今の現実=過去の現実、ではなく、
今の自分=過去の自分、ではなく、
今の現実∽過去の現実、
今の自分∽過去の自分、
構造は一緒、実体も一緒、
でも、その現象・変化に違い相違が~
ウンチ・オシッコたれ無さん~
以下は、
お宅コメントへの私コメントである。
>自由びとさんが誤解をしているのは私にとって自由びとさんが「まったく見ず知らずの単なる個人の自由びと」だと考えているところです。
↑~
お宅は、自由びとを知っているつもりでも…
私は、お宅の事を全く知りません。
私にとってのお宅は、見知らぬ御仁。
それなに…~
これって「ストカーの心理」ですね。
お宅が考える事が、現実ではありません。
もっとも…お宅が「ソクラテス」なら、
認識・観念的には、見知らぬ御仁とは言い難いですが…
それでも…
ネット界で知り得ている者と現実社会での知人とは、別物です。
>そうではなく自由びとさんは私にとっては玄和会という団体の自由びとであり南郷学派側の自由びとだということです。玄和会の自由びとだということは徹底的に他流派・他団体を批判非難している「あの玄和会であり、あの南郷学派」側の自由びとだということです。
↑~
過去の現実が必ずしも、今の現実ではありません。
それって、トラウマ的な心的障碍者ですね。
>そうした「玄和会側の自分」をやあやあ我こそは!と名乗った上で「まったく見知らぬ同士の初対面の対話」を想像するのも無理があるでしょうね。
↑~
いつの時代の話ですか?
これって…お宅の妄想です。
というか…
お宅の心的世界=外界・現実界にしてしまっている、ようですね。
そもそも…ここで「全くの阿保…」と喧嘩・口論を吹っかけてきたのはお宅ですよ。
私は、ただ平和に私の「問い」を書いてるだけで、
他流派の批判など、していませし…
>「他流派他団体の武道家を笑ってしまってバカだと思っている」と書籍で公言している「あの人」の身内の自由びとさんなのですから、私の発する言動への価値観を小学生の倫理性と等価だと考えるところに勘違いがあるのです。
↑~
これ妄想です。
過去に玄和会会員だった事を「身内」と書くなら、
地球人は、全員が身内ですね。
すると、お宅と私も、お宅と南郷氏も「身内」となりますね。
お宅の「身内」の意味が広義すぎます。
>自由びとさんはご自分が教員時代にまだ授業中にも関わらず児童をほったらかしにして学校を去ったエピソードを綴っていましたけど、そんな行為に及んだ人間でも直に会ったことがない相手なら阿呆と呼んではいけないという倫理性ですか?
↑~
ほ~ほ…
ならば、赤んぼ時代にオムツにウンチ・オシッコを
垂れ流していただろうお宅だから~
今のお宅を
「ウンチ垂れ、オシッコたれ」と呼び続けても、間違いないという事ですね。
では~続きは
ウンチ垂れのオシッコたれのお宅「無」へ
>私は私の考えがありますから、既に述べたように「1を十個たしたら10」になるということは将来は社会に出ていく児童たちは何としてでも理解し身に付けなければならない基礎知識であり、それはn進数における他の2進数や5進数、16進数と等価ではまったくなく、他のように考えていいものだとも考えていないわけです。
↑~
だから、どうした。
私は、
二進法・五進法と十進法が等価とは、
思っていません・書いてもいません。
十進法が、優れた数の体系である事は、私にとって当然で当たり前です。
等価でないモノでも、
その価値ではなく、その構造の比較・検討は、有効です。
それは、その比較から、十進法の優れた構造の再認識が可能です。
>なぜなら社会における10進数の位置づけが他の2進数や16進数と等価でないからですし、それは「生きていく」「収入を得ていく」ということに直結していくわけですから、「10進数」だとか「自然数の計算」ということを「単なる算数」と考える系統性の無い(人によってはそれを単細胞と言ったりもしますが)理解と「義務教育の学科」と理解する、つまりは国家的に税金を投じて果たされる事柄だと理解しているものとの違いなわけです。
ですから、自然数の計算というのは義務教育においては「こうでなければならない」という定まったものがあり、教育指導に関わる者としては定められた正しい計算ができるように導くまでであり、今まで考えられてこなかった新しい思考を創造することではないと考えるのですよ。
もっとも、生まれながらというか幼少期の育ちによってというか偶然に天才的な創造性を発揮する子どもたちもいるようで、海外ではそうした子どもを選別して英才教育を施すシステムもあるようですけれど、それはそれで「公的な教育」としてシステムが公的に認可されていなければならないでしょうね。
