新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

より自由に認識する「空虚」

2024-04-30 11:55:30 | 自由論
改めて自由に「空虚な言葉の羅列」について~

「空虚」について辞書で再確認した。
>空虚とは、① 中に、何もない事。② 形だけあって、価値や内容が感じられなくて、むなしい事。


成る程…
前回、説いた「言葉・言語の映像化が不能」の空虚とは、
言葉・言語を認識(ここでは自由びと認識)として見て取れずに語彙・語句…
唯の文字・記号としてしか認識できない場合であり…

これで間違いなのだが…
でも言葉・言語を理解可能な普通の大人には、このような事は、ほぼありえないだろう。

ならば…弥勒お宅の「空虚な言葉…」とは、
このお宅が「私の言葉・言語の価値や内容が感じられなくてむなしい」という事なのだろう…

しかし…ここで問題が~
弥勒お宅が「価値・内容」と感じる言葉・言語と私の感じているモノが同一であるとは限らない事。
「無用の用」と言った~一般的には「無用・無価値」でも、それだから「使える(価値ある)モノ」のあり得る…という事であろう。

価値ある内容か否かの判断は、個人的な自由の範囲であろう。
それは、社会的レベルでも、人類レベルの全ての人々に価値あるモノは有り得ても…
全ての人々に無価値なのモノは有り得ない…のだろう…

モノコトは、そこにある・存在している以上は何らかの価値・内容がある。
モノコトは、その存在そのモノに価値があるのだろう。
「有」こそが「絶対的な価値・内容」であり、「空虚」という言葉には、
万人にとって表現価値があっても、現実に万人にとっての共通な空虚なモノコトはあり得ない。

ここは自由びとの個人ブログ~、
ここでの自由びとの自由な価値観の主張は、
全て(自由びとにとっては)「価値・内容」ある言葉・言説であろう。

その自由びと言説・主張に対して「空虚な言葉の羅列」記述・認識は、
ここ・この自由びとブログ内では…
それこそ、全く無意な「空虚な言葉の羅列」となり得る言語・認識であろう。

なんて…論理的な記述では、今ひとつ…ピンとこないでしょうから…

少し事実的に説いてみようかな…


大学四年生のT君が「俺は、東大現役一発合格だ!」と公言した!

それを聞いた中の良い三人の友達A・B・C…が以下のように答えた。

A-「よし!ガンバ!」
B-「空虚な言葉の羅列だね!」
C-「…………」」


この三人とも、今までのT君が、全く勉強をしていない事を熟知している。

そんなT君に~
Aは、日頃の彼の姿は棚に上げて一般論(頑張り続ければ可能)として「頑張れ!」
B君は、辛辣に、日頃から勉強していないAには、そんな言葉は無意味・無価値な「空虚な言葉…」
C君は、AとBの発言を聞いて双方に納得して…何を言えばいいか…迷ってしまい…「無言」

この場合の「空虚な言葉…」は、
日頃のT君を熟知している友達Bの言葉であり、
Tの希望認識vs現実・生活に対しての
「東大現役一発合格」という「空虚な認識…」は、
T君に対して友達として現実の直視を求めた忠告・アドバイス的なモノなのだろう…


このような言葉の記述・発信者を熟知しているモノからT君への「空虚」発言の場合は、
その発信者の現実・事実と、その言葉・認識の乖離の激しさからの「空虚」であり、
その「空虚」表現には、友達としての友情が含まれている。

しかし…ここでの弥勒お宅は、自由びと・私であるを知らない者~
私の日頃の生活を全く知らない者~
知り得ているのは、私がブログに書いている日頃であり生活である…
それら全てが、私の文字・言葉・言語的な認識表現である。

