人間、食って寝て生きている。
しかし、その食うというのがままならない。
普通は満員電車に揺られ、会社の上司の顔色を窺い、数字に追いまくられながら得たわずかな給金で、食う営みをなす。
最近では、そういう生活を嫌い、自分の気に入った土地で、パソコン一つを武器にフリーで仕事を請け負い、気が向けば海外でもどこでも拠点を移しながら稼ぐノマド族なる者もでてきた。
しかし、誰しもがこんなことができるわけではない。
どちらの生活もためらって自分のものにできないオカブは霞を食っている。
松葉敷き足元光る玉の露 素閑
敷松葉おもては竹馬遊びかな 素閑
夜汽車にて想ふは加賀の敷松葉 素閑
老親になにも報へぬ敷松葉 素閑
敷松葉家も閉じなむ月無き夜 素閑
鳳輦に篭す身のあらば敷松葉 素閑
湖のぞむ松葉敷きたる侘び庵 素閑
露地に敷く松葉を照らす斜陽かな 素閑
松葉敷住みたる主の愚痴しきり 素閑
おさなごの敷いた松葉を乱しけり 素閑
月ひそかいざりたどるや敷松葉 素閑
日本に「無教会」というキリスト教の宗派がある。
内村鑑三が創設したものである。
名前の通り教会を持たないキリスト教の宗派である。
しかし、この「無教会」は実態としては「反教会」であった。
内村は、当初、かなり矯激に教会を攻撃していた。
本来、名前の通り「無教会」であるならば、教会は無視していればよいのである。
しかし内村は教会を無視できなかった。
しかし、内村の「反教会」の態度も腰が定まらないというか、揺れ動いていた。
当初、あのように教会を攻撃していた内村だが、教会が国家権力の弾圧に遭うと、次第に教会に同情的な態度になっていく。
海外でも似たような事例がある。
アメリカのクウェーカーだ。オート・ミールでご存知の方もいるだろう。しかし、あれはキリスト教のクウェーカーとはなんの関係もないそうである。
それはさて措いて、創始者のフックスは内村同様、当初は既存の教会の在り方を激しく攻撃していた。
そして教会堂や、型にはまった礼拝を廃し、専従者の牧師を置かない宗派を打ち建てた。
しかし、時代が経つにつれ、教会堂も持ち、説教を中心とする普通の教会のやっている礼拝を催し、牧師も置くクウェーカーの一派が増えていった。
ちなみに日本で布教しているクウェーカーは創始当初のスタイルを守っている。
さて、オカブの立場は教会の働きとその歴史は貴重なものとして尊重する一方、教会と自分の信仰は何の関わりもないという考えだ。
カトリックはどうか知らないが、多分、カトリック以上のプロテスタントの教会至上主義には正直疲れた。
また教会も人間の共同体である。そこには集いの歓びもあるが、一方でドロドロした人間関係もある。
さらに動物園のような教会もある。オカブの教会だ。オカブはこのような教会はこの世にザラにあると睨んでいる。
また、神を崇めているのではなく、教会を崇めている人のなんと多い事よ(嘆息)
教会とは今後一切かかわりを持ちたくない。
静かな信仰の裡に過ごしたい。
振袖ののおなごいづらき夜咄や 素閑
昇竜の三夜豁然大悟せし 素閑
夜咄のおもては霜のひかりなり 素閑
夜咄や緞子の裂のなまめくや 素閑
釜鳴りて火相のよけり三夜かな 素閑
田の芹を和えて供する三夜かな 素閑
釜湧きて涼風覚ゆ三夜かな 素閑
通り雨袖の露拭き三夜の席 素閑
遠き旅三夜の田舎紳士かな 素閑
妻はなほ語りたりげの夜咄や 素閑
夜咄に楽しきお伽を語らせり 素閑
夜咄や表にタクシー停まりけり 素閑
今日、銀座の山野楽器にフルートの調整に行ってきた。
フルートという楽器は、管と歌口以外は、音孔を塞ぐ機械の要素が大部分で、それがまた微妙にできているので、メンテナンスが大変である。
オカブの持っている楽器は、もう完全にオーバーホールに出したほうが良いにもかかわらず、お金がないので、そうもいかない。
そこで山野楽器が主催して、フルート・メーカーが実施する無料調整会にしか出せない。しかし無料である!!!このことはでかい。
そんなこんなで、二十年ほど、凌いでいる。
しかし、話は変わるが、もう50歳台以上のフルーティストは引退するか、新しい楽器に買い替えて、吹き込んで修行をするかしたほうがいい。
フルートの楽器の革新による、演奏の進歩は著しい。
今、大きな面をして我こそはフルーティストでございとほざいている爺、婆は須らく慙死せしめるべきである。
今の若いフルーティストの躍進は目覚ましい。
早く後進に道を譲るべきである。
実習生油の機械翁の忌 素閑
枯れ枝の束を積みたり時雨忌や 素閑
銀行の窓口混みし芭蕉の忌 素閑
偲ぶ人供にいるなき芭蕉の忌 素閑
蕉翁のゆかりの餅ぞ忌をしのぶ 素閑
芭蕉忌や茶渋の染みたる大茶碗 素閑
小柴垣隣の礼に芭蕉の忌 素閑
背の寒き歳となるとぞ芭蕉忌や 素閑
枯れた葉のただはらはらと芭蕉の忌 素閑
世を過ぐる術もなしやと芭蕉の忌 素閑
覚ゆれば世に一人なり芭蕉忌や 素閑
山路来て詩想なき身の蕉翁忌 素閑
この前、行きつけのレストランでホンマモンのアブサントを飲ませてもらった。
真正75度のニガヨモギを使ったアニゼットである。
これは、19世紀にフランスで大いに流行った酒で、ユトリロなどは大分、これにゾッコンだったようだが、成分のニガヨモギに幻覚症状などを生じる作用があるため、各国政府によって製造が禁止された。
しかし、この酒のファンは多く、製造再開の声が高まり、製法に制限を付けた形で、再び製造が認可される形となった。
レストランの主人はストレートで飲めという。
魂消た!