↑
ウンチ・オシッコたれのお宅・無さんへ
これって…十進法の世界にどっドップリ浸かっている事実的・現象的発言ですね。
十進法は、数の進化・発展の結果ですから、優れた面が多くのあるのは当然です。
それでも、パソコン・電子機器…は二進法で、
時は、六十進法…など、色々と便利に使われていますよ。
十進法から、世界を観ていますね。
本来は、世界の中に数を見る・個々の体系を見るという視点も必要ですね。
>ちなみに「教員免許を所持した正規教員としての仕事」ではなく「補助員」としての仕事をすることに不満を覚えるというのも還暦すぎた大人としては未成熟だと言わざるを得ませんね。
非公開ですから門外漢の私に詳しいことは分かりませんが、自由びとさんの所属している玄和さんでは『ガラスの仮面』を使った「他者を演じる」指導がされているとか。
ガラスの仮面の北島マヤが演じる役を選り好みするのも変な話で正規教員を演じるときは正規教員としての自由びとに成りきればいいし、補助員を演じるときは補助員としての自由びとに成りきればいいだけで、そこに自由びと個人の嗜好・選り好みなど介入させたら役者失格なだけでしょう。
そんな理由で小学生の教育指導という税金が投入された国家的仕事において卒後の子どもの生活力というものを考えもしていない公務員の思考を税金を支払っている国民市民という次元から「阿呆だ」と考えることについて「職種や立場の違いを超越した裸の人と人」という次元から不服を述べてる自由びとさんの思考には了承しがたい旨を説きたいと考えますよ。
ま、もっとも自由びとさんが実際には小学生の補助員などではなく、玄和だか南郷学派だかの上の立場の人間でもっと下の立場の指導員の補助をしてるといった奥歯にはさまった言い方ならば、なんだか辻褄合わない変な記述もそれなりには合点がいきますがね。
最近、自由びとの名前で2ちゃんねるにコメントしたのは自由びとさんご本人?
↑~
ウンチ・オシッコたれのお宅・無さん
ウンチにオシッコの垂れ流しだけではモノ足りず、
妄想・幻想・夢想に無想の垂れ流しですよ。
「不満」というか、「物足りなさ」と言うか…
補助員をしていると、
『今の自分が教師だったら、あの時このようにすればよかった~』とか、
『過去の自分は、ああしたが、いまなら、こうできる~』とか、
『この先生は、こうして失敗た゜から、ああすれば成功かも?』とか…
その時々に生まれる、よりよくできる・成功法…等を、
補助員の立場では、地頭に対して実践できない…
まあ~そんな「物足りなさ」というか「後悔」というか…
そんな複雑に入り混じった感情・言葉・表現ですね。
それでも、ここ最近は、補助員としての実践が可能になりました。
その理由は、
以前の私は「教師なら…」と考えていたのですが…
最近は、「補助員の自分なら」と思い・考える事が可能になった…のでしょうか。
それは、私が、
やっと「補助員の立場が当然・当たり前」と思える・自覚できる、
ようになった、のでしょう。
お分かりかな?
ウンチ・オシッコたれ無さん~
垂れ流すのは、ウンチ・オシッコ・妄想・幻想・夢想だけにして、
私の真意のコメントも一緒に垂れ流さにいで下さいね!
今の自分=過去の自分、ではなく、
今の現実∽過去の現実、
今の自分∽過去の自分、
構造は一緒、実体も一緒、
でも、その現象・変化に違い相違が~
ウンチ・オシッコたれ無さん~
以下は、
お宅コメントへの私コメントである。
>自由びとさんが誤解をしているのは私にとって自由びとさんが「まったく見ず知らずの単なる個人の自由びと」だと考えているところです。
↑~
お宅は、自由びとを知っているつもりでも…
私は、お宅の事を全く知りません。
私にとってのお宅は、見知らぬ御仁。
それなに…~
これって「ストカーの心理」ですね。
お宅が考える事が、現実ではありません。
もっとも…お宅が「ソクラテス」なら、
認識・観念的には、見知らぬ御仁とは言い難いですが…
それでも…
ネット界で知り得ている者と現実社会での知人とは、別物です。
>そうではなく自由びとさんは私にとっては玄和会という団体の自由びとであり南郷学派側の自由びとだということです。玄和会の自由びとだということは徹底的に他流派・他団体を批判非難している「あの玄和会であり、あの南郷学派」側の自由びとだということです。
↑~
過去の現実が必ずしも、今の現実ではありません。
それって、トラウマ的な心的障碍者ですね。
>そうした「玄和会側の自分」をやあやあ我こそは!と名乗った上で「まったく見知らぬ同士の初対面の対話」を想像するのも無理があるでしょうね。
↑~
いつの時代の話ですか?
