いつの事だろうか?
玄和会の講習会だろうか?
それとも、大会時の師範講義であろうか?
その時~
「己をむなしゅうする時、何が生まれるか?」
「それは認識論的問題である…」
そんな記憶に残っていた師範の御言葉が、
先ほど心に頭に頭脳に甦ってきた。
己は、頭脳で、感じ・想い・思い・考える…等の認識の変化・運動をしている。
その変化・運動には、大きく二種類考えられる。
一つ、己の観念の変化・運動を中心に、外界の変化・運動に対応する。
二つ、対象の変化・運動を中心として、自らの観念を変化・運動させる。
言い換えるなら、
己の観念の変化・運動性でもって、対象の変化・運動性を見て取る。
対象に即して、己の観念を変化・運動させ、対象の変化・運動性を見て取る。
または、
自らの観念的変化・運動に従って、五体を駆使して対象に働き掛ける。
対象の変化・運動性に即して、五体を駆使して対象に働き掛ける。
端的には、
自己の弁証法性中心か?
対象の弁証法性中心か?
である。
さて…
ここで「己をむなしゅうする」と、どうなるのだろう?
この時、自己の弁証法性は、否定or無視されてしまう。
という事は~その時、
自己感情は否定・無視され。
自分の想い・思いは否定・無視され。
自己の欲求さえも無視・否定される、モノである。
ならば、
その「己がない者」の態度・言動は、どうなるのだろうか?
その者は、
生まれたての赤子のようなモノであり
でも、泣かない・叫ばないモノであり、
話せるけど、自分の言葉は出ないモノであろう。
そんな「己をむなしゅうした己のない者」の態度・言動は如何に?
それは、対象に同調した態度・言動であり、
それは、対象を映し取ったモノであろうか…