黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

武井の石造物群と青雲寺の杉並木

2020-07-24 21:40:14 | 群馬県・旧勢多郡

朝は雨が止んで、赤城山が雲の中から顔を出しました

ひめちゃんは、小次郎パパと堀之内を北に出ます。

ひめちゃんが何かに気づきました。

獅子丸とタバサねーちゃんが、おとうさんを連れてやって来たのです。

獅子丸は、パパを意識して、知らんぷりをして、追い越していきます。

通り過ぎて、この笑顔です

実家に帰って、もう13ヶ月半です。

全く遠慮なく、実家の生活を楽しんでいます

 

 

山上の蚕影山神社(やまがみのこかげさんじんじゃ)の後、県道3号線で、(桐生市新里町)武井(たけい)に出ます。

忘れられている石造物群があるといいます。

ちょっと、逢ってきましょう

県道から少し高台に入ります。

 

ありました

力強い青面金剛です

隣のお地蔵様は、お顔と胴体が色違いです。

もしかして廃仏毀釈の時に受難されたかな?

 

みなさん、かなりの造形美の方々です

青面金剛、全く似てないですね。

作者時代が違うのかな?

 

 

左のお地蔵様に元禄9年の文字が読み取れます。

元禄9年は、まだ山上に絹市がありました

 

少し離れて、ひとり寂しく如意輪観音です。

みなさんもともとここにあったものか、お引っ越ししてきたのか?

 

反対側には、桜の巨大な大木です

石造物群と桜、もしかして道があった?

旅人が休めるように、桜の大木がある?

もしかして、桜の大木がある所が何かの目印?

 

そういえば、ここは青雲寺(せいうんじ)のそばでした

ちょっと寄ってみましょう。

石造物群の所(桜の巨木)から、ほぼまっすぐ北に来ました。

やっぱり青雲寺に到着です。

こんにちは

お久しぶりです。

仁王門の二王様にご挨拶です。

 

振り返ると、杉並木です。

以前、青雲寺の和尚さんは、「この杉並木はまるで日光の杉並木のようだ 月の夜はいいよ ただ、ちょっと短いけど

確かに短い。

短すぎです

杉並木が、さっきの石造物群(桜の巨木)から続いていたと考えると、ほどよい長さで存在価値があります

古い時代には、青雲寺の境内も、もっと南まであったでしょうし。

 

山上の絹市(やまがみのきぬいち)に行く人々が通り、蚕影山神社に行く人々が通り、桜の木と石造物群を目印に、ちょっと青雲寺に寄ったかも知れません

 

さて、今日は寄らずに帰ります

 

おや、杉並木にヤマユリです

似合いますね

 

杉並木の出口です。

正面に見える建物の向こうに、桜と石造物群です。

あそこから、青雲寺参道の杉並木が続いていたかも知れません

 

 

 

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山上の蚕影山神社(やまがみのこかげさんじんじゃ)

2020-07-23 21:35:10 | 群馬県・旧勢多郡

夕方、雨が止むのを待って、みんなでお散歩に出ました。

ひめちゃんは小次郎パパとお散歩です。

「あ、小太郎くんだ

ケンくんほどではないけれど、ひめちゃんのボーイフレンドです。

行き会うと軽く絡んで、バイバイです。

小次郎パパは、ケンくんの時と違って、ブツブツ言いながらも静かに二人を見守ってます。

小太郎くんが去った後、クンクン二人で情報収集です。

行く手には、小太郎くんとお父さんが見えます。

小太郎くんとのお散歩は、お父さんの健康にとっても役立っているんだそうです

 

あれ、見たことある二人連れがやって来ます。

獅子丸は、知らんぷりで通り過ぎます。

タバサねーちゃんは、今日は降られないといいね

昨日は降られてしまったのです

 

 

ある日、山上付近の地図を見ていたら、山上城跡の南に蚕影山神社(こかげさんじんじゃ)があります

そんな神社あったっけ?

