人間は複眼?!
先ずはネットからの転写~
複眼とは、
多数の小さな目が集まってできた目。節足動物で発達している。例、とんぼの目など。
「複眼的な(=いろいろな角度からの)見方」
まずは肉眼で見えるものを見て、会得する。
次に肉眼では見えないもの、精神的なものを見る。 その見えないものをみるのが、心眼である。」
次に、例解新国語辞典[第四版]から転写。
肉眼―レンズを通さないで ものを見ること。また、その目。
心眼―ものごとの本質をはっきり見きわめる、心の働き。
以上が引用であるが…
肉眼が感覚器官である「目or目で直接見る事」なら、
心眼は「心の働き」…
では、その「本質を<見極める>心の働き(心眼)とは?
肉眼が、<実存する対象ものごと>を見るモノ。
心眼は、その肉眼で見た<ものごとの本質>を見る心の働き。
事実的に書くなら~
今、私はパソコンの画面とキーボードを見ながら、上記の文字を打ち込んでいる。
でも、その打ち込み寸前に、私は頭脳内で、打ちたい物事の像を描いている・認識している・観ている)。
この頭脳内の像を視ている「目が心眼」であり、
パソコンのキーボード・画面を見ている「目が肉眼」。
肉眼が、その人の実力・視力によって、対象の見え方が違うように、
心眼も、その人の心の実力によって、見ている本質が違っている。
本質を見極めるが「心眼」であっても…
その心眼の実力によって、見えてくる「本質」が異なってくる。
互いの視力の相違による、肉眼で見ているモノの相違は近くでハッキリ確認・納得可能。
でも…互いの心眼で見極めた「本質」の相違は、ハッキリするのが至難。
本質には~
対象の事実レベルの本質。
対象の構造レベルの本質。
対象の本質レベルの本質
上記の表現は誤解を招いてしまっている。
私が肉眼でみている「物事」のレベルをハッキリ認識する。
「椅子」を見ている私は、椅子その物を見ているが…
それは、今座っている「椅子の本質」?
では、車庫に転がっている「古い椅子の本質」は何?
そう~私個人の男性としての本質。
この年代の男性の本質。
現代の男性の本質。
人間としての本質。
そう~肉眼で見ている対象の物事は五感でハッキリ確認、写真・映像で客観的にも確認可能~、
でも、心眼で見極める「本質」は、心の違い(主観の相違)で異なってしまう…
では、その本質の客観的正当性も証明は…如何に?!
観念論的世界観ならば、その審判は「絶対精神」よる…
しかし、唯物論的世界観では、「絶対精神」の存在は認められていない…
ならば…それは「弁証法」的な議論・闘論・話し合い…
「イモ洗い的な過程の結果」であろう。
洗い合う芋い芋達・滅ばし合う対立物の統一、
互いに戦って、最後に残ったモノが、優秀者・絶対精神的なモノ。
議論・闘論・叩き合い・滅ぼし合い…結果に残った「本質」が「絶対精神」的モノ・本質、なのだろう。
もっとも…「イモ同志のぶつかり合いでは、綺麗になっても…「イモ的」!
栗同志なら、棘がされて、食べやすいで…
たぶん、互いに「棘の指し合い・傷だらけ…」で~困ったモノだ!
ここで複眼的に書くなら~
今、私は、
画面を見ながら自己の認識像を観て、キーボードの文字を見ながら、指で打ちこんでいる。
とほぼ同時に私は、そんなキーボードに打ち込んでいる私の姿を認識・想像・描いている。
「書く事とは考える事」―
今これから「書く事を考える」
と同時に、
どのように書くが「表現するかを考える」。
どのような言葉・どのような文字(ひらがな・カタカナ・漢字・ROME字)。
更に私の認識像の全体を観て、そこから部分を視て、言語表現している。
先ずはネットからの転写~
複眼とは、
多数の小さな目が集まってできた目。節足動物で発達している。例、とんぼの目など。
「複眼的な(=いろいろな角度からの)見方」
まずは肉眼で見えるものを見て、会得する。
次に肉眼では見えないもの、精神的なものを見る。 その見えないものをみるのが、心眼である。」
次に、例解新国語辞典[第四版]から転写。
肉眼―レンズを通さないで ものを見ること。また、その目。
心眼―ものごとの本質をはっきり見きわめる、心の働き。
以上が引用であるが…
肉眼が感覚器官である「目or目で直接見る事」なら、
心眼は「心の働き」…
では、その「本質を<見極める>心の働き(心眼)とは?
肉眼が、<実存する対象ものごと>を見るモノ。
心眼は、その肉眼で見た<ものごとの本質>を見る心の働き。
事実的に書くなら~
今、私はパソコンの画面とキーボードを見ながら、上記の文字を打ち込んでいる。
でも、その打ち込み寸前に、私は頭脳内で、打ちたい物事の像を描いている・認識している・観ている)。
この頭脳内の像を視ている「目が心眼」であり、
パソコンのキーボード・画面を見ている「目が肉眼」。
肉眼が、その人の実力・視力によって、対象の見え方が違うように、
心眼も、その人の心の実力によって、見ている本質が違っている。
本質を見極めるが「心眼」であっても…
その心眼の実力によって、見えてくる「本質」が異なってくる。
互いの視力の相違による、肉眼で見ているモノの相違は近くでハッキリ確認・納得可能。
でも…互いの心眼で見極めた「本質」の相違は、ハッキリするのが至難。
本質には~
対象の事実レベルの本質。
対象の構造レベルの本質。
対象の本質レベルの本質
上記の表現は誤解を招いてしまっている。
私が肉眼でみている「物事」のレベルをハッキリ認識する。
「椅子」を見ている私は、椅子その物を見ているが…
それは、今座っている「椅子の本質」?
では、車庫に転がっている「古い椅子の本質」は何?
そう~私個人の男性としての本質。
この年代の男性の本質。
現代の男性の本質。
人間としての本質。
そう~肉眼で見ている対象の物事は五感でハッキリ確認、写真・映像で客観的にも確認可能~、
でも、心眼で見極める「本質」は、心の違い(主観の相違)で異なってしまう…
では、その本質の客観的正当性も証明は…如何に?!
観念論的世界観ならば、その審判は「絶対精神」よる…
しかし、唯物論的世界観では、「絶対精神」の存在は認められていない…
ならば…それは「弁証法」的な議論・闘論・話し合い…
「イモ洗い的な過程の結果」であろう。
洗い合う芋い芋達・滅ばし合う対立物の統一、
互いに戦って、最後に残ったモノが、優秀者・絶対精神的なモノ。
議論・闘論・叩き合い・滅ぼし合い…結果に残った「本質」が「絶対精神」的モノ・本質、なのだろう。
もっとも…「イモ同志のぶつかり合いでは、綺麗になっても…「イモ的」!
栗同志なら、棘がされて、食べやすいで…
たぶん、互いに「棘の指し合い・傷だらけ…」で~困ったモノだ!
ここで複眼的に書くなら~
今、私は、
画面を見ながら自己の認識像を観て、キーボードの文字を見ながら、指で打ちこんでいる。
とほぼ同時に私は、そんなキーボードに打ち込んでいる私の姿を認識・想像・描いている。
「書く事とは考える事」―
今これから「書く事を考える」
と同時に、
どのように書くが「表現するかを考える」。
どのような言葉・どのような文字(ひらがな・カタカナ・漢字・ROME字)。
更に私の認識像の全体を観て、そこから部分を視て、言語表現している。