黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道総集編22(大胡神社)

2023-09-21 21:26:42 | 日光裏街道総集編

昨日の朝、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに岩神沼まで行きました。

2020年の秋、大胡神社を訪問した頃、みんなでよく岩神沼に行っていました。

この頃、獅子丸・ひめちゃん・タバサねーちゃん・小次郎パパの岩神沼での写真です

 

獅子くん、実家の生活楽しんでいたよね

なんとなく、この写真は小次郎パパに似てるね

親子だから当たり前だけど

 

ひめちゃんが、獅子くんと一番多く、岩神沼に寄ったね

 

タバサねーちゃんも、まだまだ病気知らずな元気なシニアでした

 

小次郎パパも、まだ岩神沼まで行く体力があったね

物静かな穏やかなパパでした

 

 

 

 

日光裏街道の街道沿いの文化財としては、ナンバーが付いていませんけど、43番の伝・大胡太郎の墓石と44番の養林寺のすぐ近くの大胡神社も訪問してあります。

せっかくですので、日光裏街道総集編にも入れたいと思います

 

大胡氏時代の大胡城は、現在の大胡神社のあたりだということです。

縄張り図の一番北の近戸出丸に、大胡神社はあります。

大胡神社も、『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

(2020年11月20日)近戸出丸の坂道を上り回り込んで、神社の駐車場に到着です。

 

紅葉のいい雰囲気です

ひとまず、一の鳥居まで階段を降ります。

階段の脇には、大きく大胡神社とあります。

ウィキペディアによれば、

大胡城の守りとして城の北側に位置する。明治中期まで近戸神社(ちかとじんじゃ)と称したが、明治中期に近隣の神社を統合して現在の形となった。

 

近戸神社があったので、近戸曲輪(近戸郭、近戸出丸)なのですね。

近戸の意味はよく分かりませんけど、「霊山赤城山への入り口」の意味という説もあります

神社の脇を走る県道16号線を登ると、三夜沢(みよさわ)赤城神社に行き着き、更につづら折りの山道を登ると、赤城小沼に着きます

最近、三夜沢赤城神社の脇を登り、県道16号線で赤城小沼に行ってきました

 

崩壊危険区域の表示です。

主要地方道大胡赤城線が県道16号線です。

 

石の鳥居をくぐり、階段を登ります。

思ったほど大変ではありませんでした。

日頃ひめちゃんたちと歩いているおかげでしょう

手すりがあるのも有り難いです

 

二の鳥居は、白木の鳥居です。

左右の狛犬は、ちょっと個性的です。

 

一の鳥居を見下ろします。

秋の景色ですね

 

二の鳥居をくぐると、説明板があります。

ムクロジの樹齢300年以上の巨木があるのですね。

神社の由緒等の説明はないようです。

 

拝殿で参拝です。

さて、どれがムクロジでしょう?

注連縄(しめなわ)がある木があります。

これかな

 

見上げると、巨大です。

黄葉の大胡神社です

隣の紅葉と銀杏もコラボして、紅葉真っ盛りです

 

さて、本殿を確認です。

彫刻のあるりっぱな社殿です

 

本殿後ろの石造物も確認です。

たくさんの神様が合祀されています。

 

大胡氏時代の大胡城はここで、大胡氏の館跡は養林寺だということです。

深く浄土宗に帰依した大胡氏の記憶です

『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶です

 

そして、ここは赤城の神々の住む赤城山への入り口、近戸神社だったのです

 

今回改めて、「近戸」の意味を確認できました

神々の住む赤城神社ヘの入り口、とっても大切な表現です

 

初出 2022.11.23 大胡氏時代の大胡城(大胡神社) カテゴリー群馬県・旧勢多郡

改稿 2023.9.21

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光裏街道総集編21(浄土宗養林寺)

2023-09-16 21:13:01 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

ひめちゃんは、獅子丸ともよく歩いた道です。

 

一昨年の今頃、天神田のお散歩です。

やっぱり、赤城山は霞んでいます。

結構、雑草も元気です。

彼岸花が咲き始めています

 

 

 

日光裏街道沿いの文化財、44番が浄土宗養林寺です。

カテゴリー群馬県・旧勢多郡の記事ですけど、日光裏街道総集編にも含めたいと思います

 

 

大胡城の西に位置する浄土宗の養林寺は、大胡氏館跡と言われます。

(『群馬県の中世城館跡』群馬県教育委員会1988)

先に訪問した長善寺の、ちょっと東になります。

 

 

山門から、参拝です。

大胡城→の表示があります。

 

山門脇に、説明板と石造物です。

この青面金剛がひときわ目立ちます

三面六臂ですね。

ちょっと古風かな?

