今回は以下の「問い」「答え」から始めよう♪♪♪
問い?「人類に自由はあるか?」
答え!「自分の思い通りにできる<自由はある>!」
でも…「自分の思い通りの結果を必ず得る事ができる(とは限らないから)<自由はない>!」
そもそも、このように「自由を考察」するのに…
自分の思い通りに思考した自由(概念・意味)から考察するのではなく…
辞書での「自由の意味」確認から始めている事自体が「不自由」であろう。
人が、目的もなく、その結果も考えず…
その時々の自分の思い通りに生き続ける自由はある。
でも…その人に個人的な目的が無くても、人類という生命体の存在理由・目的はある。
それは、誕生した生命体の「生き続ける運命・宿命・使命・天命」であろう!
人類には、自殺・自死する自由がある。
それは、他の生命体にはないモノであろう。
そもそも…人類以外の生命体には「自分の思い」はない!
あるのは「その種の本能の働き・命令」!
自死・自殺の自由がある人類が、
生命体として強く思うべき事は~
とにもかくにも、生き続ける事。
生存の為に必要なモノを必死に求め続ける行為・行動…
最大限・最長限に生き続ける為の自由な行為・行動の発揮であろう。
そう~人類は、その命が続く限り、可能な限り最大限に、自由に生き続ける為に、
必死にその為の自由な選択肢を追い求め続けているのだろう。
人には、その時々の自分勝手な その思い通りに 「生きる事ができる自由」はある。
しかし、その自由な行動様式の選択結果が、「生命体としての死という不自由」ともなり得る可能性がある。
ならば…人・人類は、
このような不自由の可能性ある自由の中の不自由削除の為に…
どのような努力を続けきているのだろう。
ここでは、上記のような、自由か不自由・不自由な自由の克服為に…以下のよう考えた
他の人類・生命体の存続の為の自己抹殺という思いからの「自死」の場合。
「自分が死にたい」思いの実行が、も他の生命体の命の存続になり得る場合。…
という思考・思惟…で解決可能なのだろう…
私の「自由の考察」場合は、
自分から辞書を調べた思いから、調べた考察なら「自由」。
他人からの強制で、辞書を調べ、調べたなら「不自由」。
結論から言えば、初めに「自分の思いが(できる自由)」あり、「思い通りの結果ではない(不自由)」がある。
ならば、ある結果を不自由と感じたなら、初めの「自分の思いを変更」すれば「自由」
例えば、ある実験・実践の結果が、思って・求めているモノとは違っていたら…
それは「思い通りの結果が得られず不自由」。
しかし、「失敗は成功の母」という結果と捉えたなら、
「成功の為の過程的な結果」が得られた。
または、自分の思い通りではない(不自由)では、なくても、
それは自分の思い・結果への道の過程・道のり(未自由)、ともなり得る(考えられる・捉えられる)。
人類にとっての、自由も不自由は、全ては「その自分の思い方」次第でろう。
初めに「自分の思い」があり、そこから「自由・不自由」が始まる。
ブログ当初に感じていた
私の「窮屈いっぱいの現代社会」…「不自由」感…は
全て私の「自分の思い」を変える事で、不自由から自由へ変換可能なモノ…
ただ、その結果、その思い変換の結果のストレスで寿命を縮めたなら「不自由」なのだろうが…
ならば…どうする?!
それこそが人類の「学問・哲学・宗教」の存在理由であろう~
問い?「人類に自由はあるか?」
答え!「自分の思い通りにできる<自由はある>!」
でも…「自分の思い通りの結果を必ず得る事ができる(とは限らないから)<自由はない>!」
そもそも、このように「自由を考察」するのに…
自分の思い通りに思考した自由(概念・意味)から考察するのではなく…
辞書での「自由の意味」確認から始めている事自体が「不自由」であろう。
人が、目的もなく、その結果も考えず…
その時々の自分の思い通りに生き続ける自由はある。
でも…その人に個人的な目的が無くても、人類という生命体の存在理由・目的はある。
それは、誕生した生命体の「生き続ける運命・宿命・使命・天命」であろう!
人類には、自殺・自死する自由がある。
それは、他の生命体にはないモノであろう。
そもそも…人類以外の生命体には「自分の思い」はない!
