雨の一日です。
獅子丸は、今朝、レインコートを着てお散歩できました
写真がないのが残念。
実は実家に帰って、2度目のレインコート散歩です
養家にいるころは、けっして着ようとはしませんでした。
ぬれてもお腹もふかせませんでした。
最近になって、お腹も触らせるようになっています
ひめちゃんと堀之内の北方面を歩いて来ました。
権八地蔵の隣に、久下権八公園(くげごんぱちこうえん)があります。
遊具がいくつかある公園です。
公園側からみた権八地蔵です。
公園には、大きな碑と道標があります。
道標は上の写真では、右下に頭だけ見えます。
碑の前(後ろ)のカルタ(?)には、「篆額は伊藤博文熊谷堤の碑(てんがくは・いとうひろぶみ・くまがやづつみのひ)」とあります。
熊谷堤とは?
検索すると、埼玉県立歴史と民俗の博物館のHPに、「(第九)岐阻道中 熊谷宿 八丁堤の景(きそどうちゅう くまがやじゅく はっちょうつつみのけい)」の浮世絵があります。
www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/index.php?page_id=402
備考欄に、
茶屋で一服する孫と飼葉を食む馬。中央には駕籠にに乗る人とお付きの者たち。道標には「右 おしげうだ(忍行田)」「左 深谷二里廿丁」とある。
画面左手の茶店は、さっき通った「みかりや」です。
画面右手が熊谷堤の終点で、道標の隣にお地蔵様がいます。
松の木の陰でちょっとわかりにくいですけど。
簡単な屋根もついてます。
さっき逢ってきたお地蔵様です
ということは、お地蔵様は「みかりや」の前に立っていたんですね
「みかりや跡」付近に、上州の人間にはよくわからないカルタがありましたけど、やっと意味がわかりました
あそこだったのです。
あそこが、熊谷堤の終点で、中仙道を行き交う人々で賑わっていたのです
当初の予定では通る予定でなかったけれど、絹屋弥市さんのお導きでしょうか
検索していく中で、熊谷堤は最初は、鉢形城主・北条氏邦によって築かれたと知りました。
戦国武将は戦ってだけいたのではなく、治山治水も大事な仕事だったのです
山上にいたと言われる山上氏にそんな治山治水の話があるといいのですけど、とんとそんな話もありません
公園の熊谷堤の碑については、どこにも見つかりません
公園の道標は、浮世絵の道標とは違うようです。
左中仙道、正面は笑福、右はよくわかりませんが熊谷宿の文字があるようです。
この道が中仙道だったのですね
荒川土手に上ります。
向こうは秩父かな?
左岸の土手に小さな祠があります。
水辺を守る九頭竜様(みずべをまもる・くずりゅうさま)です
お仕事をしてもらうには、移転しない方がいいですよね
この土手を「みかりや跡」の方に行き中仙道を、熊谷市のHPでたどってみました。
やはり、深谷に行きます
それも、深谷市役所のある国道17号線ではなく、田中藤左衛門商店・七ツ梅の通りに出ます
初代田中藤左衛門は、正徳4年(1714)に竜骨を持って、山上の常広寺にやって来ました。
その後、銘酒七ツ梅の醸造を始めたのです。
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