この辺りが、大胡氏館跡の堀の名残とか

 

説明板を確認です。

大胡太郎実秀が法然上人に帰依し、草庵を立て念仏修行をした。

天正18年、大胡太郎の旧跡であることを聞いた牧野康成が鷹林寺を創建した。

 

 

赤い目立つ山門です。

でも、もしかしたらかやぶきの屋根をトタンで保護してるのかな?

かやぶき屋根が似合う山門です

 

 

さて、山門をくぐって本堂に向かいます。

ゴテゴテしていない、素朴ないい雰囲気です

ガラス戸の前で合掌

 

 

庫裏を尋ねて、御朱印をお願いします。

ご住職がお留守と言うことで、御朱印は又の機会にお預けになりました

 

 

駐車場に向かう途中、大きな楠木です。

樹齢の記載はありませんけど、人々の興亡を見てきたのでしょう。

お疲れ様

 

 

ウィキペディア「大胡氏」によると、

大胡氏は浄土宗を篤く信仰した。『法然上人行状絵図』によると、大胡小四郎隆義は京都滞在中に法然と知り合い、大胡に帰った後も浄土宗に深く帰依し、また子の太郎実秀も浄土宗に帰依したという。隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っており、法然からの返答が「大胡消息」として存在する。これは浄土宗の基本文献でもある。また、金沢文庫所蔵の「念仏往生伝」第46によると、大胡小四郎秀村な念仏修行を篤く行い、正元元年(1259年)死去の5年前に仏が夢に現れたと伝えている。

 

最初に法然に帰依したのは大胡小四郎隆義で、子の太郎実秀も帰依し、隆義・実秀親子は手紙で法然への質問を行っていたんですか

法然からの返答が「大胡消息」として存在するんですか

そうすると、『念仏往生伝」』出てくる大胡小四郎秀村は、孫と思われます

そして、彼は法然からの返事を亀鏡として大切にしていたのです

大胡氏は、小四郎隆義、太郎実秀、小四郎秀村と三代にわたり、深く浄土宗に帰依していたのです

 

 

まだ御朱印をいただけていません。

いつか、また訪問したいと思っているんですけど

 

 

初出  『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・浄土宗鷹林寺 カテゴリー群馬県・旧勢多郡 2020.11.19

改稿  2023.9.16

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光裏街道総集編20(大胡太郎の墓石)

2023-09-06 20:29:08 | 日光裏街道総集編

昨夜は激しい雷雨に見舞われました

久しぶりに本格的な雷雨でした

でも、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、何とか静かに過ごせました。

今朝は、元気に堀之内を西に出ます

堀之内を出てまもなく、シラサギの姿がありました

最近は、サギさん達を見かけることが多くなりました。

 

 

 

前回、大胡宿と河原浜の道しるべを確認しました。

実はここら辺は日光裏街道とは意識しないで、あちこち訪問してあります。

41番が大胡宿の道しるべ、47番が河原浜の道しるべです。

そして、43番が伝・大胡太郎の墓石、44番が江戸初期養林寺の山門です。

違うカテゴリーの記事ですけど、日光裏街道総集編にも入れておきたいと思います

 

 

 

上野国山上に住んでいた行仙上人の編集したという『念仏往生伝』に、大胡小四郎秀村があります。

大胡太郎の墓石と言われるものが、長善寺にあります。

大胡小四郎秀村は、大胡太郎の子孫と書かれています。

大胡小四郎秀村のご先祖様の墓石ということになりそうです。

これは、是非確認しなくては

 

