黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

心字池にかかる赤い橋を渡って(石井山珊瑚寺)

2020-01-13 21:49:58 | 群馬県・旧勢多郡

今朝は、真っ白に霜が降りて、地面も凍っていました。

でも、ひめちゃんと獅子丸は、久しぶりに新沼&童沢沼を目指します。

途中で、ひめちゃんが動かなくなりました。

ミーナちゃんが沼の方からやって来ます。

「あたちのほうが強いんだぞ

「なにいってんのよ

ひととおおりの挨拶をして、バイバイ

 

東の新沼(しんぬま)から見た赤城山です。

静かな朝です。

鳥の姿はありません。

隣の童沢沼(どうざわぬま)にはいつものように、鴨がいます。

 

 

赤城南面の日本一の榧(かや)・横室の大カヤに行った日に、近くの珊瑚寺にも足をのばしました。

珊瑚寺は国道353号線に面しているので、その前は何度も通っています。

何故か、寄らずに今日まできてしまいました。

 

駐車場に境内の案内板があります。

わー、心字池(しんじいけ)がある

 

駐車場から赤い橋が見えます

「さだまさし」の世界です

池の中に石造物が賑やかにあります。

七福神ですね

大きな鯉も泳いでいます

 

橋を渡ると、弁天堂です。

お正月飾りが、懐かしい

昔々、実家でも日の当たる縁側でいくつも用意して、家のあちこちや屋外のいくつかの場所に飾ったものです

残念ながら、裸身弁天には会えませんでした

いずれ縁日にでもお会いしましょう。

おや、不思議なものが有ります

蛇神かな龍神かな?

お金を洗うと増えるのかな?

 

地蔵堂の参道に出ます。

1月だというのに、ツツジが咲いています

 

地蔵堂の参道には、見所が色々あります

 

不動明王と苦行の釈迦かな?

いちおう滝も流れてます

 

あちらが本堂ですね。

後で寄りまーす。

杉に注連縄です。

まるで、三夜沢赤城神社のたわら杉のようです

この杉も、歴史をずーと見つめてきたんですね

 

杉の後ろに、開山勝道上人の像です。

男体山霊峰を極めて日光山を開山、大同2年(807)珊瑚寺を開山したということです。

ここはすごい古刹なのですね

 

参道の反対側に、大きな銀杏があります。

「この木の枝で作った箸で食事をすると乳の出がよくなる」という、乳房の銀杏ですか

実がたくさんなるわけではないんですね

木の下に個性的な青面金剛がいます

右下に半分埋まっている方もいます。

たくさんの人々が祈りを捧げた場所なのですね、合掌

 

またお堂があります。

閻魔大王です。

境内の案内図だと、千仏堂です。

 

地蔵堂が見えて来ました

たどり着く前に、まだ見所がありそうです

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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弘法大師の薬師堂と赤城神社(湧丸山医光寺)

2020-01-11 22:02:26 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ようとしました。

突然、ひめちゃんが吠えます。

「ワンワン、不審物じゃあ

獅子丸は、おいしそうな草を見付けて、パクパクです。

歩行者通路の工事用コーンがあったのです。

この先は、葛塚城の堀切跡です。

ひめちゃんたちは、ここで堀切を渡って、岩神沼や高縄の摩崖仏に行くのです。

そういえば、岩神沼付近で工事予告がありました。

近くに通行止めの区間がありそうです。

コーンを確認して、ひめちゃんもお相伴です。

以前は、獅子丸と一緒に首を突っ込むと攻撃されました

獅子丸の意識も変わってきたようです。

ひめちゃんと七海ママだと、ママが吠えて不審者からひめちゃんを守ろうとします。

もしかしたら、ひめねーちゃんが獅子丸を守ろうとしたのかもしれません

 

 

医光寺つづきです

 