あるのは「その種の本能の働き・命令」!
自死・自殺の自由がある人類が、
生命体として強く思うべき事は~
とにもかくにも、生き続ける事。
生存の為に必要なモノを必死に求め続ける行為・行動…
最大限・最長限に生き続ける為の自由な行為・行動の発揮であろう。
そう~人類は、その命が続く限り、可能な限り最大限に、自由に生き続ける為に、
必死にその為の自由な選択肢を追い求め続けているのだろう。
人には、その時々の自分勝手な その思い通りに 「生きる事ができる自由」はある。
しかし、その自由な行動様式の選択結果が、「生命体としての死という不自由」ともなり得る可能性がある。
ならば…人・人類は、
このような不自由の可能性ある自由の中の不自由削除の為に…
どのような努力を続けきているのだろう。
ここでは、上記のような、自由か不自由・不自由な自由の克服為に…以下のよう考えた
他の人類・生命体の存続の為の自己抹殺という思いからの「自死」の場合。
「自分が死にたい」思いの実行が、も他の生命体の命の存続になり得る場合。…
という思考・思惟…で解決可能なのだろう…
私の「自由の考察」場合は、
自分から辞書を調べた思いから、調べた考察なら「自由」。
他人からの強制で、辞書を調べ、調べたなら「不自由」。
結論から言えば、初めに「自分の思いが(できる自由)」あり、「思い通りの結果ではない(不自由)」がある。
ならば、ある結果を不自由と感じたなら、初めの「自分の思いを変更」すれば「自由」
例えば、ある実験・実践の結果が、思って・求めているモノとは違っていたら…
それは「思い通りの結果が得られず不自由」。
しかし、「失敗は成功の母」という結果と捉えたなら、
「成功の為の過程的な結果」が得られた。
または、自分の思い通りではない(不自由)では、なくても、
それは自分の思い・結果への道の過程・道のり(未自由)、ともなり得る(考えられる・捉えられる)。
人類にとっての、自由も不自由は、全ては「その自分の思い方」次第でろう。
初めに「自分の思い」があり、そこから「自由・不自由」が始まる。
ブログ当初に感じていた
私の「窮屈いっぱいの現代社会」…「不自由」感…は
全て私の「自分の思い」を変える事で、不自由から自由へ変換可能なモノ…
ただ、その結果、その思い変換の結果のストレスで寿命を縮めたなら「不自由」なのだろうが…
ならば…どうする?!
それこそが人類の「学問・哲学・宗教」の存在理由であろう~
良いお年をお迎えください。
ですが、私の想いを忌憚なく述べるならば自由びとさんの言っていること、言いたいことが良く分かりません。何を言いたいのか?
包み隠さずに言いますと、私自身は日常生活を送る中で「悟り」とか「自由、不自由」だとかと考えることが無いのです。それは他の多くの人たちも同じではないかな?と勝手に思ったりするのですが、通常の「具体的な事実が先ずは反映して、それに対して自由だとか不自由だとかの判断をする」のではなく、自由びとさんのように先ずは概念も不確定な「悟り」だとか「自由」だとかの語彙から始まるのは南郷信者である自由びとさんにとっては『武道講義』に「悟り」だとか「自由」だとかの言葉が出てくるからでは無いか?と勝手に?思っています。
それで今、私の手元に『武道講義』がありませんから正確な引用ではありませんけど、南郷先生がヘーゲルの自由概念だとして「俺の自由だ、俺の勝手だ!」ではないと言ったのは現実の世の中がどのようになっているのかを理解して、それに則って考え行動するのが自由だといった話しではなかったか?と思いますよ。
だから例えば肉屋に行って代金を支払えば肉が買えるとか知っているとかの類いで、それを文房具屋に行って肉を無料で得ようとするのが不自由で、といった話しで。
そうすると、「自由」つまり地の利を知っている者が隠れんぼは有利というお話しよりも「一流への道」という面での自由が求められるのが「目的意識を目的意識的に捉え返して」という
>Fumiji Sueki様へ
以下のようなコメントをありがとうございます。
ここ暫く、コメントがないので…とても手持無沙汰!物足りない!寂しい?…
そんな感じで過ごしていました。
自由びともお礼に~
以下のようにレスコメントをお返しします。
>・コメント
>自由びとさん、今年も一年お疲れさまでした。
↑
Fumiji Sueki様もお疲れ様です。
いま考えると~若い時は、若さ勢いで生きているので…
当時は「疲れた!」は、今の疲労に比べると…「なんて事ないモノでしたね…」
因みに「Fumiji Sueki」とは、どんな意味・思いが、込められているのですか?
