黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

養命の石原が住居に夜討ちに押し寄せけり(越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その 1)

2024-11-02 19:43:43 | 桐生老談記の世界

冷たい雨の一日です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、一日中おうち犬です。

お散歩は、朝も夕方も貧乏カッパ着用です。

 

2019年11月の写真を見ていたら、レインコートを着たひめちゃんと獅子丸がいます。

貫頭衣型で、頭を入れさせて、脇腹をマジックテープで留めました。

時折外れて、けっこう難儀しました

ある時、ビニール風呂敷を2カ所結べばほぼ同じになることを発見しました

以来、ビニール風呂敷の貧乏カッパでお散歩です。

 

このころの元気な獅子くんです

七海ママの、昼散歩にも付き合いました

 

 

 

 

越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その 1(養命の石原が住居に夜討ちに押し寄せけり)

 

去る程に、兄弟は遠藤がいさめにより空しく帰城なられける。

同二十日、高津戸に越後勢着城ありければ、兄弟喜悦をなし此上は石原一家を打ち亡ぼし、父の霊魂を祀るべしとて、相随う人々には森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順、此れ等以下兵都合三十人、天正六年五月二日、養命の石原が住居に夜討ちに押し寄せけり。

去れば石原は里見兄弟が近隣に住居し給う事をいぶかしく重い、物見に番人を置き半時も油断なく、依って妻子を引き連れ、夜討ちのこぬ前に落ちうせけり。



あらすじです。


里見兄弟は、津布子刑部を討とうとしたけれど、遠藤のいさめによって諦めた。
そうこうするうちに、高津戸城に越後勢が応援にやって来た。
兄弟は大喜びして、石原一家を打ち亡ぼし父の恨みを晴らすのだと言って、森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順など合計三十人の兵を連れて、天正六年(1578)五月二日に、用命の砦に夜討ち押し寄せた。
石原石見は、兄弟が近くに居住しているのを不審に思い、油断なく物見の番人に見晴らせていた。
だから、報告を受けて、夜討ちが来ないうちに逃げ去ったのだった。



石原石見が逃げ去った後だったので、有名な用命の砦での戦いは、なかったのです
なぜ越後勢は、私的な恨みをはらそうとしている里見兄弟の、高津戸城に応援にやって来たのでしょう
戦国の世に、私的な仇討ちに加勢してくれるほど越後の上杉謙信はゆとりがあったのでしょうか
二人の他に兵が合計30人で用命の砦に押し寄せたといってるのでと言っているので、まあたいした応援ではないんでしょうけど。

用命の砦は、現在の永明寺(ようめいじ 桐生市川内町)が比定されているようです。
大分前に行って写真を撮ってきたはずですけど、見つかりません
周囲より高台になっていて、登ります。
確かに、「砦があったかも」という雰囲気はあります

 

永明寺の御朱印は、偶然に川内の東禅寺でいただきました。

左の瑠璃光山永明寺の堂宇、まさにこんな感じです

名号角塔婆を訪ねて・瑞雲山東禅寺



高津戸から永明寺(ようめいじ 桐生市川内町)まで、車で5分くらいです。
本文でもありますけど、確かに近いです



高津戸城跡には、要害神社があって、説明板もあります。



この説明板によると、
仁田山にいたのは里見の一族で上杉謙信に責められて自刃した。
里見兄弟のパパは、桐生氏の客分になり仁田山を任された。

そうすると、上杉謙信は一族の敵です
息子たちを託すなんて

どうもかなりの矛盾を含んだ話です

 

 

初稿   2019.11.23  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿   2024.11.02

 

 

(つづく)

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