本堂脇に長い階段があります。

「瑠璃光湧丸薬師如来」とあります。

翌日(1月4日)が縁日ということで、準備に忙しそうでした。

『新上州・観音霊場三十三カ所』(新上州観音霊場会)によれば、

当寺は、嵯峨天皇の弘仁十一(810)年、弘法大師が東国遊化のおりに薬師仏を刻み開創したと伝えられている。霊験あらたかな薬師如来の御手から丸薬が湧き出し、病む人々を救ったという大師さんにかかわる伝説から、寺の山号も、この地区の呼び名も湧丸とされている。

そうだったんですか

階段を登って参拝です。

残念ながらお姿は拝めません

でも、心を込めて合掌

 

左から後ろに廻ると、石造物がいっぱいです。

薬壺を持っているように見えますけど?

下の3名様、みんな手を合わせています

ちょっと失礼して、石宮の中をのぞき込みます。

薬壺を持ってます

 

少し行くと、媒本法神の墓です。

法神は加賀国(石川県)に生まれ、長じて上泉伊勢守に師事した武芸者である。後に一流を編み「法神流」の剣祖となり、諸国を巡り、多くの剣士を育てた。園原騒動で有名な赤城村須田房吉も法神の高弟であった。また、医術の心得も深かったという。

 

薬師堂の裏手に回り込みます。

石造物があちこちにあります

 

おや、鳥居があります

額は「赤城大明神」です

階段を登ります

覆い屋の下に、かつては色鮮やかだった本殿があります。

前掲書によれば、

医光寺は小沼信仰を執行していた

といいます。

 

今では赤城山に登るのは、前橋からが一般的です。

けれども、かつては東からの道もあったのです

 

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の大嵐の中でも、共存していたんですね

今年の平安を祈ります

これからも、赤城の伝説・赤城神社を訪ねる旅もしていきましょう

 

階段を降りると、お大師さまの踏み草履石です。

足のサイズを確かめませんでした

 

階段を降りて左脇には、超個性的な青面金剛です

こんにちは

これからもよろしくお願いします

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

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赤堀道元の娘の帯に再会(湧丸山医光寺)

2020-01-10 21:36:27 | 群馬県・旧勢多郡

今朝、ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て、南廻りで帰りました。

途中、元獅子丸家(もとししまるけ・獅子丸が7年間養子にいっていた家を便宜上こう呼びます。)の近くから、白い浅間山と榛名山が見えます。

ひめちゃん、ちょっと緊張気味です。

小学生の集団登校がやってくる時間です

でも、幸いに遠くを通って行きました

 

堀之内の南・塚越の庚申塚古墳を通ります。

石室の入り口がわかります。

全く調査されていないようです

赤城山は穏やかに晴れてます

獅子くん、後ろ姿で失礼します。

塚越の双体道祖神です

隣に小さな馬頭観音(?)があります

初めて気がつきました

ここは、人々の祈りがいっぱい詰まった、ミニパワースポットなのです

 

 

 

小中の大蒼院のあと、黒保根(くろほね)の医光寺(いこうじ)に寄ります。

大分前に来たことがあります。

もう和尚さんも代替わりしていることでしょう。

 

山門に幟(のぼり)が揚がってます

やはりお正月です。

欄間彫刻と文化財の説明板があります。

 

鐘楼堂の奥の庫裏を訪ねます。

「こんにちは。御朱印お願いできますか。」

「はい。」

「あのう、本堂の欄間彫刻も見学できますか?」

「どうぞ、本堂の方へ廻ってください。」

 

本堂に上がって、まずご本尊さまに参拝です。

本堂の欄間には、たくさん過ぎる欄間彫刻です

作者は、関口文治郎(せきぐちぶんじろう)ということです

説明板には、中国二十四孝の物語を中心にした故事を題材にしているとあります。

白いゾウです。

白象(びゃくぞう)です。

 昔、はくぞうと読んだら、お寺の娘さんに「びゃくぞうだよ。」と教わりました

 

