「自由と責任(義務)」の話
最近視たテレビドラマの中で~
「何故に人は人を殺してはいけないのか?」と問いがあった。
先日のお宅コメントでも同じような言説をみた!
そんな中で、思い出したのか「責任と義務」という言葉である。
そこで、改めてネット生成AI検索したのが以下。
~~~転写開始~~~
義務と責任は、どちらも社会生活において大切な概念で、権利と対義語の関係にあります。
義務とは、法律などの条文に「しなければならない」「してはならない」といった強い表現が用いられているもので、規定に従う必要があり、違反した際にはペナルティが科される可能性があります。法律上の概念としては、債券に対する債務というように、権利に対応するものとしてとらえられます。
責任とは、自己の行為の結果について、何らかの義務、不利益、制裁を負わされることを意味します。民法上の責任と債務(義務)はほぼ同義ですが、厳密には、債務が債権の目的である給付をしなければならない拘束を意味するのに対し、責任は、債務が履行されない場合に備えて、債務者の財産が引当て(担保)になっていることを意味します。
たとえば、お金を払ったのに商品を渡してもらえないときには、商品を受け取る権利があります。お金を受け取った人は、お金を払った人に商品を渡す義務があります。
~~~転写終了~~~
もともと~私の中には以下のような疑問モノです。
「人間は自由」なのに「人が人を殺してはいけない?」
自由な人間なのに、その自由の制限・禁止があるのはな何故?
誰が、人間の自由を禁止・制限しているの?
人間が、他人の自由を禁止・制限しているの?
確か…「モーゼの十戒」にも書かれていた?!
神が禁止・制限しているの
確かに、そんな過去の人類であろうが…
でも…上記の転写から~
人々・人間の自由を制限・禁止しているのは「法律」だと確信した。
これが「べき論」なら、法律に従うなら「人を殺すべきではない」。
>「義務と責任は、どちらも社会生活において大切な概念で、権利と対義語の関係にあります。」
この言葉から、今の私は確信した!
「基本的人権」を主張するなら、そこには、人間としての個人的「義務と責任」が発生する。
そこから「主体性を持って、主体的に生きる」の意味~
動物は、自由ではなく、その種の「本能由」である。
従って、その個体動物の行為・行動・動作の責任は、その全種族の責任。
しかし、認識的実在である者の行為・行動・動作の責任は、その者自身の責任。
さて~
「主体性」とは、本能に従う事無く、自分自身を主人公として生きれる性質。
「主体的に生きる」とは、その性質を意識して、その行動・動作…の全てが、自己責任だと認識して生きる態度。
「法律違反?!」
「人は人を殺してはいけない!?」
なのば…今、この瞬間の世界で同時進行している~
あの二つの戦争は、どうなのだうか?
「違法行為」と言われたも「合法」だと主張している国々~
結局は、「法律」も人間が、創った決まり事!
人間自身に法律順守の精神がないなら…それは「絵に描いた餅」!
いやいや「社会」が法律を創った!だと…
世界には、多くの国々がある。
また、その個々国々には、個々の社会がある
それらの「個々の社会が独立」的なら、どうなのだろう?
自国の国民どうしの殺し合いは禁止・制限。
でも…他国の国民を殺す事は問題なし!
または、戦争・異常な状態だから、非常時の「法律」がある…
そもそも…問題は、それらの「戦争し合う意味・理由」なのだろうか?
確か、法律には「正当防衛」があり、
自らの身体的危機から脱却・解決の為なら、他人を殺しても問題なし!ある。
今の自然・社会・精神…は、人類・人間・人々が、作り替えながら・創り上げてきたモノ。
それは、唯物論的・観念論的に、創り上げてきたモノ。
だ・か・ら・何?
何が書きたいの?
さてさて…この続きは、今後の私の思考・思惟の深化・発展を期待しよう!