黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

討戮すべしと仰せられければ(国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 1)

2024-11-09 14:02:35 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です

ひめちゃんは堀之内を西に出て、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

先日まで、秋なすを収穫していた畑には誰もいません。

ここは、新里村時代には、山上城跡公園で行われる薪能の駐車場になってました。

桐生市に合併してから、いつの間にか薪能もなくなりました

 

古い記事を検索していたら、懐かしい確信犯・獅子丸の写真(2020年12月)があります。

なんとも得意げな確信犯です

道ばたで何も入ってない黒ビニールの袋をくわえたのです。

おかあさんに「ペをしなさい」と言われて、「はーい」と放しました。

そして、ご褒美のツブツブ(ドッグフード)を数粒ゲットしたのです。

袋には何も入っていませんでした

確信犯です。

獅子くん、こんな一面もあったのです

一瞬の出来事で、ひめちゃんは蚊帳の外でした。

確信犯、獅子丸です

 

 




『桐生老談記』、新しい章です。
国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 1(討戮すべし」と仰せられければ)

去る程に、由良上野介源国重硬派藤生紀伊守を召し連れ、里見兄弟桐生に住居の由を、御尋ねなられける。

紀伊守承り申しけるは、「彼ら兄弟我がままの仕方、その上、石原を逃げうせたる有様、また謙信公より伊勢崎を分知せられ、また松嶋、阿久沢が取り持ちを以て高津戸に居城を構え、御当家へ一旦の届けもなく、かれこれ、わがまま至極なる振舞い、もし此の節その分に差し置かば、後日の程も計り難く候」と言上申されければ、

また国重公仰せられけるは、「尤も当家に向って弓引くべきにあらねども、この方の家中、石原を憎むほどならば、外にも野心の者多かるべし。然る時は兄弟がゆえに、分国の騒動、留まるべからず。尤も彼らが当家の類家にて、一家のちなみ不憫なれども、後日の乱を求めては当家の政道愚かなる所なり。またこの度越後より随い来る勢も百騎に過ぎたりと聞く。かれこれ心にくき事なり。討戮(りく)すべし」と仰せられければ、

紀伊守承り、「彼ら兄弟もの小身たりと申せど、一騎当千の兵、隨身いたし、籠城仕る上は、味方無勢にては計り難し、よき大将を仰せつけられて然るべき」旨を言上致されければ、「金谷因幡、藤生紀伊、両大将」とおおせられ、即ち両人内談いたさしつつ藤生は桐生へ帰り、わづかに勢の着頭をいたし、


あらすじです。

由良家は代替わりして、国重が当主になりました。
国重は藤生紀伊守を呼んで、里見兄弟が桐生領に居住していることを尋ねました。
紀伊守は、「彼ら兄弟はわがままのし放題です。そのうえ石原を逃亡させたり、謙信から伊勢崎を知行につけてもらったり、また松嶋、阿久沢の取り持ちで高津戸に居城を構え、当家に全く挨拶がありません。かれこれのわがままをそのままにしておくと、後日の愁いとなります。」と報告した。
国重は、「当家に弓を引くという訳ではないけれど、我が家中の石原を憎んでいるということは、外にも憎んでいる者がいるにちがいない。兄弟のせいでわが領国の騒動は収まりそうにない。彼らは、当家と同じ源氏であるけれども、後日の騒動が起こるまで、ほっておくわけにはいかない。討伐せよ。」といった。
紀伊守は承って、「彼らは小身ものであるけれど、一騎当千の兵が隨身いたして籠城している上は、味方の軍勢は少なくてはどうしようもありません。よき大将を申し付けてください。」ということを申し上げた。
国重は、「それならば、金谷因幡と藤生紀伊がふたり大将だ。」と言った。
金谷因幡守と藤生紀伊守は会談し、藤生紀伊守は桐生に帰って軍の準備をした。




里見兄弟は、由良さんによって討伐されるのですね
知りませんでした
兄弟の父を自害に追い込んだのは、石原石見です。
そして、彼らは桐生親綱にに内通していたのです
敵は石原石見と桐生親綱のはずです

里見兄弟は由良領国内で勝手に城を修復して住み、仇討ちをしようとしていたのです
謙信が伊勢崎を里見兄弟の知行に付けたと、また出てきます

伊勢崎の地名は、由良成重が伊勢神宮に土地を寄進したことによりついたと言われています。
変ですね

 

 

初稿  2019.12.05  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.09

 

 

 

(つづく)

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閑心院は未地の僧なれば(成重逝去、付けたり、葬送の事)

2024-11-06 22:43:39 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは1人散歩で、堀之内の西を歩いてきました。

降りそうで降らない、晴れそうで晴れない一日です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、おうち犬でお留守番です。

夕方は、いつも通り南に下り、中学校の信号付近まで行ってきました。

最近、行き会う犬が少なくなったような

 

2019年11月、ひめちゃんと獅子丸は堀之内を北に出て、よく岩神沼へ行っていました。

沼面に、逆さ赤城も、きれいに映っていました。

今年は、逆さ赤城がどうもきれいに映りません。

15歳半の七海ママも、元気に末っ子たちとの昼散歩をしていました。

ちょっと見には全く似ていない3名ですけど、子供たちはママと似ている部分を持ってます

 