よくぞ、これほどたくさんの彫刻で飾りました

 

しばし欄間彫刻に見とれていると、若い和尚さんが御朱印帳を持ってきてくれました

「ありがとうございます。あのう、赤堀道元の娘の帯は見せていただけますか。ズーと昔、見せて頂きました。その時はまだデジタルカメラを持って歩くような時代ではありませんでした。私の記憶では、グリーンがかっていたように思います。同行者は茶色だったといいます


和尚さんが、奥から運んできます。

大きな桐の箱が出てきます。

あ、記憶の通りだ

『新上州・観音霊場三十三所』(新上州観音霊場会)をちょっと確認です。

なお寺に珍蔵されているものに、赤堀道元の娘の帯という物がある。これは伝説のことであるが、佐波郡赤堀村、現在の赤堀町に道元という分限者がおり、赤堀状の城主であったという。その娘が十六の時に、赤城山に登り小沼の主になってしまったという物語であるが、いつごろから伝えられたか、その娘の帯とされている。これまた医光寺が小沼信仰を執行してきたことを物語るものであろう。

娘さんの名前は、小百合とも伝えられているとか。

帯がけっこう傷んでいて、一番いいところを見せているんだそうです。

 

 

(つづく)

 

 

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黒川谷の鳥海神社

2020-01-09 21:19:03 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、朝のお散歩です。

帰り道、蕨沢川上流の「たくみはし」にさしかかりました。

むむ、何か見える

橋のたもとにある石には、ふだんは何も見えません。

何か刻んであったはずですけど。

如意輪観音?

やっぱ、何か見えます

光の加減で、削り取られてしまった仏が姿を現したのです

たぶん明治の廃仏毀釈の時に、削り取られてしまったのでしょう

今朝は、お会いできて良かった、合掌

 

「たくみはし」付近から見た、今朝の赤城山です。

東の峰は雪ですね。

赤城小沼があるので、どうしても雲が懸かり雪が降りやすいのでしょう。

あの峰の東の麓に、小中の大蒼院や医光寺があります

 

 

 

 

さて、さっきスルーしてしまった神社に参拝です。

大蒼院で聞きましたけど、特に関係はないということです。

 

階段の脇にも、なにやら注連縄(しめなわ)があります。

どうも井戸というか、泉というか?

少し前まで確かに大切なものでした。

 

さてさて、階段を登って参拝です

きれいに掃き清められています

 

神社名とかはありません。

とにかく、今年の多幸を祈ります

 

境内から隣の大蒼院が見えます

もうロウバイが咲き始めていました

 

帰宅後地図を確認すると、鳥海神社ということです。

みどり市HPによると、ここ鳥海神社は、小中の獅子舞が奉納されるということです。

ことの起こりは定かではないが、奥州の豪族・阿部貞任は朝廷に逆らい、源頼義率いる大軍に討ちとられた〔前9年の役(1062)〕。弟宗任は捕虜となり、京に送られる際、宗任を慕った一部の家来たちは当地まで同道したが、朝廷の命により京に上ることを許されず、やむなく当地に土着したという。後、宗任を慕った家来たちは宗任を祀り、鳥海神社と名付け、村の鎮守とした。それに伴い、京より伝わった「ささらすり」獅子舞が村の安全・疫病除け・豊年を祈願して舞われたと伝えられている。室町時代の前期、京都から来た師匠が、冬季を利用し、村の各家庭を継承していく子どもたちに獅子舞を教え、毎年旧暦の615日と919日には村にある鳥海(ちょうかい)神社に獅子舞を奉納したのが始まりとされる。


そうだったのですか

宗任を祀っているんですね

 

黒川衆・阿久沢氏や松嶋氏の出自については、別の説もあるようです。

でも、阿部宗任伝説は深く根を下ろしているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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黒川谷の大蒼院(常広寺三世・明巌鑑察大和尚の開山)

2020-01-09 21:17:10 | 群馬県・旧勢多郡

1月8日の朝は雨でした

1月に雨が降るということがあったでしょうか?

