「常識」について…
先日(と書いても2、3週間前の事であるが…)、
家内とテレビの問題「普請の元々の由来は?」ついて
以下のような事で朝から言い合い(口論レベル)…となった。
私―「(普請)これって…何て読むの?」
妻―「ふしん!」
私―「『ふせい』じゃないの!?」
妻―「…違う!」
私―「『ふ(しん)』なの…これって請求の(せい)じゃない!?」
妻―「違う!知らないの…これって常識よ!」
私―「常識って言われても…習ってないし…初めて見たし…」
妻―「習わなくても常識!」
私―「(学校で習う事以外の)常識って地域によって違うでしょうが…」
妻―「日本に育っているなら常識は同じ!」
私―「そりゃ~絶対に違う!」
妻―「同じに決まっている!」
私―「分かった…」(不満はあったが…出勤時刻…)
その後…通勤途中も…
妻の「日本に住んでいるなら常識は同じ」に納得できず…
~~~考え続けた結果…以下の事を実行した。
学校で10人の教師に聞きました。
「普請」と書いた紙を見せながら「この文字読めますか?」と
その結果は~
正しく読めて意味も知っていた教員―2人
知らないけど「ふしん」と読めた教員―2人
知らない・分からない読めない教員―6人
知っていた教員2人は、「二人とも読書家で物知り」と他の教員が言っていた。
そこで私は思った…
『家内も読書家で新聞・週刊誌…もよく読むし…歴史に詳しい博識…』
この結果を家内に告げると…
家内―「私にとっては常識なのに…」
そこで私は以下のように事を考えた。
同じ日本に住んでいれば、学校教育での「常識」は同じ。
それでも、その地域の「常識」、必ずしも他の地域の常識とは限らない。
そもそも…「日本の常識…世界の非常識」という言葉もあるように…
国によって常識は異なっている事は、世界の常識。
ならば、育った環境が違えば、互いに異なった常識を持っていても不思議ではない。
日本の一般常識は同じ。
地域の個別常識は違う。
因みに…辞書で調べたら、「普請」は古い言葉、と書かれていた。
過去の日本の常識、現代の非常識…ですね。
先日(と書いても2、3週間前の事であるが…)、
家内とテレビの問題「普請の元々の由来は?」ついて
以下のような事で朝から言い合い(口論レベル)…となった。
私―「(普請)これって…何て読むの?」
妻―「ふしん!」
私―「『ふせい』じゃないの!?」
妻―「…違う!」
私―「『ふ(しん)』なの…これって請求の(せい)じゃない!?」
妻―「違う!知らないの…これって常識よ!」
私―「常識って言われても…習ってないし…初めて見たし…」
妻―「習わなくても常識!」
私―「(学校で習う事以外の)常識って地域によって違うでしょうが…」
妻―「日本に育っているなら常識は同じ!」
私―「そりゃ~絶対に違う!」
妻―「同じに決まっている!」
私―「分かった…」(不満はあったが…出勤時刻…)
その後…通勤途中も…
妻の「日本に住んでいるなら常識は同じ」に納得できず…
~~~考え続けた結果…以下の事を実行した。
学校で10人の教師に聞きました。
「普請」と書いた紙を見せながら「この文字読めますか?」と
その結果は~
正しく読めて意味も知っていた教員―2人
知らないけど「ふしん」と読めた教員―2人
知らない・分からない読めない教員―6人
知っていた教員2人は、「二人とも読書家で物知り」と他の教員が言っていた。
そこで私は思った…
『家内も読書家で新聞・週刊誌…もよく読むし…歴史に詳しい博識…』
この結果を家内に告げると…
家内―「私にとっては常識なのに…」
そこで私は以下のように事を考えた。
同じ日本に住んでいれば、学校教育での「常識」は同じ。
それでも、その地域の「常識」、必ずしも他の地域の常識とは限らない。
そもそも…「日本の常識…世界の非常識」という言葉もあるように…
国によって常識は異なっている事は、世界の常識。
ならば、育った環境が違えば、互いに異なった常識を持っていても不思議ではない。