そういえば、山上城跡の南郭といわれているところに、石宮様がありました。

 

山上城の縄張り図です。

(『日本城郭体系4』昭和54年より)

南郭のいちだんと高くなっているところです。

城郭としては、見張り台か何か置きたいところです。

 

蚕影山神社って、養蚕の神様ですよね。

もしかしたら、山上の絹市が立っていたのは、ここかも

今日お使いついでに、寄ってみました

 

南郭は民家もありますけど、メインは(山上)元町集会所です。

集会所の南西に高台があります。

ちょっと急な古い石段があります

露に濡れた草を踏み分け、登ります

ありました

今日は左の石に、蚕影山神社の文字がはっきり見えます

すっかり忘れ去られたわけではなさそうです

幣束や注連縄も張ってあります。

この前は、大分前だけど、何もなかったような記憶です。

側面に日付がありそうですけど、判読不能です。

 

左側に意味ありそうな石もあります。

 

さらに左に、石宮も石宮様です。

こちらはちょっと忘れられているようです。

 

右の石宮様です。

山上請中の文字があります。

建立年は分かりません、残念

でも、6月吉日とあります。

お蚕が繭になって売れて、一段落の時期なのでしょう

 

ここを歩いていると、何か石が足に当たります。

鳥居の礎石のようなものもあります。

現在の様子からは想像できない、華やかな蚕影山神社だったかもしれません

住宅が迫ってますけど、集会所があって駐車場があって、その中心に鎮座してます。

かつては、かなり見晴らしの良い所だったようです。

蚕影山神社の境内で絹市、人々が十分集まれそうな広さです。

蚕影山神社の境内で絹市、とても自然なことです

山上の絹市(やまがみのきぬいち)は、元禄15年大間々市(おおままいち)に合併されるまで、蚕影山神社の境内で立っていたのでしょう

何か資料は欲しいところですけど。

 

山上の蚕影山神社の少し南には、県道3号線が走ります

たぶん、もともとの街道が近くを走っていたのでしょう。

 

県道3号線には、パワースポットもあります

 

この青面金剛(しょうめんこんごう)のそばを道なりに上れば、蚕影山神社に行きます。

かなり上出来の青面金剛です

残念ながら、近年県道が直線になって、ここは旧道になってしまいましたけど、健在でした

 

少し東に行くと、JAの駐車場におしろい地蔵があります。

お地蔵様だけど、女の人に見えます。

 

県道3号線は、絹市が立っていたときはもちろん、養蚕が盛んな時代には、参詣の人々が通った道かも知れません

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

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ひめちゃんちの白い紫陽花コレクション

2020-07-22 21:37:20 | 日記

七海ママは、最近はひとりで気なりに、そこらまでのちい散歩です。

もううほとんど目が見えないようで、感覚で歩いているようです。

でも、何となく廻りの様子はわかるようです

ひめちゃんたちも、そっと挨拶して通り過ぎます

小次郎パパだけ、しつこくまだラブコールしています。

 

 

 

ひめちゃんちの紫陽花も、整理の時期を迎えました。

鉢植えはなるべく地植えに、常広寺にも喜捨して、鉢を減らしました。

常広寺は紫陽花寺化計画進行中とのことで、喜んで受け取ってもらいました

今は実にいろいろな紫陽花が開発されていますけど、白花もたくさんあります。

ひめちゃんちにも、実は何種類か白花があったのです

 

単に白花ではなく、途中で変色するものもあります。

 

 

おや、かわいい花です

あれ、ピンクがかってきました

ほとんどピンクです

 

 

この花は、キウイフルーツの木の下にありました。

実は、鉢植えでした。

植え替えをした時に、ウディングドレスと名札が出てきました。

そう言われれば、そんなイメージです

 

 

ディングドレスとよく似ていますけど、墨田の花火です。

咲き進んで、今日の花です。

ディングドレスはあくまでも白く、墨田の花火は少し青みがかるようです。

確か、この花は、白花のガクアジサイとして一世を風靡した時代もありました。

 

 

アナベルです。

畑の桂の木の下にあります。

草の海でよく頑張ってくれています

 

 