>良いお年をお迎えください。
Fumiji Sueki様も、今日一日も良い日を過ごして「良いお年をお迎えください」ね♪♪♪
>ですが、私の想いを忌憚なく述べるならば自由びとさんの言っていること、言いたいことが良く分かりません。何を言いたいのか?
↑
そうそう~もう少し、飽きず諦めずに読み続けて下さいね♪♪♪
後もう少しで「自由とは必然性の洞察」へ到達できる!・そのなりそう?かも!…です。
>包み隠さずに言いますと、私自身は日常生活を送る中で「悟り」とか「自由、不自由」だとかと考えることが無いのです。それは他の多くの人たちも同じではないかな?と勝手に思ったりするのですが、通常の「具体的な事実が先ずは反映して、それに対して自由だとか不自由だとかの判断をする」のではなく、自由びとさんのように先ずは概念も不確定な「悟り」だとか「自由」だとかの語彙から始まるのは南郷信者である自由びとさんにとっては『武道講義』に「悟り」だとか「自由」だとかの言葉が出てくるからでは無いか?と勝手に?思っています。
↑~
それは、それで良いんじゃない!
私だって、普通の日常生活で、お宅同様に、「悟り」「自由・不自由」など考えずに、
眼前の問題を必死に、時に遊びながら解決、または無視して先に進んでいますよ♪♪♪
ただ…愛柴犬との日々の散歩では、
マロンの勝手な散歩道に引っ張られて歩く中、自由・不自由の違い、悟りとは?を思い浮かべていますが…
ただ…
>「具体的な事実が先ずは反映して、それに対して自由だとか不自由だとかの判断をする」のも現実的な事実。
また、この自由の意味・概念「自由とは、自分の思い通りに出来る事」というのも観念的な事実。
そこで、この「自由の観念的な事実」に対して、その自由・不自由を問う事もあり得る。
これは、「唯物論的に自由・不自由」and「観念論的に自由・不自由」の問題ですね~
>それで今、私の手元に『武道講義』がありませんから正確な引用ではありませんけど、南郷先生がヘーゲルの自由概念だとして「俺の自由だ、俺の勝手だ!」ではないと言ったのは現実の世の中がどのようになっているのかを理解して、それに則って考え行動するのが自由だといった話しではなかったか?と思いますよ。
↑
早々からそれが「「自由とは必然性の洞察」ですね…
それは「自分勝手な自由で いきたい!」と思い描いている自分を如何に納得させ、自然に「社会的に いきたい!」という思いに変えるか?の方法。
その方法、それも私に適した方法の模索です。
自分で自分を納得させ得る方法の模索が、私の「自由とは必然性の洞察」ですかね。
どう?
分かるかな?
分からないだろうな!
>だから例えば肉屋に行って代金を支払えば肉が買えるとか知っているとかの類いで、それを文房具屋に行って肉を無料で得ようとするのが不自由で、といった話しで。
↑
そうそう~
そんな時は自分で自分に
「ここは肉屋・肉はお金で買うモノ」・「お金なしで買えないのが社会的ルール」
「ルール違反は罰則!」「罰則は痛い!」・「不都合」…い言い聞かせます。
>そうすると、「自由」つまり地の利を知っている者が隠れんぼは有利というお話しよりも「一流への道」という面での自由が求められるのが「目的意識を目的意識的に捉え返して」という
↑
「一流への道」とは、私の気に入っている言葉ですね♪♪♪
では、お宅に質問です!
「その一流とは何?」
「その一流への道とは、どんな道?」
「その一流になる為の一流の努力とは?」
♬~そんな~♬
♬~安易な言葉で~♬
♬~誤魔化さないで!♬~
>Fumiji Sueki様へ
以下のようなコメントをありがとうございます。
ここ暫く、コメントがないので…とても手持無沙汰!物足りない!寂しい?…
そんな感じで過ごしていました。
自由びともお礼に~
以下のようにレスコメントをお返しします。
>・コメント
>自由びとさん、今年も一年お疲れさまでした。
↑
Fumiji Sueki様もお疲れ様です。
いま考えると~若い時は、若さ勢いで生きているので…
当時は「疲れた!」は、今の疲労に比べると…「なんて事ないモノでしたね…」
因みに「Fumiji Sueki」とは、どんな意味・思いが、込められているのですか?