日本の一般常識は同じ。
地域の個別常識は違う。
因みに…辞書で調べたら、「普請」は古い言葉、と書かれていた。
過去の日本の常識、現代の非常識…ですね。
ですが調べたら「普請」とは「土建=土木・建築」だ!と。
私は貴兄が在籍している?在籍していた?玄和会で「土木建築」といったなら頭に浮かぶ顔が2人います。
それは「横田政夫さん」と
どちらも面識は無く、学城や知人からの情報での判断ですが、何故だか「城内進先生」の名前を
私の痛感した事は以下のような事です。
「自分にとって当たり前・常識だと思っている事が、他人にはそうでない事が多々あり得る」…という事で…
それを今回の家内とのやり取りと、その後の学校・教員での実際調査で、より明確に意識できました。
この常識を「先入観」に置き換えて考えるなら…
「その時々の己の先入観を明確に意識・自覚して対象と関わり・取り組む事の重要性が浮上してきます。
言葉で「先入観」と書けても、
現実・生活の中で己の常識・先入観は、普通に当たり前であるが故に、殆どの場合、トラブルが発生しないと…なかなか意識に上りません。
夫婦の間での、しかも一件落着していることに他人の私が口を出すことも本来は無用なのですが、「愛の反対は無関心」というぐらいで、ご自分の書いた記事が何かしら他者の興味を引いていることに自由びとさんが満足してくれたなら幸いですが。
私の考えが一般的だとかどうということでは無いのですが、一つの見解として自由びとさんに聞いてもらいたいのは、私の周囲で「常識ですよ」と言われたときは「皆んなが知っている」という意味ではなく「そういうものだから一々説明するまでもない、説明する必要がない」という意味で発言されてるように思います。
つまりは「普請」という熟語は「普」という漢字と「請」という漢字が組み合わされていて、「普」には「ふ」という読み方や「ほ」という読み方があるし、「請」には「せい」という読み方や「しん」という読み方があるから、そこから考えたなら「普請」には「ふせい」や「ふしん」や「ほせい」や「ほしん」や、あるいは別の読み方をする「可能性」というのも考えられるわけです、自由びとさんが考えたように。
ですが、今の日本語では「普請」は「ふしん」と読むと決められていて、それは辞書を引けば書いてあるわけで、それが「ふしん」以外の読み方をしている可能性は無いのだと思います。その意味で、奥さんの言う「常識」というのは「誰もが知ってること」だという意味ではなく「そういうもんだ」という意味で正しいと思います。
それで、自由びとさんが「普請」には「ふしん」以外にも読み方があったって良いじゃないか、と「そこ」を奥さんと話したい、それを話題にコミュニケーションを図りたいと望んだ?ところを、奥さんから「一々説明するのは面倒だ」と?「常識だよ」と言われたところに、
「そうだよな、普請は辞書を引けば「ふしん」と書いてあるのだから、それは常識だったんだな」と納得したならば、南郷さんが何処かで書いていたように「教養の高いパートナーと会話をしていると自分の教養も高くなる」という相互浸透が起きるものを、「俺は知らないのに何が常識だ!」と反発して「俺のように知らない人間は一杯いるのだ」と署名まで取ってきた?なら、そこも極めて個性的だなと微笑んでしまいますね。
奥さんが終いには「私にとっては常識」と言ったのは、客観的には「奥さん個人にとっての常識」なのではなく「立派に日本社会での常識」だと思いますけど、自由びとさんに対して「まったく面倒な人だ」とこれ以上コトを荒立てないように賢く折れたのだと解釈も出来るでしょう。
取り敢えず「自由びとさんはNHKの国営放送のような標準的な思考を持った人ではなく、極めて個性的な人」なのだと評価できると思います。
自由びとさんは南郷さんの本だとか考え方に感化されてご自分では自覚なく自然成長的に学者のような発想を部分的にするようになったのだと思われます。
