黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

桐生川紀行総集編・菱の普門寺

2019-04-25 15:21:41 | 桐生川紀行
今朝は雨も止んで、ひめちゃんは獅子丸とお散歩に出ました。



獅子丸は穏やかな性格で、とても喧嘩をするような子にはみえません。

庚申塚古墳の前の道で、向こうから赤柴くんがやって来ます。
ひめちゃんが大好きなケンくんです。



「あ、ひめちゃんだ
ケンくんはひめちゃんにご挨拶しようとしました。
「僕の妹に手を出すな、僕の方が強いんだぞ
ケンくんのおかあさんも、ちょっとこわばった顔をしました。
以前脱走した獅子丸は、ケンくんを襲ったことがあるそうです

後ろから、小次郎パパ&タバサねーちゃん&ののこねーちゃんが、やってきました。
社交家のタバサねーちゃんが、ひめちゃんの代わりに、ケンくんとご挨拶です。
お互いまんざらでもない様子です





「桐生川紀行総集編」続きです。

桐生川沿いにさらに下って、普門寺(ふもんじ)に出ます。
先日の山門です。



花は遅かった
桜には少し遅かったようです。
以下は昨年11月の訪問の記事です。



菱の普門寺は、由良成繁が桐生に来たときに、新田から持ってきたといわれてます。

そんな馬鹿な
新田の世良田には、れっきとした普門寺があります。
それも、菱は曹洞宗ですけど、世良田は天台宗です。
ひめちゃんのおかあさんの実家も檀家です。
『上野国誌』を書いた毛呂権蔵の墓もあります。
けっしてお寺自体を、世良田から桐生(菱)に持ってきたわけではないのです。
名前を持ってきたというべきです。
旧世良田村の住人としては、新田世良田から持ってきたという表現に抵抗を感じます。
そんなわけで今まで訪問していなかったのですが、この際寄ってみましょう。


山門下の石段はクラシックです



石段の登り口に、菱カルタがあります。



あじさいの山寺 普門寺だるま市

1月15日にだるま市でにぎわうようです。
境内から土器石器が出土したとあります。


菱ハイキングコースの案内板もあります。
この間道を間違えたら、ここに降りていたんだ




山門には力強い仁王様がいます。





ネットで覆われていなくて直接お目にかかれます


山門脇には、首のない方々がいました



よく見かける光景とは言いながら、心が痛みます


本堂でお参りの後、庫裏で御朱印をお願いします。







それでは、由良成繁が奉納したという十一面観音にお参りです。
十八羅漢さんを横目に、階段をのぼります。



十一面観音堂です。



小さな小さな小窓から十一面観音のお姿を拝めました



やはり新田氏の紋・大中黒(おおなかぐろ)があります
でもここは菱の普門寺、新田の普門寺とは関わりはないようです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐生川紀行総集編・左岸菱カルタの世界2

2019-04-24 19:55:03 | 桐生川紀行
朝はまだ雨が降っていませんでした。
ひめちゃんはタバサねーちゃんと、獅子丸家に寄りました。
堀之内を南に出ました。
タバサねーちゃんも満面の笑みを浮かべています。



タバサねーちゃんも、獅子丸と仲良しになりました。

しばらく行き、蕨沢川(わらびさわがわ)沿いに帰ろうと右折しました。

一人散歩のおじさんがやって来ます。
「いい柴犬だね
「ありがとうございます。みんなきょうだいです
おじさんは獅子丸の頭をなでなでして去って行きました。

蕨沢川沿いに歩いていると、向こうから人がきます。
あれ、さっきのおじさんだ
「その子は獅子丸かい?」
「そうです。」
「よくここらをお散歩してるんだよね。」
「そうですか。今、獅子丸のおとうさんが足が痛くてお散歩できないので、手伝ってるんです。」
獅子丸はけっこう有名犬なんだ




今月17日に桐生川左岸を通りました。
小松橋を過ぎてしばらく行くと、御嶽神社、伊豆田遺跡があります。
この日は、桐生市議会議員と桐生市長の選挙戦まっただ中でした。
ちょうどこのあたりを、選挙カーがうろうろしていました。
車が止めにくかったので新着の写真はありません
昨年11月末の訪問記事です。

