昨日の夕方、ひめちゃんは小次郎パパとお散歩して帰ってきました。
おうちの門を入ろうとして、「あ、ケンくんが来る」
ケンくんが、こっちへ向かってます
慌ててパパをそこらにつないで、お久しぶりのご挨拶です
お久しぶり、逢いたかったわ
ひめちゃんは、ケンくんが大好きなのです。
でも、パパはウチの娘に手を出すなとうなります。
久しぶりだね
バイバイ、そのうちにまた寄るよ
「千葉周作も詣でた妙見様」、改めて資料を探したり、アップしなかった写真まで眺めてみると、どうも勘違いしていた所もあります
かなりの部分リニューアルです
(2019年7月23日)
上野国分寺ガイダンス施設で、妙見寺(みょうけんじ)について聞きました。
是非に寄らなくてはと、細い細い道をナビのいう通りやって来ました。
駐車場に白線が引いてあります
何かイベントがあるのかな?
提灯の行列です。
イベントが近そうです。
説明板があります。
非常に古い神社のようです。
「西の建物が神社であり、東の者が寺院で或事は誰もよく知るところである。」とあります
知りませんでした
ウィキペディアによれば、
平将門の乱では、染谷川の戦いで苦境に追い込まれた平良文が不思議な声を聞き、導かれてついていったところ当寺にたどり着いた。そこで僧から七星剣を渡され、以来妙見菩薩の加護を受けるようになった。良文と関係の深い秩父神社、千葉神社は当寺から勧請されたものである。
平将門が新皇宣言をしたという、上野国府もすぐそこです
将門の乱の時に、血で染まった川が染谷川だとか、残念ながら確認してきませんでした
今度行ったら、確認してきます
山門から入り直しです
山門にも提灯の行列です。
左の門柱には妙見尊、右の門柱には妙見寺です
左に行くと神社、右はお寺と言うことですね。
夏祭りの案内があります。
訪問したのは、カメラの日付だと7月23日です。
とても終わった後とは、思えませんでした
日付をよく見なかったので、これからと信じてしまいました
左の階段を登ります
テントも設置されたままでした。
妙見尊を祀る妙見堂に到着です
静けさに包まれています。
脇に群馬町時代(現在は高崎市引間町)の説明板があります。
現在の社殿は、天保10年(1839)の再建だとあります。
そうすると、千葉周作が馬庭念流との騒動(文政3,1822)で上野を撤退した後の再建になります
千葉周作が詣でた社殿とは異なるようです
脇からの妙見堂です。
後ろからの妙見堂です。
彫刻が見事です
総社神社と同じ大工の作って、誰だろう?
一回りしてテントに出ました。
鐘楼堂のと間には舞台です
夏祭りの準備万端というところですけど、終わった後だったようです
ここは、みやま文庫『上州の観音札所』(内山信次、平成3)によれば、
廿三番 引間 三鈷山妙見寺 正観音
群馬県群馬町引間213
妙見寺は古くは七星山息災寺といった。現在正面の建物は妙見社で、寺ではなく神社であるが、社殿はまったく仏堂である。隣の寺が妙見寺である。一般の神社と神宮寺との関係とは違い、妙見寺の妙見堂と考えた方がよさそうだ。妙見神の本地は釈迦または観音とされる。
夢もさめ迷ひもはれて妙見寺いろ香に法の中の道しば
御朱印はあるはずですけど、「御朱印を」というには、静寂すぎて諦めました
お寺の前から、駐車場に戻ります。
こちらの門柱は、「左・三鈷山妙見寺、右・天台宗」です。
お寺と神社が今でも一緒に存在していました
妙見信仰とは北辰妙見菩薩に対する信仰で、もともとは道教の北極星・北斗七星に対する信仰だそうです。
北天にあって動かない北極星(北辰)は宇宙のすべてを支配する最高神で、北斗七星はその乗り物で、人々の行状を監視し、生死禍福を支配するといいます。
そこから、北辰・北斗に祈れば、災厄をのがれ、福がもたらされ、長生きできるという信仰が生まれたそうです。
そうだったんですか
千葉氏は平良文の子孫ということです