>良いお年をお迎えください。
↑
Fumiji Sueki様も、今日一日も良い日を過ごして「良いお年をお迎えください」ね♪♪♪
>ですが、私の想いを忌憚なく述べるならば自由びとさんの言っていること、言いたいことが良く分かりません。何を言いたいのか?
↑
そうそう~もう少し、飽きず諦めずに読み続けて下さいね♪♪♪
後もう少しで「自由とは必然性の洞察」へ到達できる!・そうなりそう?かも!…です。
>包み隠さずに言いますと、私自身は日常生活を送る中で「悟り」とか「自由、不自由」だとかと考えることが無いのです。それは他の多くの人たちも同じではないかな?と勝手に思ったりするのですが、通常の「具体的な事実が先ずは反映して、それに対して自由だとか不自由だとかの判断をする」のではなく、自由びとさんのように先ずは概念も不確定な「悟り」だとか「自由」だとかの語彙から始まるのは南郷信者である自由びとさんにとっては『武道講義』に「悟り」だとか「自由」だとかの言葉が出てくるからでは無いか?と勝手に?思っています。
↑~
それは、それで良いんじゃない!
私だって、普通の日常生活で、お宅同様に、「悟り」「自由・不自由」など考えずに、
眼前の問題を必死に、時に遊びながら解決、または無視して先に進んでいますよ♪♪♪
ただ…愛柴犬との日々の散歩では、
マロンの勝手な散歩道に引っ張られて歩く中、自由・不自由の違い、悟りとは?を思い浮かべていますが…
ただ…
>「具体的な事実が先ずは反映して、それに対して自由だとか不自由だとかの判断をする」のも現実的な事実。
↑
上記も事実なら~
「自由」)の意味・概念「自由とは、自分の思い通りに出来る事(認識)」というのも観念的な事実。
そこで、この「自由の観念的な事実」に対して、その自由・不自由を問う事もあり~~
これは、「唯物論的に自由・不自由」and「観念論的に自由・不自由」の思惟・思考の問題ですかね~
>それで今、私の手元に『武道講義』がありませんから正確な引用ではありませんけど、南郷先生がヘーゲルの自由概念だとして「俺の自由だ、俺の勝手だ!」ではないと言ったのは現実の世の中がどのようになっているのかを理解して、それに則って考え行動するのが自由だといった話しではなかったか?と思いますよ。
↑
早々からそれが「「自由とは必然性の洞察」ですね…
それは「自分勝手な自由で いきたい!」と思い描いている自分を如何に納得させ、自然に「社会的に いきたい!」という思いに変えるか?の方法。
その方法一般の模索、そして私に適した方法の模索です。
自分で自分を納得させ得る方法の模索が、私の「自由とは必然性の洞察」ですかね。
↑
どう?
分かるかな?
分からないだろうな!
>だから例えば肉屋に行って代金を支払えば肉が買えるとか知っているとかの類いで、それを文房具屋に行って肉を無料で得ようとするのが不自由で、といった話しで。
↑
そうそう~
そんな時は自分で自分に
「ここは肉屋・肉はお金で買うモノ」・「お金なしで買えないのが社会的ルール」
「ルール違反は罰則!」「罰則は痛い!」・「不都合」…い言い聞かせます。
>そうすると、「自由」つまり地の利を知っている者が隠れんぼは有利というお話しよりも「一流への道」という面での自由が求められるのが「目的意識を目的意識的に捉え返して」という
↑
「一流への道」とは、私の気に入っている言葉ですね♪♪♪
では、お宅への質問です!
「その一流とは何?」
「その一流への道とは、どんな道?」
「その一流になる為の一流の努力とは?」
♬上記のような♬
♬~そんな~♬
♬~安易な言葉で~♬
♬~誤魔化さないで!♬~
↑
そうそう自由びとも、もっともっと模索しなさい!
