私は、何故・どうして、
『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』
と思ったのか?
私は、何故・どうして、
初めに「その時の解答が、『十進法だから!』」が
正解あると確信したのか?
これは記事・「論理・論理的について」で書いた、
その記述の中身への問いである。
コメント欄での、
無ソクラテスとのコメントの応酬で
気付い事は、以下のようなモノである。
1+1=2、2+3=5…
1を9個以下足した時の答えと、
1を10個足した時の答えを、
私は異なっていると認識していた。
しかし、無ソクラテスは、全て同じと認識している。
その私と無ラテスの認識の相違は何故?どこにあるか?
ここで、奴の当然・当たり前が、
私には、そうでは、なかったという事に
私は気付かされた、という事である。
私は「十進法」だから」と結論している。
それは、十進法とは、十個足すと、
「位が上がる」、「桁が増える」、
「一桁が二けたになる」という事・意味であった。
1から9までの数字と10の違いは、
桁数の違いであり、その数字・記号の質の相違である…
そんな当然の・当たり前の事を文字化・表現し得ていなかった。
そんな事にも気付けた。
十進法では、1から9までの数字と0を組み合わせて、
全てのモノ・コトの数量表現を可能にしている。
これが二進法なら、1と0であり、
五進法なら、1から4と0である。
十進法が、
人類にとって有効な理由・生まれた理由は~
人類の指が10本だった、からだろう…
それは、それとして…
数字「1」とは、
事実ではなく、論理的である。
その理由は、
「1」 という数字は事実・現実であっても、
「1」=ひとつというモノ・事実・現実はないから、である。
あるのは、「1」ではなく、
1個のリンゴ、1個の果物、1個の食物、1個の果物…であるから、
では、「2」は? それも「1」と同様である。
1個がリンゴなら、2個のリンゴ、
1個が果物なら、2個の果物… であろう。
1は、ひとつの何かを1・「ひとつ」の数字で表現しているが…
2は、少々違う、2は1と1を合わせたふたつを2という「ひとつの数字」で表現している。
ひとつの数字での表現するとは、「ひと纏まり」・「ひと括り」という事なのだろう。
これは~
人類の脳細胞の集合体がひとつの頭脳であるから、
多種多様な世界・現実を認識・記憶…するには、
多くを全体を「ひとつ」として、認識する必要があったから、
なのだろう。
それに対して「10」は、ふたつの数字で十個を記して、
そのふたつの数字で、ひとつの数字としている。
だから「1」ひとつの表記と、
「10」と書かれた中の「1」とでは、
同じ「1」でも意味・中身が異なっている。
ドラえもんの「もしもボックス」があり、
「もしも世界が二進法だったら」~
二つが「10」であり、
モノを数える時は、
1、2、3、4、5、6…ではなく、
1、10、11、100、101、110…となり、
「1をふたつ足すと何故に10となるの?」という問いは生まれず、
ここは、同じく
「1を10個足すと何故「10」になるの?」
五進法の世界なら~
1、2、3、4、10、11、12、13…となり得るのだろう。
同様に
「1を10個足すと何故に「10」になるの?」であろうか…
私達は、二進法・五進法も十進法から捉え返したいるので、
1を10個たしたら、十進法だから「10」となる、は正解でも、
二進法だけで考えるなら、1を「10」個足したら、同じく「10」になり、
五進法だけなら、1を「10」足したら、同じく「10」になる。
そもそも、
「…進法」とは、その数だけ足したら、
「位が進む法」であり、
そのようなルール・規則でつくられた
数の体系だから…である。
だから、初めの問いである以下の~
『何故、1を十個足すと「10」になるのだろう』の
完璧な正解は~
人類が、そのように「十進法」の体系を創り上げたからである。
この場合の「十個」とは、
図で書けば
◎◎◎◎◎◎
◎◎◎◎◎◎
であり、
既に、ここは十進法表記である事は致しかたないが…
。
私は、書店に取り寄せ・注文です。
届くのは三月の中旬と言っていました。
どうですか?内容は~
誰か教えてくれたんですか?
最近、全集の再読を始めて…
ふと…「第三巻は?」と気になって、
二月の下旬頃?に現代社に電話したら、
「来週には発刊できると思います」
と言われて、
「書店で予約注文は可能ですか?」と尋ねたら、
「大丈夫です」と言われたので…
近くの蔦屋で予約しました。
疑っていますね!私の「退会」記述を…
嘘八百は、お宅の専売特許です。
特許使用料の支払いは嫌ですから…
単純に私自身がまったく想定してない頃に送られてきたので定期講読を申し込んでいない人間が良く分かったなと素朴に思っただけですよ。
私自身の感覚からすれば必ず買うわけですから出版社に予約しておけば逐一チェックしてなくとも郵送されてきて便利ですし、色々と手広く活動していると南郷さんの本ばかりに意識を向けるのは不可能ですしね。
ですが、自由びとさんのように出版されたのを確認してから地元の書店に注文するのは僅かばかりでも地元の書店の収益になるでしょうし、自分が住んでいる地域社会を大事に思っての配慮かも知れませんね。
いまはアマゾンだとかも広がって潰れる書店さんも少なくないみたいですし、アマゾンって元々がアメリカの会社でしょ?アメリカのやり方が日本社会の一端を駆逐してると解釈することも出来るのかも知れません。
と言いながら便利で安いから私もアマゾンは頻繁に利用してますが、そうした流れにささやかに抗っているのが自由びとさんのやり方なのかな?なんて感じたりもしますけどね。
もちろんそれが玄和会に入会するとかのアホらしい話ではありませんが。
当人同士で通じ合うことは当人同士の中に秘めておくことも、また華なりと考える次第ですよ。
以下のような、端的な感想をありかとうございました。
>私と著者とだけに通じる以心伝心があったということですかね。
「以心伝心があたった」とは羨ましい、ですね♪
「以心伝心」と言えば、「拈華微笑」が浮かぶのですが…
それって…華麗なる誤解という説もある、ようですね。
事実~私の記述に対するお宅の文章読解力を目の当たりにしていて…
その多くの「誤解・誤読・勘違い・曲解…」から、
お宅の「以心伝心」の確信に不安を覚えています。
しかも、
お宅が私よりもマイナス感情を抱いて否定的な南郷氏ですよ。
その記述ですよ…
果たして、著者・南郷氏の真の思いが、お宅のそのネジレ心に正しく伝わったのか?!心配です。
アンチ玄和会のお宅と玄和会そのモノである南郷師範とが
果たして通じ合えるモノでしょうか?
普通に一般的に言って、「無理がある!」でしようね。
もし…通じ合えたとしたら、
そこには多いなる・華麗な誤解・曲解がある事でしょうね。
そう言えば、南郷氏が、どこかに書いていましたが、
南郷氏の記述は、素直に心を開いて信じて読まねば
訳わからなくなり、ますますの混乱・頭が悪くなってしまう…とか。
>…敢えて言えば「私の個性」
>…自由びとさん…不備があったということでもない…
>…大いなる錯覚…
↑
なんて…
イチイチお宅の理由付け、言い訳が
書かれたコメントなんて載せません。
>…自由びとさんのようなコメントを好まないんですね。「馬が合わない」と言いますか、…
なら、
ここに、コメント寄越すな!
ここに、二度と書き込むな!
お互いに理解し合えない者同士から
二度と関わり合わない方が無難でしょう。
と言うより、親しくも無い私に、
平気で「阿保」と書けるお宅とは、
私の精神衛生上関わらない方が無難だと思えるので…
さようなら!
つくづく残念ですよ。