ナビには、御嶽神社とでました。
石の鳥居があり、新しい幣(ぬさ)がいっぱい下がってます




階段の中央に手すりもあります
階段の脇に不動明王がいます。
どうも正面の大きな石がご神体のようです。





狛犬がいて、不動明王がいて、違和感のない光景です。
なんの違和感もなく神仏混合しています



不動明王の近くには石造物があります。



菱カルタはありませんでしたが、人々の願いがいっぱいつまったパワースポットのようです
当たり前ですけど、道の向こうには桐生川が流れます



山の町桐生ですね



さらに下ると、ありました菱カルタ



炉のありし大門伊豆田の遺跡群


ここらへんは縄文時代の集落が営まれたとあります。
火を使った生活をしていたのですね。
こんなに遺跡があったのなら、一カ所くらい復元住居を作っても良さそうですけど。

土偶は6糎、炉跡は80糎って?
糎はセンチなんて、学校では教えないぞ

6cmの土偶って小さい

これらの出土品はどこに保管されているのでしょう?
旧桐生市内にそんな博物館はないようだし?

ちょうど道の反対側は桐生工業高校のグラウンドでした。



山の町桐生ですね



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綿打郷の牡丹寺・大慶寺

2019-04-22 22:11:59 | 群馬県・東毛

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内の西をお散歩しました。



小次郎パパ&タバサねーちゃん&ののこねーちゃんが、おとうさんを連れて追い越して行きました。
赤城山といい雰囲気でコラボしていた桜は、葉桜になりつつあります。
でも、黄色い菜の花が満開です




昨日、旧新田町にある牡丹寺・大慶寺に行きました。
何度かいってますけど、いつも満開を過ぎてしまいます
今回は間に合うかも

県道69号線を下り、途中で1本西の道に出て、また下ります。
新田暁高校のすぐ南が大慶寺です。





別世界に入っていくような真っ赤な山門です
山門には、真っ赤だけれどいやみのない感じの仁王様がいます。

この山門の右手に、綿打入道太郎為氏(わたうちにゅうどうためうじ)館跡のポールがあります。



綿打入道太郎為氏は、『新田町誌基礎資料第八号・村々の沿革と地図』に「新田氏一族・大館家氏の長男が当地に住して綿打入道太郎為氏と称し綿打姓を名乗る。」とあります。
また、御朱印とともにいただいた資料にも、「南朝の維持に尽力を尽くした綿打太郎為氏の館が建てられ」とあります。
新田義貞の挙兵に加わったのですね。

ここは綿打郷(わたうちごう)だったのです。
すぐ裏の新田暁高校(にったあかつきこうこう)は、その昔は「綿打の女学校」と呼ばれていたのです

参道を直進して、まず不動堂に参ります。
牡丹祭りの期間は、お不動様がご開帳になります。





平安末期の作と云われ、鎌倉時代に入り新田氏の守不動とされ、その信仰は厚くそのために義貞の戦死を知るやその死を惜しみ泣いたと云うわれ、別名泣き不動というそうです。


牡丹園の入園料300円を払って、牡丹園に行きます。
鐘楼堂の前に説明板があります。



永暦元年、源義平「悪源太」の歿後その妻が父新田義重を頼り世良田郷に住み後綿打郷に移り義平の冥福を祈ると共に菩提を弔うため出家して妙満尼となり一庵を結びました。したがって妙満尼を大慶寺の開基とし山号を妙満山と申します。その後綿打入道為氏の館となり、明徳五年空覚上人を小俣の鶏足寺(けいそくじ)より迎え館跡を寄捨し大慶寺を建立しました。