分かります、と言っても私は自由びとさんよりも随分と若年ですから真に自由びとさんの「疲れ」を共感することは出来ないかも知れませんけれど、間違いなく私も加齢で疲れ易くなっています。
ですので、その疲れを取るための方法も色々と工夫はしていますが、やはり視力の老化だけはスマホなどの使い過ぎで釣瓶落としに悪くなっているようです。
>どんな意味・思いが、込められているのですか?
コメントを書いた30日の前日の29日に読んでいた著者のお名前です。仏教学者の本を行きつけの古本屋で買ってきたら「大乗仏教は死から始まる思想で、それはブッタの死と対面した弟子たちから生まれたから」みたいなことが印象に残っていたからHDにつけてみたのですが、色々なことをしているものですから忘れてまして、今日みて「ああ、こんなHDつけたんだっけ」と自分で驚いたくらいです。
>「一流への道」とは、私の気に入っている言葉ですね
そうですか、「一流」というのは武道講義入門のサブタイトルでしたから南郷信者の自由びとさんが気に入っておかしくはありませんが、たしか自由びとさんは以前「私は一流などに興味はない」と書いていたと記憶してますよ。
それで自分は教員補助の仕事をし、教えているのは障害児だという、何処にも一流などに結びつくことはなく、寧ろ「一流」などの話しをしようものなら「この子たちを無視するのか!」と食ってかかるかの雰囲気でしたが…
>その一流とは何?
おやおや?私に一流の概念規定をしろと言うのですか?私が一流という言葉を使ったのは自由びとさんが大谷翔平さんの名前を出していたからですよ。一般的な全ての一流に当てはまるか否かはともかくも、大谷翔平という野球人が一流の人だとは自由びとさんも認めるのではありませんか?
そして大谷翔平がどういう過程で今のようになったのかは詳細に報道されてますよね?
>その一流になるための一流の努力とは?
それを私に聞いて答えさえようとするのが意味不明ですよ。教員補助というのは一流の仕事か?それだけで十分でしょう。
己れを知れ!だと思うのですよ。
自由から更なる自由への道
>・コメントを書いた人
>Fumiji Sueki
・コメント
>>若い時は、若さ勢いで生きているので…
>分かります、と言っても私は自由びとさんよりも随分と若年ですから真に自由びとさんの「疲れ」を共感することは出来ないかも知れませんけれど、間違いなく私も加齢で疲れ易くなっています。
>ですので、その疲れを取るための方法も色々と工夫はしていますが、やはり視力の老化だけはスマホなどの使い過ぎで釣瓶落としに悪くなっているようです。
↑
まあ~若者時代には、年寄の認識を分かる事は至難ですね…
若者の疲労は、タップリ眠れれば…ほぼ取れますね。
目の疲労を取る方法~
最近、風呂の湯船に浸かっている時に、目を閉じて上にお湯で濡らしたタオルを置いています。
感覚的には、結構疲れが取れますね…
>>どんな意味・思いが、込められているのですか?
>コメントを書いた30日の前日の29日に読んでいた著者のお名前です。仏教学者の本を行きつけの古本屋で買ってきたら「大乗仏教は死から始まる思想で、それはブッタの死と対面した弟子たちから生まれたから」みたいなことが印象に残っていたからHDにつけてみたのですが、色々なことをしているものですから忘れてまして、今日みて「ああ、こんなHDつけたんだっけ」と自分で驚いたくらいです。
↑
成る程…そうでしたか!
今までのHDの殆どがネット検索でヒットしていましたが…
今回は、ヒットなしだったので…
尋ねさせて頂きました⇔御馳走様でした!
>>「一流への道」とは、私の気に入っている言葉ですね
>そうですか、「一流」というのは武道講義入門のサブタイトルでしたから南郷信者の自由びとさんが気に入っておかしくはありませんが、たしか自由びとさんは以前「私は一流などに興味はない」と書いていたと記憶してますよ。
私が「一流になど興味はない」と書いていましたか?
覚えていませんが…書いた記憶はありませんが…
書いたとしたら、その心境は「一流にはなれそうもない当時の現実」に合わせた思いの言語表現なのでしょうね…
童話の「他人のブドウは酸っぱい」⇔「一流なんて興味なし!
