私の母は蕎麦が嫌いだった。食卓に上ることは一度たりともなく、蕎麦屋に連れて行かれたこともない。それが災いしたことがある。
まだ20代前半だった頃、お弁当を作らずに出勤し、職場で店屋物を取った。注文したのは親子丼。たまたま仕事の区切りがよかったので、出前が来たよと呼ばれてすぐに取りに行った。
職場の近くには蕎麦屋があり、毎日複数の職員が出前を取っていたが、私が頼むのはこの日が初めてだ。数ある容器の中から丼を見つけて中を確認し、隣の汁物と一緒に自分の机に持ち帰った。
まずは、お吸い物からいこう。
早速お椀のふたを取ると、予想以上に汁の色が濃く、ネギや人参などがゴロゴロと入っていた。あまり美味しそうではないが、店屋物だから仕方がない。一口味わって、あまりの不味さに吹き出しそうになった。
なにこれ、しょっぱ~い!
嫌な予感がした。丼にはお吸い物がつくという思い込みがあったのだが、どうやら間違いらしい。人目を避けるようにして、一番仲のよかった先輩にお椀の中身を聞いてみた。
「……それはね、鴨せいろのつゆよ。温かいつゆでいただくお蕎麦なの」
先輩は、声をひそめてニコリともせずに答えた。まさか、そんな蕎麦があったとは!
「どうしましょう……。ひと口飲んじゃいました……」
「しょうがないわよ。こっそり返してくるしかないでしょう」
心臓の音が、ひときわ大きくなった気がした。私は目立たないように気をつけながら、お椀を持ってコソコソと出前の場所に戻った。つゆがない、と騒ぎになっていたらおしまいだが、幸いなことに誰もいなかった。よかった、間に合ったのだ!
蕎麦の近くにお椀を戻すと、心の底からほっとした。
誰が注文したのかな、本当に悪いことをしちゃった。ま、知らないほうが美味しく食べられるよね。
自分の軽率な行動と、ものを知らない愚かさを振り返り、私は猛省した。
夕方、先ほどの先輩が、あまり質のよくない笑いを浮かべながら話しかけてきた。
「今日の鴨せいろ、誰が注文したのか知ってる?」
「いえ、知りませんけど」
「アサカワさんとマルヤマさんよ!」
聞いたとたん、めまいがした。アサカワさんは中年の脂ぎったセクハラ男、マルヤマさんはいけ好かないゴマすりの若造で、どちらも職場の嫌われ者なのだから。
私はどちらかのつゆを飲んでしまったというわけだ。
ああ、ショック……。私も知りたくなかった。
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職場の近くには蕎麦屋があり、毎日複数の職員が出前を取っていたが、私が頼むのはこの日が初めてだ。数ある容器の中から丼を見つけて中を確認し、隣の汁物と一緒に自分の机に持ち帰った。
まずは、お吸い物からいこう。
早速お椀のふたを取ると、予想以上に汁の色が濃く、ネギや人参などがゴロゴロと入っていた。あまり美味しそうではないが、店屋物だから仕方がない。一口味わって、あまりの不味さに吹き出しそうになった。
なにこれ、しょっぱ~い!
嫌な予感がした。丼にはお吸い物がつくという思い込みがあったのだが、どうやら間違いらしい。人目を避けるようにして、一番仲のよかった先輩にお椀の中身を聞いてみた。
「……それはね、鴨せいろのつゆよ。温かいつゆでいただくお蕎麦なの」
先輩は、声をひそめてニコリともせずに答えた。まさか、そんな蕎麦があったとは!
「どうしましょう……。ひと口飲んじゃいました……」
「しょうがないわよ。こっそり返してくるしかないでしょう」
心臓の音が、ひときわ大きくなった気がした。私は目立たないように気をつけながら、お椀を持ってコソコソと出前の場所に戻った。つゆがない、と騒ぎになっていたらおしまいだが、幸いなことに誰もいなかった。よかった、間に合ったのだ!
蕎麦の近くにお椀を戻すと、心の底からほっとした。
誰が注文したのかな、本当に悪いことをしちゃった。ま、知らないほうが美味しく食べられるよね。
自分の軽率な行動と、ものを知らない愚かさを振り返り、私は猛省した。
夕方、先ほどの先輩が、あまり質のよくない笑いを浮かべながら話しかけてきた。
「今日の鴨せいろ、誰が注文したのか知ってる?」
「いえ、知りませんけど」
「アサカワさんとマルヤマさんよ!」
聞いたとたん、めまいがした。アサカワさんは中年の脂ぎったセクハラ男、マルヤマさんはいけ好かないゴマすりの若造で、どちらも職場の嫌われ者なのだから。
私はどちらかのつゆを飲んでしまったというわけだ。
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