おや椿の下でがんばりってます。

なんとか救出します

支柱をして立てました。

数日後、なんとなく青みがかってる

さらに青みがかりました

来年はもっとたくさんの花を付けるでしょう

 

 

鉢植えの黒軸あじさいです。

最初は白花でした。

だんだん色づいてます

来年は地植えにする場所を探さなくては。

 

 

ニューフイスです。

初めて咲いた花です。

フラウ???の名札があります。

 

もちろん、ずーっと白い花普通の花あります

 

 

白ではないけれど、おまけできれいに咲いた子ども達です

 

ちょっと変わった雰囲気です。

 

額の花に縁取りがあります。

 

舞姫ではない、絞りがありました。

まだまだ、たくさんの花を付けています

 

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円仁の旅は『宇津保物語』俊蔭のモデルか?

2020-07-21 20:01:22 | 下野国

昨夜は激しい雷雨に見舞われました。

「すわー、梅雨明けだ」と思いきや、今日もぐずついたお天気です

昨夜、小次郎パパと獅子丸が騒ぎ始めました。

まだ雨も降らず、普通の夜でした。

そのうち、雷鳴が一つ

犬の耳には、遠くの雷鳴が聞こえていたのです

朝見ると、獅子丸の小屋は大改造されていました

でも、本人は大満足です

 

ひめちゃんは、小次郎パパとお散歩に出ます。

でも、ひめちゃんがヘメロカリスの下の草に夢中で動きません

上手に笹のような草を食べています。

お腹の調子を調えるのでしょう

パパは早く行こうよ

 

雨と草の中でも、季節の花はきれいに咲いてくれてます

 

 

 

慈覚大師円仁は、最後の遣唐使一行と共に、唐に渡りました。

大慈寺のHPより、唐での修行の様子を引用させて頂きます。

・43歳になったとき、円仁様は遣唐使一行とともに短気の留学僧として、唐にむかて出発します。天台宗の密教を完成しようと、また延暦寺未決三十条を解決したいという、強い希望を持っての出発でしたが、実はこれは足掛け9年にもわたる大冒険への出発の時であったのです。

・唐に渡った円仁様は、時を惜しんで仏法の修行に励みましたが、留学の条件など、さまざまな制約があったため、天台宗の発祥地である天台山へゆくための許可をうることはかないませんでした。本来ならばそのまま遣唐使一行と共に日本に帰らなければなりませんでしたが、円仁様の求法の飯井は強く、その情熱はついに、遣唐使の一行を離れ、自力での旅を続ける事を決意させたのです。

・異国での、許可を得ない旅は危険であり、想像を超える困難の連続でありましたが、弟子の惟正、惟暁、従者の丁雄満とともに歩き続けた円仁様は、天台山同様、名だたる仏教の聖地、五台山に辿り着き、修行をすることができたのです。

・五台山巡礼を終えた一行は、さらに世界最大の国際都市である長安に向かいました。長安での修行と求法を通じ、密教の転で大きな成果を上げました。

 

この後、たくさんの経典をもって、波瀾万丈の旅をして帰国します。

最終的には新羅人の援助によって、新羅商人の貿易船に乗って、朝鮮半島沿岸の90日間の旅で、帰国したといいます。

そして、出発の日からの帰国までの日記、『入唐求法巡礼行記(にっとうじゅんれいこうき)』を残しました

 

そこで、ハタとひらめきました。

これは、俊蔭の旅だ。

宇津保物語の主人公・清原俊蔭(きよはらのとしかげ)は、遣唐使副使として旅立ちますけど、大嵐で流され波斯国(はしこく)に流れ着きます。

波斯国とは、ペルシャだろうと思われます。

そこで、天女から琴と技芸を伝えられて、二十余年の後、貿易船で帰朝するのです

 

昔、諏訪緑さんの『うつほ草紙』という作品がありました。

『宇津保物語』をもとに、でもオリジナルな作品に仕上がっていました。

現在手に入るのは小学館文庫です。

『うつほ草紙』の種本、『宇津保物語』にも凝った時期がありました。

結局長すぎて、途中で挫折ですけど

 