それを「奥さんとの仲直りの中軸を何処に設定するのか?」で「どちらも同じ常識」とするのか、それとも「あなたは常識に留まりたい人、私は常識を超えて行きたい人、それでも仲良くは出来るよね?」なんて処に持っていくのか、は多様な選択肢があるということじゃないかと思われました。
このお宅!人間の個性を全く分かっていない。
この「極めて個性的」という判断は正しくない。
より正確には、判断材料不足である。
一人前の大人なら、
家庭の中での家族・身内に対する言動・態度・行為行動と
職場・社会での他人に対するモノとでは、別物であるのが当然なのに…
それこそ、「こんなのは常識」であろう筈なのに…
このお宅、それを全く考慮に入れずに「極めて個性的」と思い込んでいる。
言うなれば、こんな「当たり前」の常識知らずの判断材料不足の結果の正しくない結論。
更には、良識・常識なる普通の人なら発しない軽はずみな個性的な失言。
以下のように具体的に、このお宅の何がどのようにマズイのか見ていこう。
Unknown (臨済義玄)
2021-10-22 12:08:5
>この「普請」に纏わる自由びとさんの言動も極めて興味深いものだと感じました。自由びとさんの奥さんから「常識だ」と言われた後で自由びとさんの取った行動も「極めて個性的」だと思われたこともあります。
夫婦の間での、しかも一件落着していることに他人の私が口を出すことも本来は無用なのですが、「愛の反対は無関心」というぐらいで、ご自分の書いた記事が何かしら他者の興味を引いていることに自由びとさんが満足してくれたなら幸いですが。
私の考えが一般的だとかどうということでは無いのですが、一つの見解として自由びとさんに聞いてもらいたいのは、私の周囲で「常識ですよ」と言われたときは「皆んなが知っている」という意味ではなく「そういうものだから一々説明するまでもない、説明する必要がない」という意味で発言されてるように思います。<
↑
「この 臨済義玄お宅は、「円満な夫婦生活の獲得に必要な日々の努力」を分かっていない。
夫婦生活とは、元々は赤の他人同士の共同生活である。
夫婦の円満な生活を望むなら日々の「相互理解が不可欠」である。
だからこそ…私は家内の「常識」という言葉の中身・信憑性を確かめたかった。
また、家内の日々の態度(説明が面倒な時は「無視」または「常識!」)に対する不満の言葉・表現。
>この「普請」に纏わる自由びとさんの言動も極めて興味深いものだと感じました。自由びとさんの奥さんから「常識だ」と言われた後で自由びとさんの取った行動も「極めて個性的」だと思われたこともあります。
夫婦の間での、しかも一件落着していることに他人の私が口を出すことも本来は無用なのですが、「愛の反対は無関心」というぐらいで、ご自分の書いた記事が何かしら他者の興味を引いていることに自由びとさんが満足してくれたなら幸いですが。
私の考えが一般的だとかどうということでは無いのですが、一つの見解として自由びとさんに聞いてもらいたいのは、私の周囲で「常識ですよ」と言われたときは「皆んなが知っている」という意味ではなく「そういうものだから一々説明するまでもない、説明する必要がない」という意味で発言されてるように思います。
↑
「周囲で」親しくもない全くの赤の他人に「常識ですよ!」とは常識・良識ある者なら言わないだろう。
それは、価値観の多様性・個性尊重の現代社会では、「私の常識、他人の非常識」があり得るだろう…から。
こんな常識も知らないなんて…なんて非常識な臨済義玄お宅なのだろう!(これは、このお宅レベルでの言葉、普通なら使わない言葉)
>この「普請」に纏わる自由びとさんの言動も極めて興味深いものだと感じました。自由びとさんの奥さんから「常識だ」と言われた後で自由びとさんの取った行動も「極めて個性的」だと思われたこともあります。<
↑~
この後の行動とは、「紙に『普請』と書いて」、学校で先生達に聞いた事。
これは、「普請を知っている事が、通常の知識(常識)であるか・否かの確認。
これのどこが「極めて個性的」なのだろう?