アニスは水で割って、氷を入れて飲むものとばかり思っていたオカブはアブサントをストレートなどで飲んだら、ひっくり返ってしまうと思った。
しかし生で飲むアブサントは甘苦いニガヨモギの香りがつんと来て美味かった。
アニゼットの類は、他にも『51』、『RICARD』、『PERNOT』などがあり、いずれもポピュラーだ。
しかし『Absinthe』は希少で、珍しい思いをさせてもらった。
柿落葉背の高かりし男かな 素閑
柿長屋落葉を掃きて集いけり 素閑
柿の木の梢より一葉落つるかな 素閑
柿の枝百舌鳥留まり枯る落葉かな 素閑
柿落葉里に降れる杣人や 素閑
一株の柿の落葉を焼けるかな 素閑
屋敷町柿の落葉を愛でるかな 素閑
古びたる風呂敷包み柿落葉 素閑
我が子とは疎遠になりぬ柿落葉 素閑
金はできることなら欲しい。
しかしメディアで報じられている大金持ちのように何兆、幾千億の金を持っても何に使っていいかわからないだろう。
もちろん彼らの資産はすべてがキャッシュではなく、持ち株の評価額がほとんどだ。
新聞に書いてある額をじゃぶじゃぶ使えるわけではない。
しかしだ。
金が欲しいといっても、ほとんど今の暮らしが続けられれば十分だ。
たまの贅沢に外で御馳走が食えるくらいでいい。
しかし、金がないと志まで低くなるものだ。
チャップリンが人生の成功には『夢と努力とサム・マネー』と言ったそうだが、そのサム・マネーを稼ぐのがどれ程、大変なことよ。
大根を漬けて足らぬは猫の手や 素閑
沢庵を好み食いたりわが嬢ちゃん 素閑
沢庵の石に心を惹かれたり 素閑
巷間の話混りに沢庵や 素閑
大根の漬けたるさまよ年は去り 素閑
沢庵とあたたかき飯ただ愉し 素閑
沢庵や良妻賢母と呼ばれしか 素閑
古沢庵俗世のえにし続きたり 素閑
沢庵を漬けてディズニーランド行き 素閑
沢庵に地の苦しみの贖いや 素閑
スウェーデンはストックホルムに一回行ったことがある。
ノーベル賞の授賞式が行われる市庁舎も、祝宴が行われるコンサートホールも見てきたが、どちらも大したモニュメントではなかった。
それより、北欧美女がウェイトレスを務めるパブのほうが興味深かった。
北欧の女性はまさにブロンドで碧眼。肌は大理石のように白い。
そんな女性に麦酒をサーヴして貰うのだから溜まらない。
北欧は酒の値段が高い。
酒税がべらぼうに高いからである。
これは北欧人が酒が嫌いなのだからではなく、その年間を通しての陰鬱な気候に蝕まれた気分を晴らすために酒に逃避すること著しく、アル中が蔓延しているため、当局がわざと酒税を極端に高くしているからである。
しかし、あの北欧美女のパブでアクアヴィットを一杯やりたいというのは、もう叶わぬ夢である。
病身の妻ソファに寝毛布かけ 素閑
夜半に起き毛布にくるみ寝入りたり 素閑
星一つ空に貼り付き毛布かな 素閑
旧友の心地するなり古毛布 素閑
山小屋に毛布一つの仮泊かな 素閑
毛のしとね心は闇の荒れ原や 素閑
やうやうと暮れぬ穂高の毛布かな 素閑
毛布かけ明けたれ脚の飛び出しぬ 素閑
山の影黒々闇入り毛布かな 素閑
古毛布子に無精さを叱られて 素閑
毛布やら児の散らかしを喜びぬ 素閑
古毛布兵士の汗の臭いかな 素閑
かーたんが折り紙で蛙を作って遊んでいる。
手で押さえて放すと、蛙が跳ぶように跳ね返る。
たかが児戯のような折り紙遊びでも面白い。
なんの、つまらんと思っても脇で遊んでいるとついつい気になる。