まあ、ひめちゃんたちはレインコートを着ていくほどではありませんでしたけど。

 

 

いわゆる黒川谷(くろかわだに)に、いくつか気になるパワースポットというか史跡というかがあります。

黒川とは、渡良瀬川のことだそうです。

知りませんでした

1月3日、みどり市東町小中(あずまちょうこなか)の大蒼院(だいそういん)と桐生市黒保根町(くろほねちょう)の医光寺(いこうじ)を訪問しました。

みどり市大間々町から、国道122号線を北上します。

 

まず小中の大蒼院を目指します

ナビの指示通りでは、「目的地に到着しました」といわれても何もありません

目の前の急坂を下ると、左手に寺院らしき建物があります

 

やっとたどり着きました

おや、手前に神社があります

後で参拝しまーす

 

山門というか、両側に仁王像があります。

向こうに、山寺らしい雰囲気の鐘楼堂も見えます

とりあえず境内に駐車です。

 

どうも、谷側の方が本来の山門のようです。

門柱も見えます。

門柱目指していくと、霧島ツツジの説明板があります。

樹齢600年以上とあります

きっと見事に咲きほこるのでしょう

また、ツツジの季節に来ましょう

 

となりに、大蒼院の欄間彫刻の説明板があります。

欄間彫刻は、上州花輪村彫刻師集団の石原常八主信(二代目常八)の作です。

ぜひ見学しなくては

 

門柱から降りて、境内に入り直しです。

個性的な蒼面金剛もいます

本来はこちらから参拝していたんですね。

 

 

曹洞宗です

獅子丸の元養家が開基という常広寺と同じです

それにしても、クラシックな階段です

途中に、こんな方もいました。

四面のお地蔵様です

 

 

庫裏を訪ねます。

「こんにちは。御朱印お願いできますか?」

「うちはやってません。」

「では、本堂の欄間彫刻を見せていただけますか?」

「どうぞ、本堂のほうへお回りください。」

 

 

本堂に失礼します。

正面の龍がとても生き生き見えます

ご本尊様に合掌です

 

 

天井絵もあります

柴犬もいます

自然の風物を描いたのですね。

柴犬は、日本の風景の中の存在なのですね

 

 

欄間にこの寺の由来があります。

創建は天文年間中頃、開山は明巌鑑察大和尚、本寺は新里村山上の常広寺

ええ

明巌鑑察大和尚(めいがんかんさつだいわじょう)って、常広寺の三世のあの方ですよね

明巌鑑察大和尚は、常広寺の実質的開山です

そうだったんですか

りっぱな和尚さんだったんですね

常広寺の本寺は、前橋の橋林寺(きょうりんじ)です。

行動半径の広い方だったのでしょう

 

でも、どんなつながりでこの寺を開山したのでしょう?

開基(経済的出資者)については、何もありません。

場所柄、黒川衆が考えられますけど

 

よくよく考えて見ると、本寺の常広寺より大蒼院の方が古いのです

大蒼院の開山は、明願鑑察大和尚で、天文年間(1532~1555)中頃の開山ということでした。

獅子丸の元養家の開基という、山上の常広寺は赤城山天正院常広寺です。

ですから、開山は天正以降と考えられます。

そうすると、明願鑑察大和尚は大蒼院を開山して、晩年に山上の常広寺を開山したということになります。

そして、元和4年(1618)8月13日に、たぶん常広寺で亡くなります。

今まで明願鑑察大和尚は、前橋は橋林寺のお坊さんだったと思い込んでいました。

そうではなく、黒川郷でそれなりの仕事をした後、山上の常広寺の開山の為に招かれたのです

北条方の武将として東上州を走り回っていた、獅子丸の元養家のご先祖様(開基・本橋院殿寶輪廣誉大居士)と、どこかで出会っていたのです

 

 

 

 

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