これって…お宅の妄想です。
というか…
お宅の心的世界=外界・現実界にしてしまっている、ようですね。
そもそも…ここで「全くの阿保…」と喧嘩・口論を吹っかけてきたのはお宅ですよ。
私は、ただ平和に私の「問い」を書いてるだけで、
他流派の批判など、していませし…
>「他流派他団体の武道家を笑ってしまってバカだと思っている」と書籍で公言している「あの人」の身内の自由びとさんなのですから、私の発する言動への価値観を小学生の倫理性と等価だと考えるところに勘違いがあるのです。
↑~
これ妄想です。
過去に玄和会会員だった事を「身内」と書くなら、
地球人は、全員が身内ですね。
すると、お宅と私も、お宅と南郷氏も「身内」となりますね。
お宅の「身内」の意味が広義すぎます。
>自由びとさんはご自分が教員時代にまだ授業中にも関わらず児童をほったらかしにして学校を去ったエピソードを綴っていましたけど、そんな行為に及んだ人間でも直に会ったことがない相手なら阿呆と呼んではいけないという倫理性ですか?
↑~
ほ~ほ…
ならば、赤んぼ時代にオムツにウンチ・オシッコを
垂れ流していただろうお宅だから~
今のお宅を
「ウンチ垂れ、オシッコたれ」と呼び続けても、間違いないという事ですね。
では~続きは
ウンチ垂れのオシッコたれのお宅「無」へ
>私は私の考えがありますから、既に述べたように「1を十個たしたら10」になるということは将来は社会に出ていく児童たちは何としてでも理解し身に付けなければならない基礎知識であり、それはn進数における他の2進数や5進数、16進数と等価ではまったくなく、他のように考えていいものだとも考えていないわけです。
↑~
だから、どうした。
私は、
二進法・五進法と十進法が等価とは、
思っていません・書いてもいません。
十進法が、優れた数の体系である事は、私にとって当然で当たり前です。
等価でないモノでも、
その価値ではなく、その構造の比較・検討は、有効です。
それは、その比較から、十進法の優れた構造の再認識が可能です。
>なぜなら社会における10進数の位置づけが他の2進数や16進数と等価でないからですし、それは「生きていく」「収入を得ていく」ということに直結していくわけですから、「10進数」だとか「自然数の計算」ということを「単なる算数」と考える系統性の無い(人によってはそれを単細胞と言ったりもしますが)理解と「義務教育の学科」と理解する、つまりは国家的に税金を投じて果たされる事柄だと理解しているものとの違いなわけです。
ですから、自然数の計算というのは義務教育においては「こうでなければならない」という定まったものがあり、教育指導に関わる者としては定められた正しい計算ができるように導くまでであり、今まで考えられてこなかった新しい思考を創造することではないと考えるのですよ。
もっとも、生まれながらというか幼少期の育ちによってというか偶然に天才的な創造性を発揮する子どもたちもいるようで、海外ではそうした子どもを選別して英才教育を施すシステムもあるようですけれど、それはそれで「公的な教育」としてシステムが公的に認可されていなければならないでしょうね。
↑
ウンチ・オシッコたれのお宅・無さんへ
これって…十進法の世界にどっドップリ浸かっている事実的・現象的発言ですね。
十進法は、数の進化・発展の結果ですから、優れた面が多くのあるのは当然です。
それでも、パソコン・電子機器…は二進法で、
時は、六十進法…など、色々と便利に使われていますよ。
十進法から、世界を観ていますね。
本来は、世界の中に数を見る・個々の体系を見るという視点も必要ですね。
>ちなみに「教員免許を所持した正規教員としての仕事」ではなく「補助員」としての仕事をすることに不満を覚えるというのも還暦すぎた大人としては未成熟だと言わざるを得ませんね。
非公開ですから門外漢の私に詳しいことは分かりませんが、自由びとさんの所属している玄和さんでは『ガラスの仮面』を使った「他者を演じる」指導がされているとか。
ガラスの仮面の北島マヤが演じる役を選り好みするのも変な話で正規教員を演じるときは正規教員としての自由びとに成りきればいいし、補助員を演じるときは補助員としての自由びとに成りきればいいだけで、そこに自由びと個人の嗜好・選り好みなど介入させたら役者失格なだけでしょう。
