Tadaさんは言っている~
「南郷弁証法には 相変わらず 違和感を感じます。」と…
南郷氏は書いている~
「弁証法には、弁証法性がある」と…
私は想う…
『弁証法とは?』と~、
『弁証法の弁証法性とは?』と~
子供時代の私は、周囲の人々の話を素直に聴けていた。
還暦を過ぎた私は、いちいち人の言った事に反感を抱いてしまっている…
それは何故なのだろう?
自我の未熟・未形成時代は、他人の言葉・行動に従っていても違和感はなかった。
しかし、自我が確立した私は、その自我に従って自らの意志で行動してしまう。
それはそれで間違いない…のだろう。
しかし…目的が眼前の問題解決であるなら、己の自我を滅し・無視して、素直に他人の言葉を聴くことも重要な手段である筈なのに…
弁証法修得のカギは、外界との相互浸透である。
それも、弁証法的相互浸透である。
「唯の相互浸透」と「弁証法的相互浸透」の区別と連関は?
それは、
眼前の対象とだけの相互浸透と
眼前の対象を通して世界と相互浸透の違いである。
眼前の対象の変化・運動との相互浸透を通して、
その背後にある世界の変化・運動性と相互浸透するのが、弁証法的相互浸透なのだろう…
人類が、自然しか見えなかった頃…
徐々に、社会が見え始めた頃…
そして、精神が見え始めた頃…
人類にとっての相互浸透する対象が変化する事で、
弁証法の内実・中身も変化してきたのだろう…