 

 

成重逝去、付けたり、葬送の事

去る程に、由良成重公同六月上旬より、病の床に伏し給う。

同六月二十九日、御年六十一歳にて終に卒去し給う。

上下愁いななめならず、去れば閑心院は未地の僧なれば、金竜寺和尚導師にて、閑心院に葬(とむ)らい給う。

去れば此の君、厚く万民をあわれみ給いし故、御在世六年の間、上下悦こびも誠に御領地静謐、終に収まる事、是名将の徳なり。諸人名残おしく思うこそ、ことわりなり。


あらすじです。

そうしているうちに、由良成重公は天正6年6月上旬から、病の床に伏した。
6月29日、61歳で死去した。
菩提寺の閑心院(鳳仙寺)は、まだ世に知られていなかったので、金竜寺の和尚が首座として、葬儀を執り行った。
この人は万民をあわれんだので、治世6年の間、領地は平穏に治まった。
それは、ひとえに彼が名将だったからである。
みんなが別れを惜しんだのは、もっともなことである。



ウィキペディアによると、由良成重(成繁)は、永正3年(1506)の生まれ、天正6年(1578)6月30日死去とあります。
享年72歳です。
約10年違います

由良成繁は、内通してくれた関心院(鳳仙寺)を菩提寺にしたのでした。
でも、由良の殿様の葬儀を取り仕切るには、ちょっと無理がありました
「未地」は「未知」で、「まだ知られていない・有名でない」でしょう。

金竜寺は新田(太田市)にあります。
桐生にも、金龍寺を桐生氏の菩提寺西方寺のすぐ近くに建立したといいます。
「金竜台」の地名が残るそうです。

由良成繁は、関心院(鳳仙寺)に葬られました。


鳳仙寺の山門です。

 

鳳仙寺の文化財説明板と境内の案内図です。

 

由良成重の墓は、本堂裏の小高い所にあります。

 

本堂です。



由良成繁の墓です。



作者は、由良成繁をすばらしい名将だと評価しています
江戸時代の桐生は、由良氏の時代をよかったと懐かしむ空気に満ちていたのでしょう

 



( 成重逝去、付けたり、葬送の事  終 )

 

初稿  2019.12.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.06

 

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足利の栗崎という所に(越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その2)

2024-11-04 21:12:18 | 桐生老談記の世界

秋晴れの一日でした

ひめちゃんの夕方のお散歩は、南のコースです。

ほぼ毎日、中学校の信号付近を廻ってきます

30分強かかります。

最初は駆け足でどんどん進みます。

おかあさんも駆け足です。

すれ違った近所のお散歩おじさん、「走れるんかい 若いね

「ありがとうございます

前半は、結構走りながらのお散歩です。

後半は、ゆっくり歩きます。

 

2019年11月の黒柴家族です。

獅子丸は実家に帰って5ヶ月です。

ひめちゃんと獅子丸、小次郎パパとタバサねーちゃんとののこねーちゃんの2組でお散歩が多かったのかな

昼間は、七海ママのちい散歩に、末っ子のひめちゃんと獅子丸が付き合ってました

まさか、ひめちゃんが1人散歩になるなんて考えられませんでした

 

 

 

越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その2(足利の栗崎という所に)

 

里見兄弟、門をば踏み破り乱れ入りしが、逃げ失せ敵一人なし。

家来どもに尋ねければ、今夜夜討ちの沙汰を聞き、夕暮れに何方へか落ち給う故、行方は知れ申さずと候。

とえば宅にはいいかいもなきものどもばかり、兄弟は手持ちを失い帰られける。

その後、石原は住む所にたまりかね家人ばかり差し置き、その身は妻子を連れて、足利の栗崎という所に石原石見(いしはらいわみ)が四男の所に暫く忍びけると。

扨て扨て、あったら知行を捨て、臆病者に名をけがさん事、世常のあざけけりも誠にはづかしき事どもなり。



あらすじです。

里見兄弟は、石原石見の屋敷の門を蹴破って乱入したけれど、石原の家族は逃亡した後だった。
残って居た家来に尋ねると、「今夜の夜討ちの事を聞き、夕方にどこかに落ち延びて行かれました。どこへ行ったかはぞんじません。」という。
石原石見の屋敷には、取るに足りない者ばかりが残っていた。
その後石原は妻子を連れて、足利の栗崎にいる四男の所に、しばらく忍んでいたという。
さてさて、せっかくの知行を捨てて、臆病者とあざけりをうけたのは、まことに恥ずかしいことである。



石原石見は、里見兄弟の父を自害に追い込みました
そして、「石原兄弟は桐生家人となり、養命の出城在城せしめおのが栄花撰びしはにくまぬものこそなかりけり。」、その功績によって桐生家中になって、用命の出城を任されていたのです

あれ、でも、もう桐生家は滅びています
「この日はいかなる日ぞや、天正元年(癸酉みずのととり、1573年)三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり。」とありました。

兄弟の討ち入りのこの日は、天正六年(1578)五月二日です。

石原石見は、桐生家から由良家にうまく乗り換えたのでしょうか?
由良家に所領安堵してもらえるような、何か功績があったのでしょうか?

深く考えると矛盾がいっぱい出てきそうです

石原石見の屋敷があったとされる用命の砦は、桐生市川内町の永明寺(ようめいじ)の辺りだといわれます。
小高い丘の上に立っている感じです。


石原石見が落ちていった、足利の栗崎はどこだか分かりません。
ただ、両崖山(りょうがいさん)城は、ウィキペディアによれば、栗崎城の別名があるということです。

両崖山城(あしかがじょう)は、戦国時代には、足利長尾氏の居城ですね。
織姫神社の裏手の山になります。

両崖山城はまだ登れてません。

でも先日(2024年11月1日)、西側の長尾氏累代の墓のある長林寺に行ってきました。

長尾顕長の墓もありました。

詳しくは、後日「続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ」で

長尾顕長は由良氏からの養子でした。
石原石見が由良家中にうまく転身していれば、ありうる話ですけど

 

初稿  2019.11.27

改稿  2024.11.04

 


( 越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事    終 )

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養命の石原が住居に夜討ちに押し寄せけり(越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その 1)

2024-11-02 19:43:43 | 桐生老談記の世界

冷たい雨の一日です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、一日中おうち犬です。

お散歩は、朝も夕方も貧乏カッパ着用です。

 

2019年11月の写真を見ていたら、レインコートを着たひめちゃんと獅子丸がいます。

貫頭衣型で、頭を入れさせて、脇腹をマジックテープで留めました。

時折外れて、けっこう難儀しました

ある時、ビニール風呂敷を2カ所結べばほぼ同じになることを発見しました

以来、ビニール風呂敷の貧乏カッパでお散歩です。

 

このころの元気な獅子くんです

七海ママの、昼散歩にも付き合いました

 

 

 

 

越後勢着来、養命夜討ち、付けたり、石原足利落ちの事・その 1(養命の石原が住居に夜討ちに押し寄せけり)

 

去る程に、兄弟は遠藤がいさめにより空しく帰城なられける。

同二十日、高津戸に越後勢着城ありければ、兄弟喜悦をなし此上は石原一家を打ち亡ぼし、父の霊魂を祀るべしとて、相随う人々には森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順、此れ等以下兵都合三十人、天正六年五月二日、養命の石原が住居に夜討ちに押し寄せけり。

去れば石原は里見兄弟が近隣に住居し給う事をいぶかしく重い、物見に番人を置き半時も油断なく、依って妻子を引き連れ、夜討ちのこぬ前に落ちうせけり。



あらすじです。


里見兄弟は、津布子刑部を討とうとしたけれど、遠藤のいさめによって諦めた。
そうこうするうちに、高津戸城に越後勢が応援にやって来た。
兄弟は大喜びして、石原一家を打ち亡ぼし父の恨みを晴らすのだと言って、森川庄九郎、海野治郎右衛門、舎弟太郎左衛門、正木大蔵、同半平、板垣左衛門、谷彦雲平ら、直井幸右衛門、長浜与五兵衞、篠田宇平次、平山伊之介、大貫長順など合計三十人の兵を連れて、天正六年(1578)五月二日に、用命の砦に夜討ち押し寄せた。
石原石見は、兄弟が近くに居住しているのを不審に思い、油断なく物見の番人に見晴らせていた。
だから、報告を受けて、夜討ちが来ないうちに逃げ去ったのだった。



石原石見が逃げ去った後だったので、有名な用命の砦での戦いは、なかったのです
なぜ越後勢は、私的な恨みをはらそうとしている里見兄弟の、高津戸城に応援にやって来たのでしょう
戦国の世に、私的な仇討ちに加勢してくれるほど越後の上杉謙信はゆとりがあったのでしょうか
二人の他に兵が合計30人で用命の砦に押し寄せたといってるのでと言っているので、まあたいした応援ではないんでしょうけど。

用命の砦は、現在の永明寺(ようめいじ 桐生市川内町)が比定されているようです。
大分前に行って写真を撮ってきたはずですけど、見つかりません
周囲より高台になっていて、登ります。
確かに、「砦があったかも」という雰囲気はあります

 

永明寺の御朱印は、偶然に川内の東禅寺でいただきました。

左の瑠璃光山永明寺の堂宇、まさにこんな感じです

名号角塔婆を訪ねて・瑞雲山東禅寺



高津戸から永明寺(ようめいじ 桐生市川内町)まで、車で5分くらいです。
本文でもありますけど、確かに近いです



高津戸城跡には、要害神社があって、説明板もあります。



この説明板によると、
仁田山にいたのは里見の一族で上杉謙信に責められて自刃した。
里見兄弟のパパは、桐生氏の客分になり仁田山を任された。

そうすると、上杉謙信は一族の敵です
息子たちを託すなんて

どうもかなりの矛盾を含んだ話です

 

 

初稿   2019.11.23  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿   2024.11.02

 

 

(つづく)

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