新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「己をむなしゅうする」時…

2017-12-24 11:44:00 | 想い思い考える

いつの事だろうか?
玄和会の講習会だろうか?
それとも、大会時の師範講義であろうか?

その時~
「己をむなしゅうする時、何が生まれるか?」
「それは認識論的問題である…」
そんな記憶に残っていた師範の御言葉が、
先ほど心に頭に頭脳に甦ってきた。


己は、頭脳で、感じ・想い・思い・考える…等の認識の変化・運動をしている。
その変化・運動には、大きく二種類考えられる。

一つ、己の観念の変化・運動を中心に、外界の変化・運動に対応する。
二つ、対象の変化・運動を中心として、自らの観念を変化・運動させる。

言い換えるなら、
己の観念の変化・運動性でもって、対象の変化・運動性を見て取る。
対象に即して、己の観念を変化・運動させ、対象の変化・運動性を見て取る。

または、
自らの観念的変化・運動に従って、五体を駆使して対象に働き掛ける。
対象の変化・運動性に即して、五体を駆使して対象に働き掛ける。


端的には、
自己の弁証法性中心か?
対象の弁証法性中心か?
である。


さて…
ここで「己をむなしゅうする」と、どうなるのだろう?
この時、自己の弁証法性は、否定or無視されてしまう。

という事は~その時、
自己感情は否定・無視され。
自分の想い・思いは否定・無視され。
自己の欲求さえも無視・否定される、モノである。

ならば、
その「己がない者」の態度・言動は、どうなるのだろうか?

その者は、
生まれたての赤子のようなモノであり
でも、泣かない・叫ばないモノであり、
話せるけど、自分の言葉は出ないモノであろう。

そんな「己をむなしゅうした己のない者」の態度・言動は如何に?
それは、対象に同調した態度・言動であり、
それは、対象を映し取ったモノであろうか…







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弁証法の命は?

2017-12-24 08:02:33 | 想い思い考える


弁証法の命は?

弁証法の命は、その変化・運動の過程性…かな~

以下はブログ
<鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~>
<鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。>

の記事と、そのコメント欄でのやり取りである。



~ブログ記事~

観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜
2017-12-21 16:51:36 | 唯物論と観念論


観念論的なものの見方の原点について考えると、自身の原点という像のスケールの小さいことが痛感される。

今朝、ブログ「新・悟りを求めて」(時々本ブログにコメントをいただく自由びとさんのブログ)へのコメントとして、観念論的な立場の形成のあらまほしき過程的構造について、抽象画の上達の過程的構造の二重性として説いていた時に、またその後に、観念論的な、とはそもそも如何なるアタマの働かせ方なのか?その原点とは(またその最高の形態とは)如何なるものなのか?と考えることとなった。(残念ながらこのコメントは上手く投稿出来ず消えてしまった様であるが)

その時まで自身では、観念論的な見方というもののそもそもの原点は古代ギリシアの時代に対象の必死の究明の中で事実の不足や事実を究明する実力の不足から、対象に即して対象の構造として考えることが出来難かったがゆえに、こうであろうという自身の思いや他の分かることが出来たと思える対象の構造を横滑りさせて?の、例えば東洋医学が人間の解剖生理を自然界の四季の循環(五行)に擬えて、そうであろうから、そうに違いない、果てはそうであると考えていった様に、その様にしか考えることが出来なかったからの、観念論的な対象の究明、説明である。と思っていた。

しかしながら、観念論的な見方が可能である実力を抽象画を描く実力と考えて見ると、そのことが可能であるということはそのことを可能とするものが人間の実力としてあったからであり、観念論的な見方の原点というからには観念論的な見方を可能とした大元のもの、その認識の実力とは何なのか?ということを考えて見なければならないのではないか、と思える様になっていった。

そう思って、考えて見た時に想起されたのが、南郷先生が説いてくださった、サルからヒトへの認識の発展における「もどき像」というものである。

その自身の理解を簡単には、サルまでの生命体は外界の反映としての像(素朴な唯物論的なものの見方?)しか描けなかったものが、サルに至って樹上生活を送る中で、次第次第に外界の反映でありながらも反映そのままでない像(=もどき像=観念論的な見方の芽生え?)を描けるようになっていって、そこからついには外界の反映の像を自分勝手に加工したり、それ以上の外界の反映とは独立に像を描くこと(観念論的な見方?)が可能となっていった、ということである。

これ以上は、スマホでの、では思いが深まっていかないので、改めて説きたい。









~コメント~

観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜 (自由びと)
2017-12-23 15:52:51


青龍さん

>観念論的な見方の原点というからには観念論的な見方を可能とした大元のもの、その認識の実力とは何なのか?