確かに一般の会社・組織での事なら、少々個性的と言えようが…
でも…学校・組織の先生達は知る事・回答する事・教える事・考える事…が仕事のようモノである。
そんな先生達なら、忙しくないタイミングで聞けば、喜んで答えてくるモノ。
辞書には、「普請」の読み・意味は書かれているが…「普請が常識でるか否か」は書かれていない。
その確認の為の行為・行動が「個性的」?
また、タイミングを合わせて「紙に書いたモノ」を教員に聞く…
これのどこが「極めて個性的」なのだろうか?
>夫婦の間での、しかも一件落着していることに他人の私が口を出すことも本来は無用なのですが、「愛の反対は無関心」というぐらいで、ご自分の書いた記事が何かしら他者の興味を引いていることに自由びとさんが満足してくれたなら幸いですが。
私の考えが一般的だとかどうということでは無いのですが、一つの見解として自由びとさんに聞いてもらいたいのは、私の周囲で「常識ですよ」と言われたときは「皆んなが知っている」という意味ではなく「そういうものだから一々説明するまでもない、説明する必要がない」という意味で発言されてるように思います。<
↑~
親しくない他人同士の中で、周囲が直接に当人に「これは常識!」とは言わない…これも常識です。
>つまりは「普請」という熟語は「普」という漢字と「請」という漢字が組み合わされていて、「普」には「ふ」という読み方や「ほ」という読み方があるし、「請」には「せい」という読み方や「しん」という読み方があるから、そこから考えたなら「普請」には「ふせい」や「ふしん」や「ほせい」や「ほしん」や、あるいは別の読み方をする「可能性」というのも考えられるわけです、自由びとさんが考えたように。
ですが、今の日本語では「普請」は「ふしん」と読むと決められていて、それは辞書を引けば書いてあるわけで、それが「ふしん」以外の読み方をしている可能性は無いのだと思います。その意味で、奥さんの言う「常識」というのは「誰もが知ってること」だという意味ではなく「そういうもんだ」という意味で正しいと思います。
↑
常識とは、「誰もが知っている」と「そういうもんだ」という意味があったとしても…
お宅は、お宅の勝手で、家内の「常識」を「そういうもんだけという意味と解釈しているようですが…
それって「正しい解釈だ」とは、私には思えません。
家内という女性を知らない、このお宅に家内の何が分かるの?
記事の会話は、家内の性格・個性を知っての私の突っ込みです。
そんな家内と私の関係も知らずに、
こんな事が書けるお宅の方がお宅の言葉でかくなら「極めて個性的」。
今回のような赤の他人の事実・記事への、お宅の勝手な妄想現実からのコメントは止めて頂きたい。
それは、
お宅の妄想癖の悪化になり得ても、
改善にはなり得ないモノだろうから…
>それで、自由びとさんが「普請」には「ふしん」以外にも読み方があったって良いじゃないか、と「そこ」を奥さんと話したい、それを話題にコミュニケーションを図りたいと望んだ?ところを、奥さんから「一々説明するのは面倒だ」と?「常識だよ」と言われたところに、
「そうだよな、普請は辞書を引けば「ふしん」と書いてあるのだから、それは常識だったんだな」と納得したならば、南郷さんが何処かで書いていたように「教養の高いパートナーと会話をしていると自分の教養も高くなる」という相互浸透が起きるものを、「俺は知らないのに何が常識だ!」と反発して「俺のように知らない人間は一杯いるのだ」と署名まで取ってきた?なら、そこも極めて個性的だなと微笑んでしまいますね。
↑~
ここにも誤解がある。
「普請=ふしん」が常識ではなく、「普請を知っている」が常識と考えての行動です。
しかも以下の妄想ですよ!