そんな理由で小学生の教育指導という税金が投入された国家的仕事において卒後の子どもの生活力というものを考えもしていない公務員の思考を税金を支払っている国民市民という次元から「阿呆だ」と考えることについて「職種や立場の違いを超越した裸の人と人」という次元から不服を述べてる自由びとさんの思考には了承しがたい旨を説きたいと考えますよ。
ま、もっとも自由びとさんが実際には小学生の補助員などではなく、玄和だか南郷学派だかの上の立場の人間でもっと下の立場の指導員の補助をしてるといった奥歯にはさまった言い方ならば、なんだか辻褄合わない変な記述もそれなりには合点がいきますがね。
最近、自由びとの名前で2ちゃんねるにコメントしたのは自由びとさんご本人?
↑~
ウンチ・オシッコたれのお宅・無さん
ウンチにオシッコの垂れ流しだけではモノ足りず、
妄想・幻想・夢想に無想の垂れ流しですよ。
「不満」というか、「物足りなさ」と言うか…
補助員をしていると、
『今の自分が教師だったら、あの時このようにすればよかった~』とか、
『過去の自分は、ああしたが、いまなら、こうできる~』とか、
『この先生は、こうして失敗た゜から、ああすれば成功かも?』とか…
その時々に生まれる、よりよくできる・成功法…等を、
補助員の立場では、地頭に対して実践できない…
まあ~そんな「物足りなさ」というか「後悔」というか…
そんな複雑に入り混じった感情・言葉・表現ですね。
それでも、ここ最近は、補助員としての実践が可能になりました。
その理由は、
以前の私は「教師なら…」と考えていたのですが…
最近は、「補助員の自分なら」と思い・考える事が可能になった…のでしょうか。
それは、私が、
やっと「補助員の立場が当然・当たり前」と思える・自覚できる、
ようになった、のでしょう。
お分かりかな?
ウンチ・オシッコたれ無さん~
垂れ流すのは、ウンチ・オシッコ・妄想・幻想・夢想だけにして、
私の真意のコメントも一緒に垂れ流さにいで下さいね!
自由びとさんからすれば一方的に私を誹謗することで少しはストレス解消の憂さ晴らしになったのでしょうけれど、残念ながら私は幼少期でもウンチを垂れたことはありません。
それは私の両親が立派に私を育て上げてくれたからで、確かに生後数ヵ月はオムツをはいていましたが次第にトイレで用を足すように教育指導されましてね、社会的に排泄物を処理すべく用意されたところ以外で排泄してしまった経験をもっていないのです。
オムツというのは、まだ自分の意思で場所を選んで排泄できない幼少期に大人(親、社会)が用意してくれた「携帯トイレ」のようなもので「そこで排泄して構わない」と誰しもが社会的に合意しているものですから、それを「ウンチ垂れ、オシッコ垂れ」だと理解する自由びとさんのような思考では、「ウンチ垂れ、オシッコ垂れ」とは重力に従って排泄物が落下すること一般を指すことになり、オムツの中で用を足そうがトイレの便器に用を足そうが全て「ウンチ垂れ、オシッコ垂れ」となり、何も言っていないのと同じになります。
私は生まれ落ちてこのかた排泄物を処理すべく社会的に用意された場所以外の、例えば居間だとか床の間だとか庭だとかに排泄物を落としたことはありません。
また、自ら玄和会の人間であり南郷尊師を崇拝していると述べた自由びとさんを玄和側の人間だと理解するのは極めて自然なことですが、そこから生じてくる羞恥心を隠すために「無」だと名乗っている私のコテハンを、まったく別の場所での「ソクラテス」なるコテハンの人物と同一人格や否やなどと不自然な思考をするのも論外です。
ちなみに、まだお返事がありませんが最近2ちゃんねるに「自由びと」のコテハンでコメントしたのは自由びとさんご本人ですね?また何かを画策したのでしょう。はかりごとがお好きなようですし。
ところで、「昔の話」と言われましたからご確認したいのですが、以前の自由びとさんは「玄和会を、南郷継正を信じろ」と主張してましたけど、今の自由びとさんは「信じるに値しない」と考えてますか?そこを正面から確認しておかなければ国会議員の答弁と同じで「何がどう昔のことなのか?」を明らかにせずに法案を通すがごときことになりますね。
>自由びとさんからすれば一方的に私を誹謗することで少しはストレス解消の憂さ晴らしになったのでしょうけれど、
↑~
それって、お宅の事なのでは?
