初めの問いは、「どうして・何故に1を十個足したら10なの?」だった。
それに対しての初めの答えが「十進法だから」であった。
その後、二進法でも、五進法でも、1を10個足したら10になる事に気付いた。
それは、同じ10であっても、
二進法の10は、●●であり、
五進法の10は、●●●●●である事に気付いたからである。
そこから、気付いた事は、
同じ10という数字で書かれていても、
その数の体系によって、その10の中身は異なっている、であった。
ならば、中身の異なっている「10とは?」という疑問が浮上してきた。
10と、他の1から9までの数字の違いは?
それは、10は、1と0という二つの数字の合成という事である。
ならば、1とは何か?、2とは何か?3とは?4とは?
ここで、アラビア数字は、
●は1、●●は2、●●●は3、●●●●は4、●●●●●は5…と表現している。
漢数字なら、
●は一、●●は二、●●●は三、●●●●は四、●●●●●は五…であり、
ローマ数字では、
●はⅠ、●●はⅡ、●●●はⅢ、●●●●はⅣ、●●●●●はⅤ…
十個なら
アラビア数字では、10、
漢数字ならば、十
ローマ数字では、Ⅹもである。
漢数字ては横棒が、ローマ数字では縦棒が
●、●●、●●●に対して、Ⅰと一、Ⅱと二、Ⅲと三といった
具合にに対応させて表現している。
それに対して、アラビア数字では、
1とは、1と●を全体として、一文字で表現、
2とは、●●を全体として、一文字で表現…
これは、一から九までを全て一文字対応である。
10とは、その数の体系における基準になる最小のまとまり…
十進法なら十個、二進法なら二個、五進法なら五個…
それは、それまでの一桁の数字とは異質の数字…とでもて言った感じかな…
物質でいうなら原子・電子で分子となり、分子が集まって物質・物体…となる…
個々の事実から哲学へ
哲学の発展から科学へ…
科学から個別科学へ…
個別科学から一般科学へ…
部分が集まって全体的一つへ、
全体的一つが分かれて部分へ、
また部分が集まって、より大きな全体へ、
その時々の過程的な量質転化化の繰り返しで、
少しずつ全体的な完成・完璧へと近づいていくのだろう。
幼児は幼児として、完成・量質転化化し、
小学生は小学生として、…
中学生は中学生として、…
高校生は高校生として、…
大学生は大学生として、…
成人は成人として、…
中年は中年として、…
老人は老人として、…
もっとも…
その完成・量質転化化の中身となると~
それは十人十色なのが人間だが…
「10」というのは言わば「螺旋」を表現した数字です。「1」は漢字で「一」、訓読みでは「はじめ」とも読ませますが、数の始まりを表しています。そして「0」というのは「桁が上がった、位が上がった」ことを表現しています。
螺旋階段を上の階にあがり、上の階の始めに位置したという数がいわば「10」でしょう。
言ってみれば小学生も中学生も高校生も社会人も一年生からスタートしますが、それぞれ「上の段階」に上がっているという螺旋階段のモデルが「10」だというわけです。
どうですか?単に「異質」といって新たな世界へ飛翔?(ぷっ、失敬)するより適切な表現でしょう?
私の共感度・同感度けっこう高いです。
1が、一桁・ひとつの始まりなら、
10は、二けた・一桁上がった質的に高い新たな始まりであり、
100は、1と10が統合された発展的な始まり~
100が、1の10倍の10倍なら、
1000は、1の10倍の10倍の10倍…
お宅の「精力を投じた力作」が読めないのが残念ですね。
追伸
以下は無くてもいいかも…
無い方がもっといいかも…
↓↓↓
>(ぷっ、失敬)
無い方が、
もっとまじめに、
もっと素直に読めるでしょうね!
普段、数学のことなど考える必要のない生活環境ですので、こんな機会でもないかぎり数学の本を読むこともなかったでしょうから、それに関しては自由びとさんに謝辞を述べたいと思います。
まあ、それで自由びとさんのプライバシーに関わってしまうことなので無理に答えなくとも構いませんが、自由びとさんがこんなに数学に執着があるのは趣味といっていいくらいに数学が好きだから?