こういう素朴な営みは、世知辛い今の世の中では大いに心を潤す。
コンピュータ・ゲームもよいが、こうした遊びも現代の子供たちに大いに普及してもらいたいものである。
ご放念くださいとある十夜の状 素閑
夜の遅き娘の帰り待つ十夜 素閑
鳩の啼く声もかそけく十夜かな 素閑
十夜婆ともある母は真言徒 素閑
九年坊つやの過ぐるに十夜かな 素閑
叛徒とも呼ばれし男十夜粥 素閑
昏き路十夜の気配独り行く 素閑
寒々とまかれし水や十夜の途 素閑
十夜の餉病妻豆腐の冷たきや 素閑
洋装の婦人十夜の念仏や 素閑
糸通す針の鋭き十夜入る 素閑
朗々とテノール歌ひ十夜の会 素閑
枯れた空街横たわるゆめ十夜 素閑
所謂、陰謀論と言われる事象がある。
ありもしえぬ裏事情を詮索して事のありようを勝手に解釈することである。
しかし、オカブが思うに、この世の政治・経済・社会問題や事件には、我々が知りえぬ、飛んでもない裏事情がうごめいており、世の中が操られていると考えている。
だからといって、我々、細民が陰謀論の裏事情を知ったところで、なんら世の中を変えることにはならないし、そもそも、そんな情報を入手することすらできないと思っている。
だからといって、世の中の裏情報を知って騒ぐのは楽しい。
週刊誌が売れるわけである。
陰謀論とは適当に付き合っていればよい。
夜も更けていずれの枕に神おわす 素閑
にわか雨仮りの宿りや神の旅 素閑
縁台になた豆煙管神の旅 素閑
川越しもなんの苦心や神旅す 素閑
神の身にあらずとせわし旅支度 素閑
松浦に休みたまへや神の旅 素閑
神の旅気苦労ばかりの常日頃 素閑
手相見に難儀あるとぞ神の旅 素閑
片親の子も旅せしや神ともに 素閑
冬凪の浦風よかり神旅す 素閑
人生とは、などと大上段に語るつもりはない。
そもそも自分の来し方は人様に自慢できるようなものではない。
一切皆苦とは仏教の教えだが、まことに生きるということは苦に満ちている。
しかし、そんな人生でもわずかばかりに良いことがとり混ざっている。
その良い事をよすがに、力にして人は生きているといってもよい。
小さな幸せとよく言うが、このことは本当は偉大な力を持っている。
手を引くも子をおぶいたり酉の市 素閑
二の酉に年の巡りの早きかな 素閑
月よりも明るき酉の市の灯や 素閑
酉の市見上げる空に尾翼灯 素閑
あれあそこ社を指すや酉の市 素閑
白々とメトロのホーム酉の市 素閑
熊手提げ蕎麦屋の酒の福笑ひ 素閑
咳き込みてやっと来たるはおかめ市 素閑
望郷の友を連れたるおかめ市 素閑
亡き友の好み通いぬ酉の市 素閑
フルートを自分で吹く。
中学生時代から吹いている。
全く、上達しない。
しかし、最近、一縷の要諦がわかってきた。
これも「悟り」かもしれぬ。
フルートは奥が深い楽器である。
決してお嬢様芸のちゃらちゃらした楽器ではない。
達磨忌や鏡のごとき大廊下 素閑
寒くなりそうろうと達磨の忌 素閑
夕暮れの時つぐる鐘達磨の忌 素閑
達磨忌や飛龍頭煮たり臭い込む 素閑
達磨忌のなしのつぶての恋文や 素閑
修行僧大太鼓にて達磨の忌 素閑
達磨忌の板塀曲がり隣家の婦 素閑
大男子達磨の忌日に現れぬ 素閑
早々に下がれる酒席達磨の忌 素閑
野の塔も毀れ朽ち入り達磨の忌 素閑
白隠も知らず秘法の達磨の忌 素閑
月見よとこぼれるひかり達磨の忌 素閑
達磨の忌脚のなきものまるの芋 素閑
達磨の忌正法涅槃妙心や 素閑