>「俺のように知らない人間は一杯いるのだ」と署名まで取ってきた?
「署名」なんて求めていません。
「知らない人間は一杯」も求めていません。
家内の「常識・観念」が、現実的であるか否かを検証しただけです。
>奥さんが終いには「私にとっては常識」と言ったのは、客観的には「奥さん個人にとっての常識」なのではなく「立派に日本社会での常識」だと思いますけど、自由びとさんに対して「まったく面倒な人だ」とこれ以上コトを荒立てないように賢く折れたのだと解釈も出来るでしょう。
↑妄想狂!
私の前提条件⇒常識とは、「通常の知識」(多くの人が知り得ている熟語)を
お宅の前提⇒常識とは、「そういうものだ」に変えて、
お宅の勝手な妄想結果を私の事実としてしまっている。
>取り敢えず「自由びとさんはNHKの国営放送のような標準的な思考を持った人ではなく、極めて個性的な人」なのだと評価できると思います。
↑
え!このコメントのどこに、
「標準的な思考」があるの?
「他人の思考前提を変えて、自分勝手な結論を出す事が「標準的な思考」なら
確かに臨済義玄お宅の思考は「標準的な思考」と言えるだろうが…
世に言う「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」…
今回の私達夫婦の口論を口喧嘩とするなら…
そんな「私達夫婦の喧嘩を食った」お宅は
「犬も食わぬ物を食ったお宅」と言えよう。
そう言えば~
昨日の散歩で、愛犬・柴犬のマロンは、
出たてホヤホヤのウンチを食べていた。
ウンチも食べる犬の食わない物って何だろうか?
それって…ヤッパリお宅の自分勝手な妄想かな!
まてまて…
妄想なら人の夢を喰って生きると言われる獏なら食べるが…
まあ、私は元より貴兄の家庭内の話しに興味などないのですし、大学生の息子さんが卒業して就職して自立したならば晴れて「熟年離婚」という道もあるのでしょう。
「普請」という漢字を自ら辞書で引いて調べる機転も効かずに、奥さんの「常識」なる言葉が嘘となる証拠を学校の同僚を使ってリサーチしようとする能天気な緊張感の無さが、結婚して息子が20歳を超えるまで一緒に暮らして夫婦でツーカーの関係に至っていない「無理して一緒の屋根の下に暮らしている」窮屈さが、普通は他人さまには隠して見せない夫婦喧嘩?を公開するのでしょう(笑)。
私は自由びとさんのご家庭には興味がまったく無く、ただ私自身の自己運動として知的営みを積み重ねているだけですから、自由びとさんの「弁証法とは何か?」という問い立ても、自由びとさん自身の回答は何の役にも立たないものでしたが、自分の考えを提起して発展させるには有意義だったと思いますね。
私は悠季真理のようなギリシャ哲学の専門家じゃありませんけれど、幸い現代はネットで情報を閲覧できますから、自分の「弁証法に関する考え」を組み立てるには充分な情報が入ってきます。
それで、極論したなら中世や近現代のアクィナスやデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスなんかまで行かなくても、ソクラテス→プラトンの研究をすれば弁証法の核心は掴めるように思えましたね。
プラトンの『国家』や『ソクラテスの弁明』なんかの恥ずかしながら今まで読んでなかった本を学ぶことで、特にアテナイの国家形態の変遷を知ることが「イデア」や「弁証法」を理解する鍵なのだと気づくことが出来ました。
ソクラテスの「無知の知」がデマゴゴスの私利私欲を明らかにする「弁証法」であり、ソクラテスを処刑した衆愚的な民主制から哲人王(ソクラテス)による国家統治への移行という「今は目の前に無いイデア(理想)」の実現こそが古代ギリシャの弁証法が指し示した「善く生きる」道だったのだ!と。