確か暇なときに数独だかナンプレだかの問題を解くこともあるということでしたし、相続税の金計算を税理士にも頼まずに自力でやったなんてのでも相当に数学に強いというか数学が好きというか、世間的には「変わり者」ではないかと感じるわけです。
「1を十個たしたらどうして10か?」なんて疑問も還暦すぎて日々の仕事に追われてる者が発想する疑問でもないでしょう。
個性的に、やっぱり数学が相当にお好きで?
この疑問から二進数や五進数、16進数の話に繋げてそこから「同じ数学でも体系によって意味するところが違う」「同じ言語表現でも意味するところが違う」というふうに持っていくのも正直いうと私は違和感が否めないわけですが…。
というのも個々人の多様性とn進数の「nの数が何か?」の話とはちょっと毛色が違うといいますかね、n進数の数字の並びってランダムでなくって10進数がやっぱり基準になってるわけじゃないですか。その「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13、14、…」と規則正しく並んだ数字のどこまでから桁が上がるか?「10」に移行するか?であって、けっして数の並びが「2、7、61、53、11、82、45、673、9、…」なんてランダムにはなりませんよね。
数学的論理性というか極めて規則正しい並びを基準にして規則正しい操作というか、でしょ?
それで「二進数でも五進数でも10個で10になるのは同じ」だという自由びとさんの認識は、二進数の「1、10、11、100、101、110、111、…」という並びは「1個、10個、11個、100個、101個、110個、111個、…」と進んでいく個数で、五進数の「1、2、3、4、10、11、12、13、14、20、…」という並びは「1個、2個、3個、4個、10個、11個、12個、13個、14個、20個、…」と進んでいく個数だと認識したからですか?
でしたら「二進数」という10進数の「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、…」という並びを前提にした呼称は成立しないし「五進数」という呼称も成立しないことになると思われますね。
自由びとさんの認識の仕方だと結局はn進数のnが何であれ10個で10となる10進数だという結論に導かれてしまいますよ。
そこはやはり、基準になるのは10進数だということで「10個で10は十進数、2個で10は2進数、5個で10は5進数」という理解で良いのでは?
いや~数学の本まで買って勉強とは、恐れ入りました。
なかなかのモノ・お宅ですね。
さて、生まれた時からね十進法の世界での数の学びでしたから、
モノの数え方は、1、2、3、4、5、…10なのは当然です。
それでも、
十進法の「10」は、「じゅう」と読み。意味は十個ですが…
二進法の「10」は、「いちぜろ」とか「いちれい」…と読み、意味は二個で、
五進法の「10」も「いちぜろ」とか「いちれい」…と読み、意味は五個というふうに捉えています。
十進法を知らない・十進法の世界に生まれていないモノ…
二進法しか知らない者から「10」個は二個の事。
五進法しか知らない者なら「10」個といえば五個の事。なのでしょう。
私の記述は十進法を基礎・基本としての二進法・五進法なのです。
お宅も十進法の世界で生まれ生活し続けた者だから、
「10」と見ると、すべて「じゅっこ」と読み、十個と理解するのでしょう。
それは、それで、しょうが無い事なのでしょうね。
そうそう確か二進法とか五進法の「10」の場合、
ただの「10」ではなく、少し書き足した表記法でしたね…
ここで、お宅の誤解をとく事にします。
私の数に対する疑問は、小学校低学年・発達障害児達との「算数」の
学びの過程での誤答・誤解を見ていて生じたモノです。
なので、算数・数学だけ大好き変人ではないと思っています。
それでも、私の事を阿保呼ばわりしてくる見知らぬ御仁を、
このようにまともに相手している私は、
それはそれで変わり者なのでしょうね。
そんな算数・数学お宅の変人ではない私が、
このような変な疑問が生じた理由について、
私は以下のように捉えています。
教員時代の私は、『になろう・まともな教師になろう』、
そんな想いでいっぱいで…
そんな半人前の私だったから、児童の立場に立とう・立っているつもりでも、