源の頼朝の兄・悪源太義平の奥さんがここで庵を結んだのですか

御朱印受付で御朱印を頼んで、牡丹園の散策です。











今年は間に合いました
みんな今を盛りと咲いています



ヒメシャガ、けっこうきれいです

本堂の裏にも、藤棚がありました。



ピンクの牡丹にピンクの藤もいいですね。


受付に寄って御朱印をいただきます。



妙満尼は、新田義重の娘・祥寿姫(しょうじゅひめ)です。
彼女は世良田の清泉寺(せいせんじ)も庵を結んだということです。
さざえ堂(祥寿山曹源寺)は、彼女の菩提寺だそうです。
彼女はいくつもこの世に生きた証を残していったのですね






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山上城の真実(山上城に山上氏はいなかった)

2019-04-20 16:02:24 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんは獅子丸家に寄ってから、堀之内を西に出て、山上城の方にお散歩です。
あ、浅間山が大きい
堀之内の南端からみた浅間山です。



堀之内を出ると、浅間山は小さくなります。



小次郎パパとタバサねーちゃん&ののこねーちゃんが、おとうさんをつれて先を行きます。

諏訪神社の所を曲がって南下し、山上城の方に入ります。



まだ雑草も茂っていなくて歩きやすそうです。

紫陽花の小径に出ました。



北側には二の丸と表示があります。

遊具があります。

少し前まで、城山幼稚園の子供達が毎朝ランニングしていました。(今は休園中です。)

 

この通路の右が三の丸で、山上城城跡公園のメイン部分です。

 

『日本城郭大系第4巻・茨城・栃木・群馬の城郭』の山上城縄張り図です。


城跡公園のメイン部分は、ワンコ様ご入場禁止のようなので、このまま帰ります。
みんなで獅子丸家に寄ってから帰ります




新里では、山上城が平安時代末期に造られ、山上氏がずーと山上城にいたと信じられています
ところが『日本城郭大系第4巻茨城・栃木・群馬の城郭』では、大永年間(1521~28)としています。

大永年間は、台頭する小田原北条氏と、それを阻もうとする古河公方・関東管領上杉氏との抗争の日々が続いたと言います。
必要が生じて築城となったのでしょう。


現在の歴史学では、ある人物の実在、またはある出来事が本当であることの証明は、同じ時代に書かれた文字資料が必要のようです。


山上氏について長年研究されている藤井先生の「山上氏と山上城(第15版)」を借りて、山上氏についての一級資料を探します。


かの有名な山上高綱、高光親子について、同じ時に書かれた文字資料はありません。
彼らがいないと山上氏が始まりません。
『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の公的記録といわれますが、後から書かれた部分が有るとか、記述内容に取捨選択がなされているとかで、一級史料ではないとされてます。
二級史料ではあるけれど、そこに名のある山上さんもあげてみます。

残念ながら山上高綱はありません。

二級史料「吾妻鏡」に見える山上氏

  元暦2年(1185)  山上太郎高光
  建久元年(1190)  山上太郎
  建暦2年(1213)   山上四郎時元
  建長3年(1251)  山上弥四郎秀盛

一級史料にみる山上氏

正慶2年(1333) 「楠木合戦注文」 山上太郎跡
元弘3年(1333)「天野経顕軍忠状」 上野国住人山上七郎五郎
建武3年(1336)4月23日 「佐野義綱軍忠状写」 山上十郎太郎
観応2年(1351) 「香林直秀軍忠状」 山上十郎公秀
応永9年(1402)5月6日 「鎌倉公方足利満兼案内書(上杉文書)」  山上駿河太郎跡
寛正4年(1463)7月7日 「山上公秀書状」 山上公秀

永禄4年(1561) 「関東幕注文」    山上藤九郎   山上平六
永禄10年(1567) 「善・山上之事書」(由良成繁)  善・山上

最後の史料は由良成繁が小田原北条氏に出した、善さんと山上さんについての報告書です。善さん山上さんが貞操なく生き残るためにあちこちに附いたことが報告されています。
それは由良さんも同じだったようですけど。
たぶん、「関東幕注文」に記されたと同じ人でしょう。


「吾妻鏡」に見える山上氏は、将軍家のお供をしたとか、謀反人を預かったとかで、華々しい活躍はありません。
一級史料にみえる山上氏も参加メンバーだったとか、手柄を見ていた証人(山上さんが見ていました)ということで、やはり華々しい活躍も手柄もないようです。

