹が咲いています
薔薇の蕾も見えてきました。

花に満足して油断していました
摩崖仏の下の岩神沼に、アオサギがいます。
慌ててカメラを出しましたけど、飛び立ってしまいました



堀之内近辺で見かけるアオサギは、いつも単独行動です。





下手計(しもたばか)の信号にもどり、右折して、七ツ梅跡を目指します。
「七ツ梅跡」は偶然のことから、獅子丸家開基の常廣寺と関係があることがわかったのです。
常廣寺は大正12年1月1日にも焼けています。
竜骨の由来等を記した文書は焼けてしまいました
けれども、常廣寺の竜骨は一世を風靡したらしく、鶏足寺文書名なかに竜骨伝記および證書(しょうしょ、鑑定書)の写しがあります。
また、世良田の毛呂権蔵(もろごんぞう)も『上野国志(こうずけこくし)』のなかに、記録しています。
次の資料は、それらから復元された證書(しょうしょ、鑑定書)です。
この鑑定書付きで竜骨は常廣寺に納められたのです。
いったいいくらのお金が動いたのでしょう?


一(ひとつ)此の龍骨の儀先祖木食屡睡より我等に相傳せり何の異地義納め申すべからず候さ候へども後の時承るとも候所に此度もち行く所なり全て宝物に候右龍骨我等禰宜(ねぎ)所持の間仙洞御所様女院様二条御所様九条御所様并(ならびに)御宮様方へ奉り御正覧に入る後褒美(ほうび)成り下され候龍骨之儀に有りて候ふ間大切に御守成可(なすべ)く候屡睡より傳来せる本状を添えここに納め令(し)むる者なり後の證(あかし)と為すこと如件(くだんのごとし)

正徳四年午(うま)七月日
正親町三条大納言家
      田中籐左衛門定芳(さだよし) 花押(かおう)
上野州勢多郡前橋領山上村常廣寺



そして田中籐左衛門(たなかとうざえもん)を検索するうちに、銘酒七ツ梅にたどりついたのです


本来の国道17号線をわたると、まもなく到着です。





外の世界から隔絶された古い空間です



数年前訪問してから、親しくお付き合いしている「七ツ梅結い房」にお邪魔します







6月6日に常廣寺で予定している、郷右衛門忌(ごうえもんき)のご案内にうかがったのです

快諾を戴きました

本来の店舗というか母屋が、いい雰囲気で残っています。



この前の道が本来の中仙道だそうです

右端の通路の上に、「田中藤左衛門」の表札がズーとあります



「竜骨伝記の真実」については、後日またお話しします、お楽しみに


駐車場に戻る途中、敷地内の深谷シネマにも渋沢栄一さんです

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郷右衛門と藤左衛門の「常広寺縁起」

2019-05-03 10:49:37 | 竜骨伝記

ひめちゃんは、七海ママの朝食後散歩に付き合いました。
高齢のママは、朝食後にもそこらまでちい散歩をします。





ママにとって、ひめちゃんはいつまでも子供です
見知らぬ人や犬に行き会うと、いまだに護ろうとします





旧勢多郡山上村にある常廣寺について、とりあえず確実なことは、

1,天正年間の創建である
2,開基は本橋院殿・山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)である
3,元禄元年(1688)9月3日堂宇を焼失
4,正徳4年(1714)田中藤左衛門(たなかとうざえもん)が竜骨をもってやってくる
5,享保4年(1719)堂宇を再建する

ということになります。


そして、常廣院殿の真実、および、獅子丸家の伝承、常廣寺の裏の高台には寺があったという伝承から、次のような常廣寺縁起ができそうです


     
             常廣寺縁起 

本橋院殿寶輪廣與大居士、天正年間に、赤城山天正院常廣寺を開基す。山上城付近にて落命せしあまたの人々の冥福を祈らんが為なり。本橋院殿、俗名は山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)、小田原の利け者の異名を持ちたる戦国武将なり。東上州活動の途次、ここ山上を父祖の地と勘違し、山上に並々ならぬ執着を抱く。戦乱の世静まりて後、父祖の地山上に常廣寺を建立す。寺号は、かつて寺の裏の高台に草庵を結びし僧・常廣にちなむ。常廣は戦乱で失われし人々を弔い、村人にも深く慕われたりといふ。常廣については、委細つまびらかならず。ただ、俗名を牛蒡帯刀(ごぼうたてわき)といふとのみ伝ふ。

本橋院殿、自家の菩提寺として、長安寺を建立す。以来末裔は帰農し、本橋院殿にちなみ改姓す。

常廣寺、順調に世代を重ね、八世覚通呑應大和尚に至る。時に元禄元年九月三日、失火により堂宇を焼失す。開基家をおとない、再びの堂宇建立を願うも、あえなく拒絶さる。八世怒りに燃え、開山・明巌監察大和尚を開基になし、子孫を探さんことを思いいたる。これ、開基常廣院殿明巌監察大居士の誕生なり。

ある夜、八世の夢枕に本橋院殿立つ。
「御房よ、吾は本橋院殿なり。ゆめゆめ吾を忘るることなかれ。将来、京より竜骨を持ちたる商人至る。必ず買うべし。さすれば、堂宇の再建もかなうべし。」
「買いたきはやまやまなれど、先立つものなし。」
「焼けし堂宇の後ろに墳丘あり。そこに幾ばくかの埋蔵金有り。使うべし。」
「ありがたきご教示なり。」

時は過ぎ、九世白彭本明大和尚の正徳四年、本橋院殿の予言通り田中藤左衛門なる近江商人、竜骨を持ちて至る。

竜骨を発見せしは、藤左衛門の先祖・木食屡睡(もくじきろうすい)なり。発見の経緯を記したる木食屡睡の文書、および藤左衛門が京にて皇族・貴族に見せ褒美をもらいし事を記したる證書を添ふ。

当時、竜骨は万病に効く薬とさる。
人々常廣寺に殺到し、五年後、めでたく堂宇の再建かなふ。
田中藤左衛門は中仙道深谷宿にて、銘酒「七ツ梅」の醸造を始むといふ。




すらすらと筆が進んだので、もしかしたら郷右衛門さん藤左衛門さんが導いてくれたのかもしれません
いわば、「郷右衛門&藤左衛門の常廣寺縁起」です




田中藤左衛門の七ツ梅は現在は廃業しています。
でも、その跡地は面影たっぷりで残っています



昨日、久しぶりに訪問してきました

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