でも…今は以下のよう思い考えてますね…
「社会的な一流」があるなら、自分中の「自分的な一流」があってもいい!
だから…自由びとは、自分の思い描いた自分的な「一流・認識」が気に入っています。
>それで自分は教員補助の仕事をし、教えているのは障害児だという、何処にも一流などに結びつくことはなく、寧ろ「一流」などの話しをしようものなら「この子たちを無視するのか!」と食ってかかるかの雰囲気でしたが…
↑
え?!
一流の学者・一流の○○…があるなら、「一流の障害」があってもいいのでは?
一般的には、超重度の障害…という命名なのでしようが…
そんな思い障害児の対応・補助の成功には、補助員の一流の強いて勉める努力ある対応が不可欠です。
>>その一流とは何?
>おやおや?私に一流の概念規定をしろと言うのですか?私が一流という言葉を使ったのは自由びとさんが大谷翔平さんの名前を出していたからですよ。一般的な全ての一流に当てはまるか否かはともかくも、大谷翔平という野球人が一流の人だとは自由びとさんも認めるのではありませんか?
↑
概念規定でもいいのですが…
私の、この問いに対する答えは、そんな難しいモノではありません。
自分の「思う一流」の目的か?
周囲から認められる「社会的な一流」の目的か?
また、その「一流への道程の努力」が
自分が「思う一流の努力」か?
周囲の認める「社会的一流な努力」か?
う~ん
↓
>大谷翔平という野球人が一流の人だとは自由びとさんも認めるのではありませんか?<
↓
う~ん…少々違うかも…
私の認識は「一流の野球人ではなく」…
彼は、若い頃から、大人からすれば、非常に高い?(当人にその認識なく)目標を立て、
その目標に近づく為に、どうすればよいか?を考え工夫して(それが彼の「一流の努力?」結果、
現在、大リーグで数々の新記録を打ち立てている…(それが「一流」か、どうかは私には不明)
白人欧米民族の得意分野の「ベースボール」で、アジア系民族の新記録の樹立。
これを「一流」と言うのか…とうかは不明でも…
彼の努力!それも認識と実体の日々の努力は、「一流だ!」と思い考えています。
彼の体格が欧米人並みという…欧米的な・共通点があっても…
その努力の凄さは「凄い」モノがあるでしょう…
>そして大谷翔平がどういう過程で今のようになったのかは詳細に報道されてますよね?
>>その一流になるための一流の努力とは?
>それを私に聞いて答えさえようとするのが意味不明ですよ。教員補助というのは一流の仕事か?それだけで十分でしょう。
>己れを知れ!だと思うのですよ。
↑
「己を知れ!」とは…
私の問いに答える事から、お宅は逃げていますね!
私は、「己の答えを知っている」でも…
私は、「お宅がどう思い・どう答えるかは知らない!」
だから、私は「お宅の一流の努力を尋ねた」のです。
その答えは、「自由とは必然性の洞察」です。
自分の思い描いた目標に到達する為には、
その目標に到達可能な「その対象に即した日々の運動・努力が必要」
この場合の対象とは、「自分自身の五体・認識」と「現実的・事実的に設定した目標」
それらを自己の目標に到達可能な変化・運動を起こす為の「必然性の洞察」ですかね…
再度!書きます!