長善寺の北側に駐車場がありました。

墓地を抜けて歩くと、まもなく見つかりました

大きいですね

 

む、おじさん邪魔

でも、大胡太郎の墓石といわれるものは、おじさんとたけくらべです。

 

斜め後ろからも、やわらかい曲線美です

 

説明板を確認しましょう。

塔身の中央に梵字が2つ刻まれている。向かって右が阿弥陀如来、左に地蔵菩薩の種子があり、その左側から「貞和三年三月廿二日」と銘文が刻まれている。

貞和三年(1347)は、南北朝時代です。

もう鎌倉時代は終わってます。

大胡太郎の墓石としては、時代がちょっとあわないようです。

別の資料によれば、長善寺は「大胡太郎が開基。中世赤城南麓の滝窪町白草の地に創建された。弘治・永禄の頃(1555~1569)現在地に移されたという」とあります。

赤城南麓の国道353号線の辺りでしょうか?

少し離れています。

説明板だと、その移転の時に運んだとあります。

でも、こんなに大きく重いものを運ぶのは大変です。

移転の時期は戦国時代まっただ中。

移転してきたのはお寺だけで、もともとここにあったと考える方が自然な気がします

 

大胡小四郎秀村は、正元元年(1259)年に42歳で往生しています。

彼は、大胡太郎の子孫と書かれてあります。

 

中世大胡で活躍した大胡氏の墓石であるようですけど、大胡太郎の墓石というにはちょっとどうかな?

でも、どっしりとした優しいラインの石造物で、大胡太郎の墓石という言葉が似合います

 

さて、山門から入りなおして、参拝です

どっしりシンプルな門です。

 

本堂もシンプルな感じです。

 

右側に、鐘楼堂があります。

かわいいお地蔵さまたちです。

どこかで、会ったことがあるような気もしますけど

 

左手の水子地蔵の隣も気になります。

凝灰岩石仏ですね

 

線香立て付きの石殿です。

どこかで会ったことがある羅漢さんもいます。

 

本堂の左に、観音堂です。

向拝の柱に龍のおじさんがいます。

おじさんという感じです。

現代的な龍です

十一面観音はこちらかな?

こんにちは

合掌

 

本堂をちょっと覗いたあと、庫裏に寄って御朱印をいただきます。

ありがとうございます

 

本堂前の手水舎、凝ってます

カエルがいっぱいいます。

無事カエル

 

これから、大胡氏館跡といわれる養林寺を尋ねます

 

  

 初出『念仏往生伝』大胡小四郎秀村の記憶を尋ねて・大胡太郎の墓石

(2020/11/18  カテゴリー 群馬県・旧勢多郡)

2023/09/06 改稿

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光裏街道総集編19(大胡宿と河原浜の道しるべ)

2023-09-02 22:35:00 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝は一緒にお散歩です。

夕方、ハイシニアのタバサねーちゃんは近くをお散歩して、晩ご飯の後もう一回そこらまでのちい散歩です。

ひめちゃんは、南に下って中学校の信号まで行ってきます。

時には、もっと先の小学校近くまで行く事もあります。

 

一昨年の今頃は、タバちゃんも、ひめちゃんと獅子丸と一緒に元気いっぱいにお散歩していました

「きょうだい」って、いいね

 

 

 

今回は、日光裏街道を知るきっかけになった出合いです

初回にも書いてありますけど、大胡の部分だけ抜粋です

大胡宿と河原浜の道しるべを確認して北に進みます。

 

 

大胡町の町中に、目立つ道しるべがあります

先日、ちょっと駐車して確認しました。

「南 五料 伊勢崎」

「東 文化六己巳年六月 世話人 奥泉文平 江原忠兵衛」

え、五料って、あの日光例幣使街道の五料宿ですか

確かに距離はあるけど、南にありそうです。

 

「西 前橋 米野」

 

ちょっと見にくいですけど、「北 日光 大間々」です

どうして日光の表示があるのだろう

 

 

