新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・フラッシュバックの話

2025-02-17 15:32:53 | 「わたし事・学」
続・フラッシュバックの話




現実の物事には両面ある。というより…物事は一つ!
でも…それを人間が自己の利害に即して両面的に認識しようとしている。

「フラッシュバック」とは、
突然に想起された過去の生活の想い出のシーン。

そう~先日、テレビドラマ「相棒」を視ていて…
ふっと過去に、家内と二人で一緒に視ているシーンが想起された。

その瞬間の感情は「温かい・ホット」的であった。
が…しかし、
その時の現実の私は、「ホット」ではなく…「独り・孤独…」そんな感じ!(だったのだろう)
「だったのだろう」と言うのは、その感情がハッキリ感覚できる前に…
強烈な「寂しさ」を感覚したからであろうか…

「フラッシュバック」は過去の想い出シーンであり、それは認識・過去の事実・感情。
その過去の認識・事実・感情を想起した瞬間に、
私は今の現実的な私の状況を確認して、それらを比較してしまっていたのだろう…。


過去の「ホットな感覚」は、家内が横にいたから…
でも…現在の私の横には「家内はいない!」…
この違いに、私は「強烈な寂しさ」を感覚した…のだろう。

過去にも、息子も家内も不在で、独り「相棒」を視ていた事実もある。
しかし、その時には一度も二人不在に寂しさを感覚していない。
むしろ…独り自由気ままに自由にテレビを視られる事を喜んでいた…


トラウマ的なフラッシュバックでの感情は「過去モノ」…
それなのに…そんな過去のシーン亡霊に苦しんでしまうのが人間。

私は、過去の「ホットな事実」を今も求めて、
日々の現実を寂しく感じまっている人間。


この両者の共通性は、自分の「ココロ・感情」をみている事。
トラウマ的なモノは、自己の過去の恐怖の感情、
それは、避けたい・逃げたい感情なのに…その恐怖・感情に囚われている~

逃げたい=恐怖の感情。
避けたい=嫌な感情。

「逃げたい・避けたい」と思っている限り、
それに付随している感情の想起は当然…

私は、過去の「求めても得られない過去の感情」を求めている…
両者共に、自己のココロ・感情に囚われている。


そう~このような「自己のココロ・感情の奴隷になっいる」~
そんな自分の状態に、三週間位前に突然気付いた。

では…どのように気付いたのか?
それは、その時私が「独りで相棒を視ていた」事実に気付いて~
そして、過去には独りでも…全く寂しくなかった事実。

その両者の比較こから、以下のように推測した~
これが息子と二人で一緒に視ていたなら…
きっと私は「相棒ってママと三人で、よく視たよね…」と言って…
(自分心内・感情を息子に話して)…
二人に家内を懐かしく思って終了…

ならば…そこに「私の強烈な寂しさ」はなかっただろう事に気付いた。
自分の心・思い・感情は、自己の認識内の観念的な事実。
でも、それを言語化して他人に伝えてならば…それは客観的な言語化事実。

ここから…「肉眼と心眼」の相違にも発展していったが…




















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2 コメント

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Unknown (ゐぬ)
2025-02-18 07:35:15
自分を客観的に見ることができないのは、他者と一緒にいることがなく独りでいるからなのでしょう。

他者と一緒の生活をしているならば「社会の中の自分」ということを自覚して、「社会の中で生きていく自分」を意識することでしょう。

その「社会」というものが歴史的に伝承してきた人類の智慧・叡智が、統計学的な言い方をするならば「標準偏差」の「標準」だとか「平均」ということであり、俗に言う「普通」ということでしょう。あるいは、何某かの医師ならば「常態」という言葉を好むかも知れませんが…

突然に天災で身内を失ったわけではなく、病気の診断から亡くなるまでの期間を常に一緒に時空を共にしたにも関わらず、「余り話しをしなかった、伴侶が何を考えているのか分からなかった」などということがあるとは考えられず、息を引き取るまでの様々な出来事が悲しみと共に心を整えていく期間ともなったに違いないですし、また「葬儀の喪主」として故人の伴侶だった人間がこれからどう生きていくのかの「抱負」を身内・家族に公言するという実践が、子供がお菓子を欲しいと泣きわめく即自と違った「対自」としての自分を自覚させ、

49日といった仏教思想の慣習が何を意味するのかも理解されたことでしょう。

それが「フラッシュバック」という「一つの知識だけ」から展開された文言が70歳を前にした人間としては嘘っぽく感じられ、それが本当ならば「甘え」という日本人の気質だとされていることもマンザラ真実なのかとも思えますね。
返信する
一つの知識だけ!…とは? (自由びと)
2025-02-18 10:35:59
>コメント

>自分を客観的に見ることができないのは、他者と一緒にいることがなく独りでいるからなのでしょう。


その通りですね!
でも…365日×24時間…他人と一緒は、普通はありえません。
しかも…残念な事に私の境遇の特殊性から…
生れてずっと…独りだけの時間が多すぎていました。
その結果、多くの人達の中にいても、自分から自分をみてしまう事が多すぎなのです。



>他者と一緒の生活をしているならば「社会の中の自分」ということを自覚して、「社会の中で生きていく自分」を意識することでしょう。
↑そう…そのような時でも、他人ではなく私的自分から自分意識してしまっている、ようですね…
一言で書くなら「自意識過剰!」なのでいしょうね…




>その「社会」というものが歴史的に伝承してきた人類の智慧・叡智が、統計学的な言い方をするならば「標準偏差」の「標準」だとか「平均」ということであり、俗に言う「普通」ということでしょう。あるいは、何某かの医師ならば「常態」という言葉を好むかも知れませんが…


全く…もう~お宅は「一般論的」過ぎ!

社会的普通とは、その時代・その組織内の「普通」。
外国から来た者達には、日本の普通は普通ではない(事もあり得る)。





>突然に天災で身内を失ったわけではなく、病気の診断から亡くなるまでの期間を常に一緒に時空を共にしたにも関わらず、「余り話しをしなかった、伴侶が何を考えているのか分からなかった」などということがあるとは考えられず、息を引き取るまでの様々な出来事が悲しみと共に心を整えていく期間ともなったに違いないですし、また「葬儀の喪主」として故人の伴侶だった人間がこれからどう生きていくのかの「抱負」を身内・家族に公言するという実践が、子供がお菓子を欲しいと泣きわめく即自と違った「対自」としての自分を自覚させ、


そう~
息子は「○○から言われた」と言って、医者から余命宣告を受けた家内と時間の許す限り「色々な話をしていました。
でも…私は『話す事で家内に負担を掛けさせたくない』と自分勝手に思い込んで…結局…長い話はしません…でした。
その事で家内の死後に思った事は以下です。
「私は家内の死を信じたくなかった」・
「受け入れられなかった・受け入れたくなかった」
「そんな自分の認識を誤魔化していた」のだろうと…

>49日といった仏教思想の慣習が何を意味するのかも理解されたことでしょう。

>それが「フラッシュバック」という「一つの知識だけ」から展開された文言が70歳を前にした人間としては嘘っぽく感じられ、それが本当ならば「甘え」という日本人の気質だとされていることもマンザラ真実なのかとも思えますね。



「一つの知識だけ」とは、実にお宅らしい言語表現ですね。
私の場合なら、「一つのフラッシュバック体験」からの思惟・思考と表現しますが…


確かに「フラッシュバック」の知識もあります。
と同時に、「パニック障害」という知識もあます。
この「パニック障害」の体験談も塾での同僚講師から聞いた事があります。

「フラッシュバック」から「パニック障害への道」も想像可能なのです。
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