「一方的に玄和会・自由びとを誹謗…」
>「何がどう昔のことなのか?」
↑~
何度も、どこかで書いています。
私は、もう
数年前?
十数年前?
数十年前…
忘れましたが玄和会を退会しています。
だから、過去の事をイチイチ出して、とやかく書くから、
「ウンチ・オシッコたれ…」書いたのです。
>残念ながら私は幼少期でもウンチを垂れたことはありません。
↑~
変ですね!普通のオムツがとれるまで、
ウンチもオシッコもオムツの中に垂れ流しですよ。
>それは私の両親が立派に私を育て上げてくれたからで、確かに生後数ヵ月はオムツをはいていましたが次第にトイレで用を足すように教育指導されましてね、社会的に排泄物を処理すべく用意されたところ以外で排泄してしまった経験をもっていないのです。
↑~
それって、お漏らしの記憶がないって事?
どうやら、お宅は自分にとって都合の悪い事は、記憶しない心的傾向ですね。
子供時代の失敗・お漏らしは…あるのが普通です。
もし…本当に一回もないなら、それは病的な程の神経質ですよ。
可哀そうに…お宅の両親が大らかではなく、非常に神経質だったのかも?
>オムツというのは、まだ自分の意思で場所を選んで排泄できない幼少期に大人(親、社会)が用意してくれた「携帯トイレ」のようなもので「そこで排泄して構わない」と誰しもが社会的に合意しているものですから、それを「ウンチ垂れ、オシッコ垂れ」だと理解する自由びとさんのような思考では、「ウンチ垂れ、オシッコ垂れ」とは重力に従って排泄物が落下すること一般を指すことになり、オムツの中で用を足そうがトイレの便器に用を足そうが全て「ウンチ垂れ、オシッコ垂れ」となり、何も言っていないのと同じになります。
↑~
なかなか面白い。
モノは考えよう。
言いようですね、
この表現では直接「何も言っていません」。
私が言いたい事は、過去の失敗を理由に、
今のその人を「阿保」呼ばわりするのは、
ここでの「ウンチたれ・オシッコたれ」と同じ論理、という事です。
もっとも…私のは、過去の事実の指摘にとどまっていますが…
お宅の場合は、お宅の感情表現・否定的な「阿保」を用いています。
>私は生まれ落ちてこのかた排泄物を処理すべく社会的に用意された場所以外の、例えば居間だとか床の間だとか庭だとかに排泄物を落としたことはありません。
↑~
お宅には、
遊びに夢中になって、
尿意を催しても、トイレに間に合わずパンツの中で…
は、ないようですね。
それって~
外・公園で夢中で遊べる友達がなく、
いつも室内でのひとり遊び、だったのでしょう。
それも、心の底から夢中になれないし…
さらに病的神経質なら、間に合わず「お漏らし・垂れ流し」なんて不可能かな…
>また、自ら玄和会の人間であり南郷尊師を崇拝していると述べた自由びとさんを玄和側の人間だと理解するのは極めて自然なことですが、そこから生じてくる羞恥心を隠すために「無」だと名乗っている私のコテハンを、まったく別の場所での「ソクラテス」なるコテハンの人物と同一人格や否やなどと不自然な思考をするのも論外です。
↑~
理由・理屈も十人十色ですね。
でも「崇拝している」と「身内」になるのですか?
神様を崇拝すると「神様の身内」という事ですね。
それでも…、私の場合「崇拝」とは違いますかね。