新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

観念論と観念論的なものの見方について…

2017-12-26 21:30:38 | 想い思い考える



「弁証法の命は」は
私の以下の~コメント~で終わっている。


観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜 (自由びと)
2017-12-24 07:18:58

青龍さん

早速の返事コメントをありがとうございます♪


>つまり、「観念論」と「観念論的なものの見方」とは区別しなければならない、と思います。

この区別と連関で,再考してみます。



 



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~









ここからは、その続きである。


「観念論」を世界観とするなら(異論もあるだろうが…)、

「観念論的なモノの見方」とは、
その世界観を元にした自らの「観念」を駆使した「モノの見方」となろう。


ここで、「観念論」を自らの観念を元に論じるモノ、とすると…
「観念論的なものの見方」とは、自らの観念を元に、その観念を駆使した「モノの見方」となる。
ここでは、その自ら観念の創出過程は、問題外である。

唯物論的なモノの見方では、人間の観念は初めからあるモノではなく、
その人の成長過程で「創り創られる」モノ、とされている。

それに対して、観念論的モノの見方では、
人間の観念は「初めからある」モノ、と考えられている。

世界観としての観念論を置いておいて、
「観念論的な見方」を考える時、
先ず観念は「あるモノ」として出発する。

もし…ここで観念を「創り創られるモノ」として出発するなら、
自らの観念を駆使していても、それは「唯物論的な見方」となり得る。

元々ある観念の駆使とは、自らを疑う事なく、自信たっぷりの出発であろう。
何故なら「自信がない」とは、自らを疑うモノ、それは自らの観念を疑うモノ、である。
ならば、それは「観念がある」という観念論の否定となり得る。

もっとも…
「自信がない」という「観念がある」とするならば、
それはそれで観念論たり得るが…。
それでも~自信がない者が、超え高々に自らの観念論を主張可能であろうか?

さて、では~世界観を棚上げしての自らの観念を駆使しての
「観念論的なモノの見方」を考えてみよう。

先ず初めに問うのは、何の為の「モノの見方」だろう?
それは、そのモノと上手く上手に関わる為であろう。
そのモノ自体をしって、そのモノを使ったり、変えたり…する為であろう。

さてさて…ここまで考えて行き詰ってしまった…
そこで、以下の青龍さんのコメント元に進めてみよう。

>自身の理解としては、観念論と唯物論は自由びとさんの言われる通りに世界観のことであり、観念論が世界の創造をあるとする立場、唯物論が世界の創造は無いとする立場で、そのことに何の異存もありません。

>それに対して、観念論的なものの見方と唯物論的なものの見方といった場合は、前者は自身の観念を主体としてそこから世界のあり方を解釈していくものの見方であり、後者は世界のあり方をあくまで世界そのものの持つ性質として究明していくものの見方である、と理解しています。

上記の記述から~

観念論的なモノの見方は、
>自身の観念を主体としてそこから世界のあり方を解釈していくものの見方であり、…
唯物論的なモノの見方は、
>世界のあり方をあくまで世界そのものの持つ性質として究明していくものの見方である、



以上のように捉えるから、

念論的な見方も唯物論的な見方も、「世界のあり方」を問題としている。

ならば、その「解釈する」or「究明する」世界とは?の確定が必要となり得る。
さすれば、必然的に世界観=どのようなモノが世界であるか観が必要となる。

その世界の特定なしに、世界を解釈・究明する時、
その結果が世界の解釈・究明であると言いえる根拠はあるのだろうか?

世界観のない、観念論的な見方とは、自己の体験・経験だけから対象の見方。
世界観のない、唯物論的な見方とは、自分と他人の経験・体験からの対象の見方。

観念論的な見方とは、自己体験・経験からのカン・コツ的な対象の見方。
唯物論的な見方とは、多くの知見・科学的な根拠を元にした対象の見方。

まだまだ…考える必要・余地はあるが…
今日までの所は、ここまでにしよう。





コメント
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