大永年間(1521~28)の築城だとすると、築城後の確実な史料は、永禄4年(1561) 「関東幕注文」の山上藤九郎 ・山上平六と永禄10年(1567) 「善・山上之事書」(由良成繁)の善・山上だけです



「山上氏と山上城」によると、

永禄3年(1560) には上杉謙信の第一次関東出兵。山上城は落城し、後北条氏配下が逃走。山上城は上杉謙信の臣下大胡民部左衛門にお預けとなった。
永禄期には北条、上杉、武田との抗争の舞台となり、山上城もその城主もめまぐるしく変えた。

山上藤九郎 さん 山上平六さんはいたけれど、山上城主ではなかったようです。

元暦2年(1185) に山上太郎高光の名が見えて、永禄10年(1567)まで約400年、戦乱の世に400年も万世一系でいられるはずがありません。
足利氏だって、藤姓足利氏と源姓足利氏は別物です。
同じ姓だからって、子孫とはかぎらないのです。
山上で勢力を持った誰かさんが「山上」を名乗ることもありです。
善・山上とセットで出てくることも、大事な問題です。


「山上城が平安時代末期に造られ、山上氏がずーと山上城にいた」という山上ロマンは、いまだに人々の心をしっかり捉えているのです


では、山上氏はどこに住んでいたのでしょう?
それは、葛塚城です





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐生川紀行総集編(左岸菱カルタの世界 1)

2019-04-19 15:51:40 | 桐生川紀行

ひめちゃんと獅子丸は、男の子2名女の子2名の計4名で生まれました。
七海ママにとって、4名同時出産は初めてでした。

ひめちゃんは、真っ黒黒助でした。



今ではだいぶ色白になってます

獅子丸は一番大きくて白足袋を履いていました。



ミニドッグランで養子に行く日まで思いっきり遊びました。



一番手前が獅子丸、後ろから二番目がひめちゃんです。



こちらは、一番手前がひめちゃんで、後ろから二番目が獅子丸です。



 

桐生川紀行総集編(左岸菱カルタの世界 1)

今回はかなりの部分、今年4月17日の撮影です。


塩之宮神社から、桐生川左岸を下ります。
しばらく行くと左に菱カルタがあります。





茂倉沢 奥に鎮座の お釈迦様


奥に通じる道がありますけど、カルタの説明をよく読むと、お釈迦様が鎮座しているのはしばらく行ってからのようです。
しばらくがどのくらいか分からないので、今回もパスです。
そのうちに、お釈迦様にぜいお会いしたいです


道の反対側に、もう一枚菱カルタがあります。





跳滝に落城の悲話姫のかげ


桐生城落城の時に追い詰められた奥方や姫は神仏に祈りながら大滝を飛び越して逃れたという伝説から跳滝の地名が生まれたとあります。
まあ、でも逃げることができてよかった

橋の方にいってみます。
上流の流れです。



去年の11月の上流の流れです。




飛び込んで渡るのは、ちょっと大変そうです。
でも、秋も春も清流です


またしばらく下ります。

菱カルタがありました。





切りだした天然氷の土の倉

なんとか読めますね。
「氷池のそばに氷倉を建て保存に成功し桐生近在に大量に出荷するまでに至った。」とあります。
氷池ってどこだかわかりませんでした。

かつては、天然氷は食べるためではなく、蚕の卵の孵化(ふか)を調節するために使われたといいます。
絹織物の産地の近くで、この商売は成り立ったそうです。


一番最初にであった菱カルタは、「伝えきく黒闇沢の古戦場」です。

山上の隣、善城の殿様が暗闇沢で討ち死にしたというので、その場所を確かめに行ったのです


場所は定かではないのですけど、このあたりで桜咲く柄杓山(ひしゃくやま)が見えるところがありました





ふだんはわからないですけど、桜が咲いているので分かります。
桐生川を挟んで、柄杓山城の東なのですね







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする