黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

桐生川紀行総集編・猫絵の殿様の額(塩之宮神社)

2019-04-18 22:04:42 | 桐生川紀行
朝、ひめちゃんは獅子丸と山上城の西側をお散歩しました。



ひめちゃんの向こうに見える建物が、諏訪神社境内にある山上・下鶴谷公民館です。
つまり、建物の奥の桜が諏訪神社のあたりということになります。
そして、手前の大きめののあたりが、昔々お寺があったという伝承の場所です





「桐生川紀行」という記事が、約10編有ります。
最近、桐生川左岸を通リました。
盛りは過ぎていたけれど桜が残っていて、かつての記事に桜の情景がいくつか足せそうです
川の左岸とは、川下に向かって左側という事なので、桐生市菱町になります。
桐生川左岸の記事を「桐生川紀行総集編」として、川の流れに従って北から順に再編集してみます
途中で時には新着記事を入れながら、桐生川を下ります

桐生川は上野国と下野国の間を流れる川で、左岸は下野の国でした。
菱町は下野だったのです



まずは「猫絵の殿様の額(塩之宮神社)」です。(訪問は昨年11月です)

桐生川の左岸をさらに北上します。
神社がありました。
菱カルタもあります。



塩宮神社とあります。
要するに塩釜神社の分社ということのようです。
塩釜神社は、昨年の夏行ってきました。
宮城県塩釜市にある大きな神社です。

小島民部って誰でしょう?
文治4年(1188)、文禄2年(1593)と何か記録でもあるのでしょうか?

参道と神社の間を通ってきました。
神社の境内を、道路が横断しているのです



参道を進みます。



鳥居の額は塩之宮神社です。

拝殿の額は塩宮大明神です。



新田徳純謹書とあります。
新田徳純って誰だ?


もしかして、猫絵の殿様
世良田の新田荘歴史資料館に行くと、新田岩松氏の描いた猫絵を見かけます。
帰宅してからあちこち探し、古いパンフレットを見付けました。



本当に古いです。
まだ東毛歴史資料館時代です。

新田岩松氏は、新田氏と足利氏両家の血筋を引く家で、岩松時兼を祖とし、岩松郷に住しました。新田義貞の鎌倉討伐以降は足利氏と行動を共にし、江戸時代の寛文3年には下田島村(太田市下田島町)に屋敷を構え「田島の殿様」とよばれ、孝純・義寄(温純)・徳純までは交代寄合でした。明治16年(1883)、俊純は華族に列せられ、翌17年、男爵を授かりました。

禄高は低いのに格が高くて、経済的に大変だったといわれています。
そこで経済的必要から猫絵を描いていたといわれます。

先のパンフに企画展のごあいさつとして、

江戸時代の新田氏の殿様(新田岩松氏)は「猫絵の殿様」として知られ、現在の群馬県・埼玉県・長野県等のかつて養蚕が盛んであった地域には、殿様たちが描いた多くの「猫絵」が残されています。これらは当時、養蚕飼育上でネズミ除けの効果がある絵画として、信仰されていました。

新田徳純(にったよしずみ)のサインは同じように見えます。
筆跡鑑定もOKそうです。
もしかしたら、猫絵だけでなく、額等も書いていたかもしれません。
ここらへんは桐生の隣で養蚕が盛んだったと思われますから、殿様の猫絵も売れたことでしょう


本殿の後ろには杉木立の森です。



社殿の隣には、塩之瀬集会所がありました。



塩に関係ある地名と神社、どうしてここにあるのでしょう?