『宇津保物語』は最古の長編物語と言われます。

成立についてははっきりしませんけど、平安時代中期というです。

作者もはっきりしません。

けれども、作者は平安時代初期に書かれた『入唐求法巡礼行記(にっとうじゅんれいこうき)』を読んでいる可能性はあります。

俊蔭の物語は、遣唐使が廃止され国風文化の平安中期には、奇想天外というか全く想像できない世界の物語です。

参考テキストがあればこそと思うのですけど。

 

ライシャワーさんの『入唐求法巡礼行記』の研究、講談社学術文庫にありました。

岩波ジュニア新書『仏教入門』と一緒に、アマゾンで購入しました。

折を見て、じっくり読みたいと思います。

ちょっと難しそうだけど

成仏って、仏になることだったんですね

 

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日本七仏薬師と小野小町の墓

2020-07-19 21:39:29 | 下野国

ひめちゃんは、昨日ワクチン接種に行ってきました。

車の中では、そわそわ落ち着きませんでしたけど、動物病院ではこの笑顔です

動物病院は、病気を治してくれる所だと認識しているらしいです。

先日の腹痛も治してもらって、記憶に新しいようです。

順番を待っている間も、よい子で待ってます

順番が来て名前を呼ばれて、診察台の上に上がります。

先生にあちこちチェックしてもらいます。

「お腹のグルグルもなくなってますそれでは、注射しましょう

よい子で注射できました

 

 

 

大慈寺には、小野小町ゆかりの七仏薬師堂が在ります。

 

 

説明板もあります。

薬師様と和歌のやりとりをした後、病気が治ったので、ここに住み着いたとあります

 

そばに、その時やりとりした歌が刻まれています。

       小野小町

南無薬師衆病悉除の願たてて身より仏の名こそ惜しけれ

  かへし  薬師如来

むらさめはただ一通り降るものをおのがみのかさそこに脱ぎおけ

「ちっとも治らないじゃないの

「直してあげるよ

みたいな感じかな?

 

「小町の最期は、諏訪ヶ岳の北東に位置する断崖絶壁に登り、眼前に薬師如来の浄瑠璃浄土の世界を見て、そこに身を投げました。」とあります

諏訪ヶ岳は、大慈寺北方の山ですね。

都の貴婦人が、断崖絶壁にのぼって、身を投げたのです

その遺体を村人が、丁寧に葬ったのが小町の墓という事です。

 

死後の物語は、生きた物語ですね

「小町の黒髪がやがて小野寺のイグサとなり、そのイグサを用いた畳の家では、必ず子宝に恵まれると言われました。」

小野寺は、イグサの産地だったのですか

 

 

では、小町の墓に参拝です。

 

細い道を50m行きます。

 

説明板があります。

小野寺の七仏薬師は行基の作だったのですか

「小町の黒髪が藺草(いぐさ)となり、小野寺蓙(おのでらござ)と名付けられて、この里の特産になった」とあります

 

ところで、どれが小町の墓石でしょう?

観音様の後ろに小町墓の文字があります

墓石の後ろの石造物も、なかなかりっぱです。

小野小町は、小野寺にとって必要な人だったのです

合掌

 

 

さて、帰りましょう。

犬伏を通って、67号線を帰りましょう。

大慈寺の山門を右に見て帰ります。

 

 

まもなく、あれ史跡だ

「藤原の秀郷が腰掛けて、大黒様と縁を結んだ大黒石」ということです。

 

 

道なりに南下して犬伏薬師堂の脇を通ります。

真田ブームが去って、もう何年でしょう?

ここは、関ヶ原の合戦の時、真田親子が一家の生き残りをかけて、西軍と東軍に別れる話し合いの場だったといいます。

久しぶりに、ちょっと寄り道です。

薬師堂は開いています

もしかしたら、週末だけかも知れないけど、よかった

 

お札も置いてあります

お賽銭を入れていただきます。

あれ、ここの薬師様は大慈寺と同じ行基菩薩の作です

 

 

 

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