自由びとに「己を知れ!」と書く前に、
お宅こそ「自由びと認識を(想像する事)知れ」!ですかね…
お宅は自分(自由びと)の考えを理解して欲しいとの欲求はあるようですが私(Sueki)の考えを理解しようとは思わないのですね。
私が今回、ここにコメントしたのは「「人生の終点」の話」に興味深いことが書いてあったからです。それは「なぜお金を求めるのか?」ということでしたが。
それで私はマズローの欲求階層説を思い出したのです。食べたり飲んだりの生理的欲求から所属と愛を求める欲求、他者から尊敬されたいという承認欲求を経て最高段階が自己実現という己れの持っている能力を最大限に発揮したいという欲求ということでした。
その全体が三角形を分けたそれぞれは上に行くほど面積が小さくなる、つまりそうした欲求を持っている人数が少なくなるのだと理解していますが、大谷選手のように前人未到の記録を打ち立てていく人は甲子園の全国大会優勝といった承認欲求を超えて自己実現の欲求なのだろうと思ったわけです。
ですが、私にはそんな欲求はありません。当然に自分自身が一流になりたいという欲求もありません。
「一流」というのが社会的なものか個人的なものかは問題外で、それは社会的にそれぞれの分野で大きな業績を出して高い評価を受けている人間をいうのに決まっているのであり、個人が主観的に「俺は一流だ」と考えていることを一流と呼ぶわけではないのは常識ですよ。
ですが、そうした一流の人間になりたい、なろうとする人間は多くはありません。今の私もそうですね。庶民的な存在ですから。
誰が一流の人かの判断はできても、その一流の人物のようになりたいと思える動機に欠けていては行動に繋がらないのが人間です。
「一流になるには努力が必要か否か?必要ならば努力しなさい」みたいな阿呆な思考の筋道は「そもそもアナタは一流になりたいですか?」という問いかけを忘却していて教師や指導者を名乗る資格も能力もないと私には思われますね。
ですが、承認欲求・他者から尊敬されたいという欲求がなってみなければ理解されないのと同じで、事業で成功して他者のためにお金を使いたいという欲求も、そんな人間になってみなければ理解されないのでしょう。
私は親から学費を出して貰って学校に行きましたが、いま自分に子供がいたとして学校に行かせてやれるだけの経済力がないことを寂しく感じてはいます。おそらくは他者(嫁さんや子供)のために金が欲しいと思うのが適齢期の男性の普通の感覚でしょうけれど、それが大きく拡大したのが富豪が慈善事業に金を出すことでしょうし、人生の最終段階での金の使い途、相続なり寄附なり如何に金を使うかが人生の締めくくりに必要なことだと考えますね。
>>自由びと認識を読め!
>お宅は自分(自由びと)の考えを理解して欲しいとの欲求はあるようですが私(Sueki)の考えを理解しようとは思わないのですね
↑
私には、「(自由びと的な)自分の思い・考えを相手に分かるように伝えよう・伝えたい!という「欲求」は確かにあります。
また「己を知れ!」と書いたのはお宅だし…
そもそも、この「己を知れ!」を発した理由は以下のようなモノで~
↑>それを私に聞いて答えさえようとするのが意味不明ですよ。
>教員補助というのは一流の仕事か?それだけで十分でしょう。
>己れを知れ!だと思うのですよ。
↑
私の認識は「答えさせよう」ではないのです!
私は、お宅の思い描いている「一流」が、
私の同じようなのか?or異なっているか?
同じなら、どのような同じか?
異なっているなら、どのように異なっていいるか?
それを確認したかったのです…
でも…今読み直したら…
私は「一流」には、
「一流の仕事」と「一流の努力」の二通りがある、と考えています。
しかし、お宅には、「一流の仕事」だけが「一流」のようですね…
>私が今回、ここにコメントしたのは「「人生の終点」の話」に興味深いことが書いてあったからです。それは「なぜお金を求めるのか?」ということでしたが。
↑
ほう~>「なぜお金を求めるのか?」
それには、単純明快に答えましょう!
大金持ちが大病をして死にゆく時の医療環境と金のない貧乏人が大病で死にゆく時の医療環境の快適さの相違です。
金があれば個室で、大勢の親類縁者に囲まれて死に旅立てるでしょうが…
大部屋なら、その数は制限されてしまいます。
また、金があれば、場合により高額な自費治療で「人生の終点」時の延期が可能でも…お金がなければ…それは不可能です。
更に、金のある・なしで、その「人生の終点」までの道のりの快適さも異なっていきます。
金がある・ない、で終点は同じでも、「終点までの過程と終点」その周囲の状況。快適さが違うのです。
>それで私はマズローの欲求階層説を思い出したのです。食べたり飲んだりの生理的欲求から所属と愛を求める欲求、他者から尊敬されたいという承認欲求を経て最高段階が自己実現という己れの持っている能力を最大限に発揮したいという欲求ということでした。
>その全体が三角形を分けたそれぞれは上に行くほど面積が小さくなる、つまりそうした欲求を持っている人数が少なくなるのだと理解していますが、大谷選手のように前人未到の記録を打ち立てていく人は甲子園の全国大会優勝といった承認欲求を超えて自己実現の欲求なのだろうと思ったわけです。
>ですが、私にはそんな欲求はありません。当然に自分自身が一流になりたいという欲求もありません。
>「一流」というのが社会的なものか個人的なものかは問題外で、それは社会的にそれぞれの分野で大きな業績を出して高い評価を受けている人間をいうのに決まっているのであり、個人が主観的に「俺は一流だ」と考えていることを一流と呼ぶわけではないのは常識ですよ。
↑
そもそも…
一流になりたい「欲求」と
一流になりたい「思い」とは違います。
「欲求は感情」でも「思い認識」です。
「欲求は、感覚・感じる事」
「思い認識は、自分の意志で像を描くモノ」
私とお宅⇒「一流認識」vs「一流欲求」⇒「同じ一流」でも、その中身が異なっていますね…
これじゃ…私の「一流」がお宅には、「意味不明」だという事の「意味明確」になりましたね。
え?