大胡町の文化財を検索すると、この道しるべがあります。

日光例幣使街道の脇道は、日光裏街道あるいは日光脇往還と呼ばれていました。その1つ、五料(現玉村町)から駒形、茂木を経て、大胡宿に入り、大前田、馬場、室沢、板橋(現桐生市新里町)を過ぎて神梅(みどり市)で足尾銅山街道に合流する街道は、平坦な本街道に比べて、道幅も狭く険しいながら、近道として利用されました。この道造に道しるべがあり、当寺の往来をうかがわせます。

日光裏街道の道しるべですか

新里の板橋も、日光裏街道が通っていたんですね

 

 

もう一箇所、「河原浜の道しるべ」があがってます。

「右桐生・大間々、左日光」と堂々たる文字が刻まれた幅34cm、奥行き18cm、高さ64cmの方柱の道しるべです。造立年月日、造立人などは記されていません。元は河原浜(旧向町)丁字路にありましたが、現在は向町会館に移設されています。

 

これは確認しなければなりません

 

昨日、用足しがてら、道しるべの確認と日光裏街道を辿って帰宅しました

 

信号待ちの車の中からの撮影です。

ちょっとぼけていますけど、ご容赦

向町の信号です。

最近はめったに通りませんけれど、昔はよく通りました。

右折します。

 

まもなく、右手に向町会館があります。

バス停は、向町公民館です。

狭いけれど、ちょっと駐車です。

ありました

確かに堂々たる文字で「左日光 右桐生大間々」と刻まれています

あの信号の角にあったのですね。

左日光は、だいたい県道333のようです

こちらから帰ってみましょう

 

 

最近、河原浜の道しるべを再訪しました。

お地蔵様のオガケが、真新しくなっていました。

菅笠(すげがさ)かぶって、お地蔵様も日光裏街道の雰囲気です

道しるべも健在でした

 

(2020.11.26投稿「南五料の謎」より抜粋、加筆)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光裏街道総集編18(富田の三柱神社)

2023-08-30 20:28:26 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんの朝のお散歩コースには、最近シラサギがいる事が多いです

一昨年の今頃、獅子丸とお散歩していた時も、よくシラサギと出逢ってました

まだ自然の残る風景なのです。

 

 

 

 

「街道を歩く・日光への脇往還(大胡道)」の前橋市富田町付近です。

2月5日、お使いがてら、32番正法院、33番三柱神社を訪ねました。

 

 

三柱神社です。

大きな門柱と大きな車があります。

役員さんでも、来てるのかな?

 

付近を確認です。

日光裏街道(大胡道)です

この道を多くの人が日光方面に向かい、また日光方面からも多くの人がやって来たのです

赤城山の景色が、ひめちゃんちから見えるのとちょっと違います

 

広い駐車場です。

大きな力強い鳥居です。

向こうに見える社殿は、村の鎮守の神様のイメージです

茅葺き屋根を覆っているのかな?

 

由緒碑があります。

明治の時に、近郷のたくさんの神社を合祀したのですね。

メインの神社は、稲荷神社・春日神社・赤城神社ですね。

社名の由来、納得です

 

あれ、四代目宮司は六弥太登良麿ですって

確か二宮赤城神社の神主は、六弥太神主だったですよね

『平家物語』で、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)を討ったという岡部六弥太(おかべのろくやた)の子孫だとか。

 

拝殿で参拝です

やはり、鈴を鳴らせないように、工夫されています

神様には、悪霊調伏・病魔退散の力があるはずだけど

 

本殿への渡廊下、絵馬が懸かってます

多くの神様がいるので、いろいろな願いが叶うのでしょう

 

社殿後ろには、合祀された石宮の方々です。

よくある庚申塔の類はありません。

 

本殿も拝殿と同じく大きいです。

明るい森の中の鎮守様という感じです

集落センターもあって、現役の地域の鎮守ですね

 

先日前の道(日光裏街道)を通りました。

寄ってみたかったのですけど、大勢の人です。

夏祭りでもするのかな?

あちこちで、夏祭りが復活してますものね

又の機会に延期です

 

 

(2021.2.22投稿、2023.7.30改稿)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする