最近、ひめちゃんと七海ママの昼散歩が復活しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/33/0d4c88075a8fcc4319b8dd76ab5fc914.jpg)
ママの足が治って、普通に歩けるようになりました。
昔のジャンプ力の復活はなりませんけど、低いジャンプはできるようになりました。
自音寺からの帰り道、真っ赤な高津戸橋の手前で、左折して南に下ります。
いくらも行かないうちに、右手にお堂が出現します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e3/90c5d47cee073d870fa0e6d9a0e7ddb9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/52/44072a431b0260fc80f7c093e4ef3d93.jpg)
品種名はわかりませんけど、桜がきれいです![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_1.gif)
要害山駐車場の観光地図で、里見兄弟の墓とあった所です。
説明板があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/20/afcff69950ce6ef7e3f9212b2b44ae0e.jpg)
昭和51年、ちょっと古いです。
大間々には里見兄弟の高津戸城悲話が伝わっていました。
里見勝政・勝安兄弟は、桐生氏に謀殺された父の仇を討つため、上杉謙信の支援を受けて高津戸城を再興して立てこもった。しかし由良氏に攻められ、用命の砦に夜襲をかけたが失敗、弟が討ち死にして兄は切腹して果てたという事です。
『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)に
このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。
うまく言い回しています。
でもはっきり言うと、里見兄弟の話は創作だという事です![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
高津戸ロマンです![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dog_happy.gif)
山上城・葛塚城のあたりも、武将達の争奪の地でした。
その結果、葛塚村はこかんの郷(荒れ果てた土地)になり、山上後閑村(やまかみごかむら)になりました。
山上にも、山上ロマンがあります。
詳細は後日に![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dog_happy.gif)
古い五輪塔がたくさんあります。
南側・阿弥陀堂側からの五輪塔群です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/70/154ae5e65873b9b90197a8861a1af2f6.jpg)
北側からの五輪塔群です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/85/632170d5106a7b3f2b396b2eed6b214c.jpg)
里見兄弟の戒名を刻んだ供養塔(?)もあります。
今回初めて気がつきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4b/303083e889c70c450f2cba5f5d23fef6.jpg)
あとで、この塔の脇を下ります。
「阿弥陀堂祭典 4月7日(日)午前10時」の立て看板がありました。
説明板によると、ここの阿弥陀様は石仏なのですね。
4月7日にきたら、直接ご対面できるのでしょう![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dog_happy.gif)
端の方に、「高津戸の渡し跡」の説明板がひっそりとあります。
渡良瀬川を挟んで、大間々村と高津戸村があったのです。
高津戸橋が架かるまで高津戸の渡しを利用していたのです。
渡良瀬川の方に降りて行ってましょう![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dog_happy.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/33/0d4c88075a8fcc4319b8dd76ab5fc914.jpg)
ママの足が治って、普通に歩けるようになりました。
昔のジャンプ力の復活はなりませんけど、低いジャンプはできるようになりました。
自音寺からの帰り道、真っ赤な高津戸橋の手前で、左折して南に下ります。
いくらも行かないうちに、右手にお堂が出現します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/e3/90c5d47cee073d870fa0e6d9a0e7ddb9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/52/44072a431b0260fc80f7c093e4ef3d93.jpg)
品種名はわかりませんけど、桜がきれいです
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要害山駐車場の観光地図で、里見兄弟の墓とあった所です。
説明板があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/20/afcff69950ce6ef7e3f9212b2b44ae0e.jpg)
昭和51年、ちょっと古いです。
大間々には里見兄弟の高津戸城悲話が伝わっていました。
里見勝政・勝安兄弟は、桐生氏に謀殺された父の仇を討つため、上杉謙信の支援を受けて高津戸城を再興して立てこもった。しかし由良氏に攻められ、用命の砦に夜襲をかけたが失敗、弟が討ち死にして兄は切腹して果てたという事です。
『大間々町誌通史編上巻』(平成10年)に
このことを述べる史料もすべて近世成立の物語のみであり、全体として近世に入ってから創作された可能性が強い。その場合、全くの創作か、何らかの伝承や話題を提供した事件・事実が背景にあったかが問題である。高津戸の地は武将達の争奪の地となり、これに上杉謙信や後北条氏が複雑にからみ、人々の記憶に残った場所であろう。この歴史と関東平野を前にそびえたつ高津戸城の景観は、歴史的ロマンをかき立てるに十分なものがある。今後は里見兄弟の事跡がどこまで歴史的事実を反映したものか、新たな史料の発見が期待される。
うまく言い回しています。
でもはっきり言うと、里見兄弟の話は創作だという事です
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_5.gif)
高津戸ロマンです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/dog_happy.gif)
山上城・葛塚城のあたりも、武将達の争奪の地でした。
その結果、葛塚村はこかんの郷(荒れ果てた土地)になり、山上後閑村(やまかみごかむら)になりました。
山上にも、山上ロマンがあります。
詳細は後日に
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古い五輪塔がたくさんあります。
南側・阿弥陀堂側からの五輪塔群です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/70/154ae5e65873b9b90197a8861a1af2f6.jpg)
北側からの五輪塔群です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/85/632170d5106a7b3f2b396b2eed6b214c.jpg)
里見兄弟の戒名を刻んだ供養塔(?)もあります。
今回初めて気がつきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/4b/303083e889c70c450f2cba5f5d23fef6.jpg)
あとで、この塔の脇を下ります。
「阿弥陀堂祭典 4月7日(日)午前10時」の立て看板がありました。
説明板によると、ここの阿弥陀様は石仏なのですね。
4月7日にきたら、直接ご対面できるのでしょう
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端の方に、「高津戸の渡し跡」の説明板がひっそりとあります。
渡良瀬川を挟んで、大間々村と高津戸村があったのです。
高津戸橋が架かるまで高津戸の渡しを利用していたのです。
渡良瀬川の方に降りて行ってましょう
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