私は「一流と呼ぶ・呼ばれる」事を望んでいません。
ただ、私の努力結果が「他人の役に立てばいい…」という想いはあります。
「一流」と呼ぶ呼ばないではなく、私が「一流の感じる事の追及」かな…
私が「一流と思った」事を、他人が何と呼ぼうが、それは他人の勝手です。
これは、言うなれば…
自己の認識としての観念的な「一流」という観念界の事実と
現実・世界での唯物的な「一流(と呼ばれるモノ)」の相違ですかね。
仮に、私が大勢の前で「俺は俺の思う一流の努力をしている」と公言したから…それはバカです。
でも…このブログで細々と小声で「俺は俺の思う一流の努力をしたい」と書いたなら…
それは私の自由な記述で「バカ」ではありません。
この違いは、たぶんお宅の頭脳では、「意味不明」でしようが…
>ですが、そうした一流の人間になりたい、なろうとする人間は多くはありません。今の私もそうですね。庶民的な存在ですから。
>誰が一流の人かの判断はできても、その一流の人物のようになりたいと思える動機に欠けていては行動に繋がらないのが人間です。
>「一流になるには努力が必要か否か?必要ならば努力しなさい」みたいな阿呆な思考の筋道は「そもそもアナタは一流になりたいですか?」という問いかけを忘却していて教師や指導者を名乗る資格も能力もないと私には思われますね。
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大人・老人ならともかく…
子供・成長期の若者にとっての「一流」(職業・選手…)になりたい!とは、言うなれば「努力目標」なのです。
仮に自分もあのような「一流選手」・「一流の会社に入りたい」を描いて、結果が二流・三流でも…
その「頑張り・努力」が無かったら…それ以下「ホームレス」だったかも…です。
これが、「少年よ!大志を抱け!」or「等身大の思想を拝する」なのです。
>ですが、承認欲求・他者から尊敬されたいという欲求がなってみなければ理解されないのと同じで、事業で成功して他者のためにお金を使いたいという欲求も、そんな人間になってみなければ理解されないのでしょう。
>私は親から学費を出して貰って学校に行きましたが、いま自分に子供がいたとして学校に行かせてやれるだけの経済力がないことを寂しく感じてはいます。おそらくは他者(嫁さんや子供)のために金が欲しいと思うのが適齢期の男性の普通の感覚でしょうけれど、それが大きく拡大したのが富豪が慈善事業に金を出すことでしょうし、人生の最終段階での金の使い途、相続なり寄附なり如何に金を使うかが人生の締めくくりに必要なことだと考えますね。
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ここでも「欲求」ですか…
とても「動物的」ですね…
でも…動物は欲求ではなく本能求でしたね…
>人生の最終段階での金の使い途、相続なり寄附なり如何に金を使うかが人生の締めくくりに必要なことだと考えますね。
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それは金のない者・貧乏人の考えですね…
生前から「寄付をしない大金持ち」は、死んでも寄付はしないでしょうね…
何しろ…昔の皇帝は、金品・財産も身の回り使用人も全ては私有物で、
死んだら一緒に墓に埋葬していた…らしいですね。
自分の死直前の思い・考えでも…
貧乏な自分の思い・考えと
大金持ちの時の自分の思い・考えは違っていて当然!
「自己の死」直前の財産寄付なんて…考えは、
金のない者の説く「綺麗ごと・夢物語」ですかね。