この問いを一読した時、私の瞬間的な想いは
観念論は、世界は神によって創られたモノ的世界観で…
それが原点でしょ!でした。

でも、再読して、「大本の認識の実力」となると…「?」になるかな…
そんなこんなあんな事を想いから、私の「観念論」が蠢く事に相成りました。
一読が一昨日、再読が昨晩…それから夢の国への出発でした。

そして…なのかどうか不明ですが…
一晩寝た今朝六時過ぎの事。
外は真っ暗、剣道の練成会へ行く息子を送り出してもうひと眠りしようと…
玄関から廊下を歩いて部屋に戻ろうとして、眼前の電灯を消しました。
内心『暗くなった、電気は全て消した。』と納得・安心して部屋へ入りました。
その少し後、忘れ物に気付き部屋から出たら、なんと玄関の方が明るかったのです。
内心…『しまった!消し忘れだ!』と気づきました。

これは、一般的表現なら「消し忘れ」ですが…
この場合は、私の認識では「全て消した」なのでした。

そう~この時の私の「全て」とは、眼前の明るい場所の電気であり、
その私の「全て」には、後ろの見えない・感覚しない玄関の明かりは、含まれていません。

この「全て」を「世界」と置き換えれてみれば…と気づいて考えました。

観念論とは、認識内の己が認識する世界から、対象を論じるモノ。
唯物論とは、外界を世界と認識して、対象を論じるモノ。

この二つの原動力は、同じ論じる能力であり、
それはサルからヒトへの過程での「もどき」像…なのでしょう。
でも、観念論の原点は、外界を己の認識している認識内世界とする時なのでは…?

今回の私の場合では、
目の前(認識・感覚可能な範囲の世界)の明かりは消した=すべて消した、観念論的でした。
しかし、唯物論なら感覚でき難い後ろ(より広い世界)を確認した上での電気消しが、「全て消した」なのでしょう。



世界観としての観念論では、世界は神の創造物ならば、
世界は変化・運動していても、神は全知全能で不変・不動となります。
このような世界観では、己の信じる神の範囲内での論説となり、
それは、己の限界=神の限界、なのでしょう。

しかし、世界観としての唯物論なら、
外界の変化・運動に即して、強制的に変化・運動させられるので、
その論説・言説は、ある意味、限界のないモノになり得る…のでしょう…


>サルまでの生命体は外界の反映としての像(素朴な唯物論的なものの見方?)しか描けなかったものが

本能的実在であるサル・動物は、本能の範囲内での反映でなのでしょう。
これは、この場合・本能=外界の変化・運動なら問題はない、のでしょう。
しかし、人間の手で、外界が大きく変えられた時など、本能と外界がの不一致から、浜に打ち上げられたクジラ、とかいう例もあるらしい、です。

これは、観念論(的行動)でも唯物論(的行動)でもなく、いうなれば本能的行動なのでしょう。








~コメント~

観念論と観念論的なものの見方 (kagakuteki-sinkyuron)
2017-12-23 19:07:11

コメントありがとうございます。

時間の余裕があまり無いので、自身の思いだけを書きます。

自身の理解としては、観念論と唯物論は自由びとさんの言われる通りに世界観のことであり、観念論が世界の創造をあるとする立場、唯物論が世界の創造は無いとする立場で、そのことに何の異存もありません。

それに対して、観念論的なものの見方と唯物論的なものの見方といった場合は、前者は自身の観念を主体としてそこから世界のあり方を解釈していくものの見方であり、後者は世界のあり方をあくまで世界そのものの持つ性質として究明していくものの見方である、と理解しています。

つまり、「観念論」と「観念論的なものの見方」とは区別しなければならない、と思います。

またそれゆえに、「観念論」哲学者であるヘーゲルが「唯物論的なものの見方」をすることは可能であるし、そのことでヘーゲルの立場は矛盾したものとはならない、とも思えます。







~コメント~

ここは、まだ実力不足の部分であるので……。
観念論的なものの見方の原点とはなにか(増補✍️)〜サルからヒトへの過程と直接に誕生させられたもどき像〜 (自由びと)
2017-12-24 07:18:58

青龍さん

早速の返事コメントをありがとうございます♪


>つまり、「観念論」と「観念論的なものの見方」とは区別しなければならない、と思います。

この区別と連関で,再考してみます。





以上・ここまでが、
12月24日・今日クリスマスイブ、8時・現在までの展開である。








コメント
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