それは林健太郎の『歴史の流れ』で言ったなら、ほんの最初の数ページの事柄でしかありませんし、南郷さんなんかは「発展史観」の初源的な時代の原点的な未成熟さという先入観から、「ソクラテスの時代は人間がまともに対話ができなかった」とか「ソクラテスは文章が書けなかった」とか根拠もなく書いていますけど、おそらく古代ギリシャの時代までに人類の文化の蓄積は既に相当なものがあったのだと私は考えますね。
タレスが日蝕を予言したという逸話だけからも、バビロニアの天体観測での暦を使った未来予測(星占い)の知識をタレスは知っていたのだと思います。
太陽にも月にも他の惑星にも、そして彗星だとかの天空の現象にも「繰り返される周期」というものがあって「同じことが繰り返されるのだ!」という知識が伝承されていた可能性が否定できません。
ホワイトヘッドが述べた「西洋哲学史はプラトンの哲学を註釈する歴史である!」との言葉は真を穿つものだと思いますし、ホワイトヘッドの考えが流れ込んでいくのが現代のドゥルーズやガンギレムなのだと考えています。
まあ、南郷さんとは随分と見解を異とすることになりますが、「自分史上最高」の知的レベルに到達したいですね。
自由びとさんは自由びとさんで夫婦喧嘩?を満足いくまでご堪能ください(笑)
>家族でもなければ親しくもない私に向かって「妄想狂」なんて言葉を投げつけているだけで貴兄の発言に一貫性が無いことは理解できますね。
↑~
この理解は間違っています。
赤の他人に平気で「極めて個性的」なる言葉を使えるお宅だから、
お宅のコメント内容に対して、お宅レベル言語表現を使ったのです。
>まあ、私は元より貴兄の家庭内の話しに興味などないのですし、大学生の息子さんが卒業して就職して自立したならば晴れて「熟年離婚」という道もあるのでしょう。
↑
ならば、私の家庭の事実ではなく、お宅の家庭の事実で説くのが筋でしょうが…
>「普請」という漢字を自ら辞書で引いて調べる機転も効かずに、奥さんの「常識」なる言葉が嘘となる証拠を学校の同僚を使ってリサーチしようとする能天気な緊張感の無さが、結婚して息子が20歳を超えるまで一緒に暮らして夫婦でツーカーの関係に至っていない「無理して一緒の屋根の下に暮らしている」窮屈さが、普通は他人さまには隠して見せない夫婦喧嘩?を公開するのでしょう(笑)。
↑
だから!再度書きますが…辞書に「普請」が一般的常識だと書かれていますか?
しかも>…家庭内の話しに興味などない<と…<と書いておいて…まだ書いている!
「発言」ではなく、コメント内容に「一貫性」のないのは、自由びとor臨済義玄お宅?
>私は自由びとさんのご家庭には興味がまったく無く、ただ私自身の自己運動として知的営みを積み重ねているだけですから、自由びとさんの「弁証法とは何か?」という問い立ても、自由びとさん自身の回答は何の役にも立たないものでしたが、自分の考えを提起して発展させるには有意義だったと思いますね。
↑
「興味がまったく無く、自身の自己運動…重ね」るいなら、
それは、お宅の家庭の事実に重ねて説くのが筋…ですね。
それをお宅は、私の家庭の事実を使って重ねようとしている。
観念内で重ねるのはお宅の問題なく自由です。
また、お宅が個人的に書き留めるのも問題なく自由です。
しかし、お宅は、この自由びと当人のブログのコメント欄で、
しかも、自由びとの家庭の事実を使って重ねようとしている。
そもそも…見ず知らず自由びと、見ず知らずの奥さん…
個別の事実を全く知らず、記事の言葉だけで、
「知的営みを積み重ね」が可能と思っているなら、それも妄想ですね。
始まりの事実が赤の他人の言葉だけだから、
その後の「知的営みを積み重ね」の結果が
現実・事実とは間違っていて当然ですね。