結局、私的な児童・教員的な児童にしかなれなかったようでする。
塾の講師時代も似たようなモノでした。
でも…今の仕事・立場は、以前とは大きく違っています。
教師も講師も、教える内容が決まっていて、それを教える仕事でした。
でも、
今の補助員は、教える事が仕事ではなく、
教師の教えを学んでいる児童の学びの補助なのです。
そこには、教師や講師のような自分の言動で教育というような主体性ではなく、
教師の主体性に合わせ方向に、児童の主体性が働くようなお手伝いなのでょう。
そんな以前とは異なった私の認識で、
元々得意な教科だった算数を、
眼前の児童達の目線で捉えたので、
こんな変な疑問が生じたのてでしょうね。
「類は友を呼ぶ」ですから、
私が、変人ならお宅も変人。
お宅が、変人なら私の変人。
なのでしょうね。
私も「阿呆」だと述べた前言を撤回したいと思います。
まあ、論理的には「同じ阿呆という言葉でも発する人間によって意味が違うのに私の阿呆の意味するところも尋ねずに非難するのか」だとか「関西なら馬鹿と違って阿呆は親しみを込めた意味で使われるのを知らないの?」だとか理屈をつけることも可能ではありますが、それは狡賢すぎでしょうからね。
自由びとさんが「真摯」と述べた如くに「阿呆」と呼び合うには我々は余りに互いを知らなすぎますから、馴れ馴れし過ぎたと反省いたします。
その上で、自由びとさんが「1を十個たしたらどうして10になるのか?」との疑問を小学校の発達障害児との関わりの中から抱いたということに正直驚きを隠せないでいます。
つまりは卒業して社会に出ていく児童の指導の一環で「人類が培ってきた数学の体系とは如何なるものだろうか?」などと問うのかな?それより寧ろ「どうしてこの児はこのように考えるのだろうかな?」という「数学」ではなく「児童心理学」「児童認識論」のほうにはいかなかったのか?といったことなんですね。
もちろん、大局的には自由びとさんがどのように考えてどのように記述しようが自由びとさんの勝手ですし、その記述されたものの整合性を問うていく私のような人間こそが常識的には変人だということも承知してはいるのですが、本当に自由びとさんは学校での児童の指導に関わって児童を指導する人間としての立場から頭を働かせたと言えますか?
>まあ、論理的には「同じ阿呆という言葉でも発する人間によって意味が違うのに私の阿呆の意味するところも尋ねずに非難するのか」だとか「関西なら馬鹿と違って阿呆は親しみを込めた意味で使われるのを知らないの?」だとか理屈をつけることも可能ではありますが、それは狡賢すぎでしょうからね。
↑~
この論理だけを読むと間違いではないでしょう。
でも、今回の場合では、正しくマッチしていません。
ここでは、この論理は不適当です。
「…阿保…」云々は、社会的な常識の問題です。
このような言葉の使用を控えるのは、
見知らぬ相手の心を開く為、
最低限、心を閉じさせない為の論理であり、
それを用いた社交法・常識なのです。
だから、普通、見知らぬ初めから「阿保」呼ばわりされたら、
「ふざけるな!」と怒る事はあっても、
「お宅のの『阿保』ってどういう意味?」なんてと問う人はいません。
そのように問う人がいれば、それこそ「阿保全開」ですね。
もっとも…言った者が、子供か知的障碍者なら、その意味を問う事もあるでしょうが…
そけでも、言ったのが普通の大人なら、全く無視か、嫌味でも言って終わりです。
さて~
お宅には、私の頭の働かせ方が分かないでしょう。
それは、私の記述が分かり難い事もあるでしょうね…
より丁寧に書くなら、
発達障碍児や小学生の子供達が、
「1を十個たしたらどうして10になるのか?」と
言う問いを発した訳ではありません。
彼らが、そう問う以前に、「それは十です」と教えられているからです。
答えが「当然・当たり前」と教えられた低学年は、
敢えて言葉で何故とは問わないでしょう。
何故と問えば、低学年に対しての答えは
「そうなるから…」とか、「1から10まで数えてごらん!」です。
そうは言っても、頭で覚えても、心が納得していない子供もいるのでしょう。
そう教えられても、答えを「十」にできない子供達です。
念のため、1が10個とは、2+8、3+7…等の足し算も入れてです。
決して、1+1+……と10個足した時だけではありません。
それは何故だろう?
教えられた事を、教えられた通りに覚えられる子供が多い中、
何故に彼らは、「教えられた事を、教えられた通りに覚えられないの?」
このような疑問の集合体・量質転化化の結果が、
当たり前の事を何故か?と問う事です。
そのような認識の具体化をの算数でした文字化したのが
「1を十個たしたらどうして10になるのか?」
これが、当たり前なのは、当然です。
当然で当たり前の事に、それ以外の理由・原因・訳…を考える事。
敢えて、ここで、言い換えらなら、
「『1を十個たしたら10になる』のが、当たり前なのは何故?」となります。
そう~「当然とか当たり前」となるのは何故?」が根本的な問いです。
この問いが生まれるには、その事が、
心の底から「当然・当たり前」になっている必要があります。
それは、100%それを間違えないという事である。
他人から指摘されて、自ら訂正できるような事は、
その人にとっては、まだまだ当たり前ではありません。
>誤解を解こうと努めて下さったのですね。恐縮です。
↑~
「誤解を解こうと努める」とは少々違います。
もし、このままスルーしたら、私が、お宅の解釈・言葉を認めた事になり得ます。
この事は、絶対に避けたかったから~
それは、
お宅の誤解を解こうではなく、
お宅の誤解を指摘したのです。
>私も「阿呆」だと述べた前言を撤回したいと思います。
↑~
ミス・マッチの論理・言葉展開より、
初めに撤回したのはお宅にしては賢明でしたね(笑・失敬)♪♪♪
そうでなけば、私は以下のようなに問うたでしょう。
「最後の敢えて問います。」
お宅は、何故に阿保と書けるのです。
親しくもない、顔もみた事がない、
初対面さえしていない自由びとに対して!
あ宅の「阿保」は、全く見知らぬ相手に対して、失礼な言葉ではないのですね!?
しかし…普通に常識的に考えて、
「貶める意味を含む言葉を見知らぬ相手に発する」のは「失礼な行為」です。
お宅は、「阿保」という言葉の意味を、相手への誉め言葉として使うのですか?
あ宅は、自由びとに、親しみを込めて阿保という言葉を使っているのですか?
「阿保」を撤回した所で、その論理を読む限り、
その撤回は社交辞令に過ぎず、
そこに、人間的な大人としての社交術・性があるようには思えません。
あるのは、子供的人間の関わり方です。
それも、低学年か発達障碍児的ですよ。
彼らは、遊びたい相手に、「死ね!」とか「ファック・ユー!」と平気で言います、
言われた相手は、怒り・喜び・興奮交じりで、
罵り返したり、パンチ・キックしたり…
そんな相手との罵り合い・叩き合いを楽しんでいますよ。
情緒障害の子供達の多くは、興奮すると、我を忘れて、
相手が教師・児童関係なく、
その相手に殴りかかったり、蹴りかかって行きます。
そうそう罵詈雑言もいっぱいです。
「ファック・ユー」・「死ね」と中指を立てて相手を罵倒します。
このような、私の現状・現実を知らないお宅の以下の問い・言葉に答えるなら~
>本当に自由びとさんは学校での児童の指導に関わって児童を指導する人間としての立場から頭を働かせたと言えますか?
お宅の知っている児童観が通用しない学校・社会で日々勤務している、
今の私の私の頭の働かせ方を、お宅が想像するのは至難です。
同時に、その働きの結果はある程度の文字化は可能でも…
その働かせ方そのモノや、その過程の文字化は私にとっても今は至難です。
私達、補助員は、直接に子供を指導するのではありせん。
その子供を指導している教師の指示をスムーズに
実行・遂行できるように、
その子をヘルプ・補助するのが仕事です。
例えば教師が「●●して下さい!」と指示した時、
子供が「●●」しようとしない、できない時、
私はー「今、先生は何を言ったの?」
児童―「わからない」
私―「先生に聞いてみて」
児童―「……」
私―「なら周りを見て…真似して…」といったように…
ここでは、先生ば「●●言った」とは答えられません。
もっとも…その児童との関係性によっては答える事もありますが…
「●●して下さい」とか
「先生の話をちゃんと聞きましょう」が、教師の指導ですが…
補助員は、聞けなかった子供の手伝いとなります。
このように、今の私は直接的な指導はしていません。
この事が、少々不満の今の私でもありますが…
もっとも…これを児童と言えば、指導なのでしょうが…
それでも、教員・講師時代の指導とは、少々異なっていますね。
✖もっとも…これを児童と言えば、指導なのでしょうが…
◎もっとも…これを指導と言えば、指導なのでしょうが…
そうではなく自由びとさんは私にとっては玄和会という団体の自由びとであり南郷学派側の自由びとだということです。玄和会の自由びとだということは徹底的に他流派・他団体を批判非難している「あの玄和会であり、あの南郷学派」側の自由びとだということです。
そうした「玄和会側の自分」をやあやあ我こそは!と名乗った上で「まったく見知らぬ同士の初対面の対話」を想像するのも無理があるでしょうね。
「他流派他団体の武道家を笑ってしまってバカだと思っている」と書籍で公言している「あの人」の身内の自由びとさんなのですから、私の発する言動への価値観を小学生の倫理性と等価だと考えるところに勘違いがあるのです。
自由びとさんはご自分が教員時代にまだ授業中にも関わらず児童をほったらかしにして学校を去ったエピソードを綴っていましたけど、そんな行為に及んだ人間でも直に会ったことがない相手なら阿呆と呼んではいけないという倫理性ですか?
私は私の考えがありますから、既に述べたように「1を十個たしたら10」になるということは将来は社会に出ていく児童たちは何としてでも理解し身に付けなければならない基礎知識であり、それはn進数における他の2進数や5進数、16進数と等価ではまったくなく、他のように考えていいものだとも考えていないわけです。
なぜなら社会における10進数の位置づけが他の2進数や16進数と等価でないからですし、それは「生きていく」「収入を得ていく」ということに直結していくわけですから、「10進数」だとか「自然数の計算」ということを「単なる算数」と考える系統性の無い(人によってはそれを単細胞と言ったりもしますが)理解と「義務教育の学科」と理解する、つまりは国家的に税金を投じて果たされる事柄だと理解しているものとの違いなわけです。
ですから、自然数の計算というのは義務教育においては「こうでなければならない」という定まったものがあり、教育指導に関わる者としては定められた正しい計算ができるように導くまでであり、今まで考えられてこなかった新しい思考を創造することではないと考えるのですよ。
もっとも、生まれながらというか幼少期の育ちによってというか偶然に天才的な創造性を発揮する子どもたちもいるようで、海外ではそうした子どもを選別して英才教育を施すシステムもあるようですけれど、それはそれで「公的な教育」としてシステムが公的に認可されていなければならないでしょうね。
ちなみに「教員免許を所持した正規教員としての仕事」ではなく「補助員」としての仕事をすることに不満を覚えるというのも還暦すぎた大人としては未成熟だと言わざるを得ませんね。
非公開ですから門外漢の私に詳しいことは分かりませんが、自由びとさんの所属している玄和さんでは『ガラスの仮面』を使った「他者を演じる」指導がされているとか。
ガラスの仮面の北島マヤが演じる役を選り好みするのも変な話で正規教員を演じるときは正規教員としての自由びとに成りきればいいし、補助員を演じるときは補助員としての自由びとに成りきればいいだけで、そこに自由びと個人の嗜好・選り好みなど介入させたら役者失格なだけでしょう。
そんな理由で小学生の教育指導という税金が投入された国家的仕事において卒後の子どもの生活力というものを考えもしていない公務員の思考を税金を支払っている国民市民という次元から「阿呆だ」と考えることについて「職種や立場の違いを超越した裸の人と人」という次元から不服を述べてる自由びとさんの思考には了承しがたい旨を説きたいと考えますよ。
ま、もっとも自由びとさんが実際には小学生の補助員などではなく、玄和だか南郷学派だかの上の立場の人間でもっと下の立場の指導員の補助をしてるといった奥歯にはさまった言い方ならば、なんだか辻褄合わない変な記述もそれなりには合点がいきますがね。
最近、自由びとの名前で2ちゃんねるにコメントしたのは自由びとさんご本人?