桐生川の向こうには、梅田中学校が見えます。



梅田中学校の向こうが、県道66号線です。
意外なところで、ふるさと新田と出会いました



追記

4月17日の塩之宮神社です。







やはり神社にはが似合います




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ひめちゃんちの超遅咲き椿コレクション

2019-04-17 22:49:28 | 日記
夕方、ひめちゃんはタバサねーちゃんと、獅子丸家に寄りました。
タバサねーちゃんも、獅子丸と一緒にお散歩できそうです。
3名で、葛塚城西の堀切跡と思われる、田んぼ道を歩きます。



赤城山はかすんでいます。
この道の向こうは久留美田です。
左折して、東芝(ひがししば)を下って、堀之内に戻ります。

タバサねーちゃん、ひめちゃん、獅子丸、微妙に位置を変えながら、各自楽しくお散歩しています。









獅子くん、多勢のお散歩は初めてだと思うけど、物怖じせず、楽しんでます
タバサねーちゃんも自然に受け入れています。
過去に同じ家で暮らした記憶が残っているのでしょうか?




4月になって、ひめちゃんちには、超遅咲きの椿が咲き始めました


あまり良くない条件の所にありますけど、よく咲いてくれました




きれいに咲いてくれました。
白い花は寒さに痛んで、きれいに咲けなかった木もあります。




シンプルなピンクの花です。
木はそこそこ大きいのですけど、ちょっと日陰になってしまってます。
環境整備をしなくては。




「羽衣」だったような気がするんですけど。




エレガンススプレンダーです。
しっかり名札が残ってます。



外国で生まれた大輪のゴージャスな椿です。


これも外国で生まれた椿だと思います。




燕返し(つばめがえし)と名札が残ります。



花によって絞りの出方が違い、中には赤単色のもあります。


寒い寒い冬にじっと耐えて咲いてくれてありがとう



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山上ろまん(山上氏家臣団の創作)

2019-04-16 21:43:34 | 群馬県・旧勢多郡
今朝は、ひめちゃん&パパ&おねーちゃんたちみんなで、獅子丸を迎えに行きました。
高齢のママは自宅待機です。

獅子くん、今日も元気いっぱいにお散歩しました





パパは獅子丸のことをどう思っているのか分かりません。
ただパパも老いました
マーキングの時、以前は足をひっくりかえらんばかりに垂直にあげていましたけど、もうそんなにはあがりません



静かに見守っています




高津戸には、高津戸城悲話の高津戸ロマンがありました。
ひめちゃんちのある山上にも、山上ロマンがあります

葛塚の堀之内から南西方向に約1㎞、山上城址公園と常広寺(じょうこうじ)があります。
以前はよく散歩に行きました。
常広寺の奥に、山上城本丸への近道があります。
そこに不思議なというか、不可解な石造物があります。



山上氏家臣団として100名以上のりっぱな名前が刻まれています。
正応4年(1291)年に、山上氏にはこんなにたくさんの家臣がいたのです






特にミドルネームが立派です。
山上氏の祖と言われるのは山上五郎高綱で、ミドルネームは五郎です。


聖観音像の脇に山上氏の系図が刻まれています。



ご主人の新田義貞は呼び捨てで、自分の側の人物に公という敬称を付けています。
ちょっと変です。
山上氏が4万石余りを領していたとありますが、石高制は太閤検地以降です。
それまでは貫高制でした。
時代を400年も先取りしています。

道及の実名が行光とは知りませんでした
最近では山上道及は実在の人物ではなく、実在したのは山上道牛だと言われています。
この方はなんとしても山上道及に繋がりたかったのでしょう
一直線でつながってます


すぐそばに、山上高綱の供養塔(?)があります。



「大光院殿山上高綱大禅定門」、こんな戒名があるのでしょうか
真ん中の4文字は、その人を象徴するようないい文字が入るのが普通です。
たとえば、獅子丸家の御先祖は、本橋院殿寶輪廣譽大居士(ほんきょういんでんほうりんこうよだいこじ)です。
「寶輪廣譽」とは、すばらしい実績と人柄をイメージさせます。


山上城の築城については12世紀後半に山上高綱が築いたという説がポピュラーです。
そうすると、山上さんは鎌倉に鎌倉城がないのに、山上に山上城に住んでいた事になります。
「謀反じゃ-」と、討伐されかねませんね
諸説有って一番新しい(遅い)説では室町時代後期大永年間(1521~1528)だそうです。

「山上(やまがみ)ろまん」がいっぱい詰まった石造物です



家臣団については『新里村史』に、前橋市才川町・大川吉蔵氏所有蔵書から昭和43年1月15日に粕川正雄氏が写したものが載ってます。



実は常広寺に、これと少し異なる家臣団の一覧があります。
ある檀家さんが預けて行ったそうです。
仮に常広寺文書とよんでおきます。
常広寺文書には家臣団の一覧のほかに、山上氏関係と思われる文書があります。
一昨年の夏、桐生市立図書館で専門家の先生方に鑑定してもらう機会を得ました。







結論は、天保3年(1833)にいろいろな文書を写したと言っている人物が創作したものでしょうということでした。

「この時代にこんな役職はありません。彼はステイタスの向上のために由緒ある家系に繋がろうと考えた。山上氏はすでにない存在なので繋がりやすかったということでしょう。おそらく苗字は当時新里近郊にあった苗字です。殆どの人は苗字を持っていた。使わなかっただけです。ミドルネームは当時そこらにいた人の名前でしょう。」


こんな文書もあります。


(写真の重さの都合で一部だけになってます。日付は天文2年8月です。)

「鏑木家が山上氏の正当な子孫である。善昌寺で主君の回向をする。」と近隣にお触れを出しています。
天文2年(1533)は、村々が主君の回向などしていられない戦国時代まっただ中です。
ハンコが押してあります、花押ではなく
江戸時代の文書です。


「ろまんですね。」

山上は人々に「山上ろまん」を抱かせる土地なのです
いまだに全国の山上さんが、父祖の地として訪ねてくるそうです。





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初めての岡登霊神社

2019-04-15 21:42:39 | 群馬県・東毛
ひめちゃんは、昨日も今日も、獅子丸とお散歩です。
獅子丸家のおとうさんの足の具合が悪いので、ひめちゃんが獅子くんちに寄ってお散歩しているのです。
獅子くんは大喜びです





一緒に生まれたきょうだいですけど、何となく獅子くんの方が順位が上みたいです。
ひめちゃんが従っているような感じを受けます。
七海ママとひめちゃんはよく獅子丸家に寄っていたので、親子きょうだいの関係はしっかり記憶しているようです





この銅像の人は、子供のころから知っていました。



岩宿公園にある岡登景能(おかのぼりかげよし)の像です。
ひめちゃんちのおかあさんは、新田の生まれです。
代官岡登景能は、命をかけて郷土の為に尽くしてくれた偉人であると教えられました。
偉人があまり好きではないので、代官岡登景能は避けていました。
最近になってやっとアレルギー症状が改善され、上記の写真が撮れました


先日久しぶりに、ジョイフル本田(新田店)に行きました。
なんとなく県道69号線を下りました。


薮塚本町・大原で「代官岡登景能公 岡登霊神社」の表示が目に付きました。
あるのは知っていたけれど今までは寄る気は起きませんでした。
でも、今日は寄って行こう


鳥居からは入れずに脇から入りましたけど、境内に何台か止められます。
岡登公園という表示もあります。

この日は無人のようでしたけど、大きな社務所もあります。

広い境内です


奥にかなり進んで、説明板がありました。



要するに岡登景能のおかげで、笠懸野の村々が開発されたのですね
ところが、幕府から罪を問われて切腹を命じられたということです。
彼に感謝する笠懸野の住民が岡登霊神社を祀ったのです。





少し寂しい桜が、哀愁を漂わせています。



おじさん邪魔
でもまあグリーンのコートでよかった。



額は「岡登霊神社」ではなく「岡登景能公」です。
岡登景能公に対する人々の気持ちが現れているのですね。

なぜか、狛犬がいません


さらに奥に社が見えます。



郷社・神明宮(しんめいぐう)とあります。



本来の村の鎮守はこちらでしょうか?
振り返ると、しだれ桜の向こうに岡登霊神社が見えます。



しだれ桜もいいものですね。
いい雰囲気を作っています

子供の頃ちょっと反発を覚えて、あえて避けてきた岡登景能ですけど、これからは避けずにいきます
















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岩神様のパワースポット(高縄の摩崖仏)・復刻版

2019-04-14 21:01:31 | 群馬県・旧勢多郡
おととい、ひめちゃんはパパと堀之内を北に行きました。
北限近くのおうちには、ご自慢の庭石があります。



チューリップとコラボで、石が生き生きしています。
実はこれらの石は、古墳の石だと思われます。
比較的大きな石が、ご自慢そうに並んでいます。
ひめちゃんの向こうの大きな石は、石室の天井石に見えます

ここからさらに北上して、高縄の摩崖仏の所に回り込みます。





桜が満開です
ちょっと寄って行くよ

ひめちゃんたちには興味ないし、あまり奥まで行けません
せっかくだから記事にしたいけど、無理かな
でも、お正月(1月7日)に書いた記憶があります
読み返してみると、手前味噌ながら、なかなかよくできています。
yahooブログの終了と一緒に消えてしまうのはもったいない
復刻版で、残しまーす





堀之内の北、高縄(たかなわ)に摩崖仏があります。



説明板が朽ち果てる寸前です
たぶん朽ち果てても、新調されることはないでしょう
旧新里村の指定文化財は、桐生市の指定文化財にしてもらうにあたって、一切補助金は出ませんと宣告されているそうです

今朝は石造物の文字がわりと鮮明に見えます。
入り口に、宇賀神(うがじん)の文字があります



ほとんど見かけない文字です。
人頭蛇身の神で、穀物神とか農業神いわれているらしいです。
ここにはたくさんの石造物がありますが、宇賀神はこの一基だけです。


この左手に馬頭観音(?)があります。



下の方は明和3年(1766)と見えます。



上の方はちょっとわかりません。



それにしてもずいぶん高い所にいます。
長い年月、地震等に耐えてきたのですね


摩崖仏には、しめ縄が張られています
ミカンも供えられています



覆屋はできたけれど、劣化は激しいです
阿弥陀三尊ということですけど、まあ三体あるかなという感じです
静かに手を合わせます、合掌。

見れば見るほどたくさんの石造物です
庚申塔も個性的で、おおげさにいうと2つと同じものはないです。




道陸神(?)という見慣れない神があります。
別の面には寛政2年(1790)4月岩神西橋供養、また別の面には文化4年(1807)諏訪上階供養とあります。
年代は近いです。
岩神沼(いわがみぬま)にかかっていた橋が架け替えられたのでしょうか?
岩神沼は現在よりずーと大きかったという話です。


庚申塔群です。



年号は江戸時代後半から幕末のものが大半です。



まだまだあります。
とても数えきれません。
こんなにも庚申塔を中心とした石造物が林立していることは、すごーいパワースポットです

古い時代に石の山があって、そこに岩神を感じた人がその中の一番大きな石に阿弥陀三尊を彫った。
岩神様は戦国の世も生き抜いて、平和な世の中にはたくさんの石造物を受け入れた。
人々の思いを受け止めた。
個人が石造物を適当に置いて行くということは、考えにくいです。
指導者、先達の存在が考えられます。
近くに修験者がいた可能性が考えられます。
それとも、僧侶?
獅子丸家開基の長安寺から歩いて5~10分くらいです。



すぐ南の岩神沼から赤城山を望みます。



中央やや右寄りの雲がかかったあたりの下に、大沼・小沼があります。
赤城姫は大沼の龍神になったのでしたね。
赤城山を背景とした岩神沼、いい景色です
岩神様、赤城山のパワーいっぱいもらってます
摩崖仏の石山(岩山)はパワースポットですね





追記

おととい、春4月のほぼ同じ位置からの写真です。



桜が咲いているところが、高縄の摩崖仏です














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