ヘーゲル哲学は、初めに絶対精神ありき…
その前の始まりは?
南郷継正は、初めに今の自分に満足できない己ありき…
その前は?
では、自由びとの始まりは、どこか?
悟りたい自分に気付いた己なのだろうか?
ならば、世界の始まりは?
では、弁証法の始まりは?
弁証法の始まりはゼノンの絶対矛盾、だと誰かが書いている。
その絶対矛盾って?
それは、運動を言葉で表現しよう、としたモノ!?
南郷継正は、書いている。
言葉は、認識の表現である。
認識は、頭脳内に蠢いている像である。
蠢いている頭脳内の像を言語化したモノが言葉である。
認識の言語化の為には、像の蠢きを止める必要がある。
認識・像の蠢きを止めたら、運動体ではなく、静止体である。
静止体の言葉で運動体の運動を表現しようとする事が矛盾。
弁証法とは、静止体の言葉で運動体の運動の表現である。
しかも、運動体の運動の法則化の為の方法であり、結果的な法則でもある。
植物の変化・運動と自然の変化・運動は違っている。
自然の変化・運動と社会の変化・運動は異なっている。
自然の、社会の、精神の…変化・運動も当然に異なっている。
それでも、みんなひとつの変化・運動としての弁証法なのである。
部分的変化・運動の法則化も弁証法なら、
全体的変化・運動の法則化も弁証法だとするなら、
その弁証法って何なのだろう?
部分的な運動法則と全体的な運動法則が同じモノなのだろうか?
部分と全体が異なっているのは当然・必然である。
なのに、それらを、同じひとつの「弁証法」という言葉で表現している。
弁証法という言葉はひとつ。
そして頭脳内の弁証法像もひとつ。
でも、ひとつの弁証法像・認識が対象に対応して自在自由に変化・運動する。
ひとつ実体で無限の変化・運動が可能なのが弁証法像・認識なのだろう?
その無限的変化・運動像を言語化すれば、これまた無限的な言語表現となり得るのかな?