朝、ひめちゃんは獅子丸と山上城の西側をお散歩しました。
ひめちゃんの向こうに見える建物が、諏訪神社境内にある山上・下鶴谷公民館です。
つまり、建物の奥の桜が諏訪神社のあたりということになります。
そして、手前の大きめののあたりが、昔々お寺があったという伝承の場所です
「桐生川紀行」という記事が、約10編有ります。
最近、桐生川左岸を通リました。
盛りは過ぎていたけれど桜が残っていて、かつての記事に桜の情景がいくつか足せそうです
川の左岸とは、川下に向かって左側という事なので、桐生市菱町になります。
桐生川左岸の記事を「桐生川紀行総集編」として、川の流れに従って北から順に再編集してみます
途中で時には新着記事を入れながら、桐生川を下ります
桐生川は上野国と下野国の間を流れる川で、左岸は下野の国でした。
菱町は下野だったのです
まずは「猫絵の殿様の額(塩之宮神社)」です。(訪問は昨年11月です)
桐生川の左岸をさらに北上します。
神社がありました。
菱カルタもあります。
塩宮神社とあります。
要するに塩釜神社の分社ということのようです。
塩釜神社は、昨年の夏行ってきました。
宮城県塩釜市にある大きな神社です。
小島民部って誰でしょう?
文治4年(1188)、文禄2年(1593)と何か記録でもあるのでしょうか?
参道と神社の間を通ってきました。
神社の境内を、道路が横断しているのです
参道を進みます。
鳥居の額は塩之宮神社です。
拝殿の額は塩宮大明神です。
新田徳純謹書とあります。
新田徳純って誰だ?
もしかして、猫絵の殿様
世良田の新田荘歴史資料館に行くと、新田岩松氏の描いた猫絵を見かけます。
帰宅してからあちこち探し、古いパンフレットを見付けました。
本当に古いです。
まだ東毛歴史資料館時代です。
新田岩松氏は、新田氏と足利氏両家の血筋を引く家で、岩松時兼を祖とし、岩松郷に住しました。新田義貞の鎌倉討伐以降は足利氏と行動を共にし、江戸時代の寛文3年には下田島村(太田市下田島町)に屋敷を構え「田島の殿様」とよばれ、孝純・義寄(温純)・徳純までは交代寄合でした。明治16年(1883)、俊純は華族に列せられ、翌17年、男爵を授かりました。
禄高は低いのに格が高くて、経済的に大変だったといわれています。
そこで経済的必要から猫絵を描いていたといわれます。
先のパンフに企画展のごあいさつとして、
江戸時代の新田氏の殿様(新田岩松氏)は「猫絵の殿様」として知られ、現在の群馬県・埼玉県・長野県等のかつて養蚕が盛んであった地域には、殿様たちが描いた多くの「猫絵」が残されています。これらは当時、養蚕飼育上でネズミ除けの効果がある絵画として、信仰されていました。
新田徳純(にったよしずみ)のサインは同じように見えます。
筆跡鑑定もOKそうです。
もしかしたら、猫絵だけでなく、額等も書いていたかもしれません。
ここらへんは桐生の隣で養蚕が盛んだったと思われますから、殿様の猫絵も売れたことでしょう
本殿の後ろには杉木立の森です。
社殿の隣には、塩之瀬集会所がありました。
塩に関係ある地名と神社、どうしてここにあるのでしょう?
桐生川の向こうには、梅田中学校が見えます。
梅田中学校の向こうが、県道66号線です。
意外なところで、ふるさと新田と出会いました
追記
4月17日の塩之宮神社です。
やはり神社にはが似合います
ひめちゃんの向こうに見える建物が、諏訪神社境内にある山上・下鶴谷公民館です。
つまり、建物の奥の桜が諏訪神社のあたりということになります。
そして、手前の大きめののあたりが、昔々お寺があったという伝承の場所です
「桐生川紀行」という記事が、約10編有ります。
最近、桐生川左岸を通リました。
盛りは過ぎていたけれど桜が残っていて、かつての記事に桜の情景がいくつか足せそうです
川の左岸とは、川下に向かって左側という事なので、桐生市菱町になります。
桐生川左岸の記事を「桐生川紀行総集編」として、川の流れに従って北から順に再編集してみます
途中で時には新着記事を入れながら、桐生川を下ります
桐生川は上野国と下野国の間を流れる川で、左岸は下野の国でした。
菱町は下野だったのです
まずは「猫絵の殿様の額(塩之宮神社)」です。(訪問は昨年11月です)
桐生川の左岸をさらに北上します。
神社がありました。
菱カルタもあります。
塩宮神社とあります。
要するに塩釜神社の分社ということのようです。
塩釜神社は、昨年の夏行ってきました。
宮城県塩釜市にある大きな神社です。
小島民部って誰でしょう?
文治4年(1188)、文禄2年(1593)と何か記録でもあるのでしょうか?
参道と神社の間を通ってきました。
神社の境内を、道路が横断しているのです
参道を進みます。
鳥居の額は塩之宮神社です。
拝殿の額は塩宮大明神です。
新田徳純謹書とあります。
新田徳純って誰だ?
もしかして、猫絵の殿様
世良田の新田荘歴史資料館に行くと、新田岩松氏の描いた猫絵を見かけます。
帰宅してからあちこち探し、古いパンフレットを見付けました。
本当に古いです。
まだ東毛歴史資料館時代です。
新田岩松氏は、新田氏と足利氏両家の血筋を引く家で、岩松時兼を祖とし、岩松郷に住しました。新田義貞の鎌倉討伐以降は足利氏と行動を共にし、江戸時代の寛文3年には下田島村(太田市下田島町)に屋敷を構え「田島の殿様」とよばれ、孝純・義寄(温純)・徳純までは交代寄合でした。明治16年(1883)、俊純は華族に列せられ、翌17年、男爵を授かりました。
禄高は低いのに格が高くて、経済的に大変だったといわれています。
そこで経済的必要から猫絵を描いていたといわれます。
先のパンフに企画展のごあいさつとして、
江戸時代の新田氏の殿様(新田岩松氏)は「猫絵の殿様」として知られ、現在の群馬県・埼玉県・長野県等のかつて養蚕が盛んであった地域には、殿様たちが描いた多くの「猫絵」が残されています。これらは当時、養蚕飼育上でネズミ除けの効果がある絵画として、信仰されていました。
新田徳純(にったよしずみ)のサインは同じように見えます。
筆跡鑑定もOKそうです。
もしかしたら、猫絵だけでなく、額等も書いていたかもしれません。
ここらへんは桐生の隣で養蚕が盛んだったと思われますから、殿様の猫絵も売れたことでしょう
本殿の後ろには杉木立の森です。
社殿の隣には、塩之瀬集会所がありました。
塩に関係ある地名と神社、どうしてここにあるのでしょう?
桐生川の向こうには、梅田中学校が見えます。
梅田中学校の向こうが、県道66号線です。
意外なところで、ふるさと新田と出会いました
追記
4月17日の塩之宮神社です。
やはり神社にはが似合います