その言葉・言語表現から、それを私の認識・映像化するのは、
弥勒お宅の言語理解能力と人間一般に対しての理解・認識能力~

見た事も、会った事も、直接話した事もない…自由びと・私へ、「空虚」発言・記述…
しかも、この自由びと個人ブログ内でも、そのブログ主への「空虚」発言・記述…

この言動が意味する「人間性」に、
私は、大きな問題がある!ように見受けられる…

それは、例えば、全く見知らない他人の家に突然に訪問して、
開口一番~「この家! 汚い!不潔! だから何とかしろ!」~

そんな言動者のイメージが、
今回の弥勒お宅の「空虚な言葉の羅列」から、
私は認識してしまったが…

弥勒お宅に曰く、「私の幻滅は妄想」~
前向きな「学識豊かな弥勒お宅の姿」認識からの彼?に対する「私の幻滅」は妄想…
だそうだから~

どうやら、弥勒お宅を、私は、自分の都合のよい方に大きく誤解してしまっていたようである。
そこで今回は、そのような誤解無く、正しく、
ここでの、弥勒お宅の言動の現実・事実から上記のよう
弥勒お宅の姿・認識を判断したのであるが…


弥勒さんへ~どうですか?!
何か反論・異論・暴論・イチャモンはありますか?!










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4 コメント

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ここの主は自由びと! (自由びと)
2024-05-02 12:45:15
>・コメントを書いた人
>弥勒

>・コメント

>自由びと氏は私の言ってることを全く理解できてませんね。


ここは、自由びとの個人ブログ、そして私のブログ主~
そんな場所で、ブログ主の私が、何故にお宅の言説を、お宅の意図通りに読み取る必要があろうか…
当然に先ずは、訪問者であるお宅が、私の記述を私の意図通りに理解して、その上での反論・異論・暴論・イチャモン化であろう

そもそも…「私が全く理解できていないなら…」
それは、「その事について、私が理解可能な形での言語表現が出来ていないお宅の問題でしょうが…」


「私の言説のどこが?お宅の言い分と異なっていて・どのように理解できていないか!」
そんな解説も書けずに・書かずに「言っていることを全く理解できてませんね。」とは…
それは、お宅の無脳さの表現でしょうね…



>いや、まー理解できないのも無理はありませんけど自由びと氏のような言語表現は小学校一年生には出来ませんよ。そんな小学生はいませんから。


私の書いた「新・一年生」と私の共通点は、
その「言語表現」ではなく、自己の思い・思考活動を眼前の相手に合わせずに直接言って(書いて)しまう…

これ!これ!それ!それ!
私に言わせれば、
このようにお宅の方が自由びと言説の内容・意図…を全く理解していない!ですね…



>自由びと氏のその思考癖は幼少期からのものなのか既に染み付いていてどーにもならないのでしょうね。


どんな個人的な思考癖も、その個人の自由であり、全く問題はありませんよ。
問題は、その思考癖の結果を如何に合社会的な言動・行為・行動として、実践するか…なのですよ!

私に言わせるなら~
お宅は、他人思考癖どうのこうの…ではなく、
お宅自身の思考癖の確認が必要!だと思いますよ。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」でしょうが…
返信する
Unknown (弥勒)
2024-05-02 12:00:00
自由びと氏は私の言ってることを全く理解できてませんね。
いや、まー理解できないのも無理はありませんけど自由びと氏のような言語表現は小学校一年生には出来ませんよ。そんな小学生はいませんから。

自由びと氏のその思考癖は幼少期からのものなのか既に染み付いていてどーにもならないのでしょうね。
返信する
現実を離れた自由な記述・活動 (自由びと)
2024-05-02 11:11:23
>・コメントを書いた人
>弥勒

・>コメント
>自由びと氏は誤解をされていますが、私は東京大学に入学したような人を尊敬していますよ。

誤解も何も、私は東大へ特に行きたくはありませんが(学力も不足でしたし…)、
ここでの問題点は…日頃全く努力をしないで…
「東大(である必要はないが…)現役一発合格!」という公言・ホラなのに…その自覚がない事です。



>つい先日も毎年恒例のイベントで東大に行きましたが、やはり東京大学出身ではない私のような中年でも憧れの気持ちが湧いてくるのです。


そんな事は、今ここでは、「どうでもいい内容」であり、
この記述は、この話題にとっては「空虚な言葉の羅列」レベルですかね♪♪♪
この場合の空虚とは、私の記述の意図を読み取って貰えない…「空虚さ」ですかね…
成る程…「このような空虚もありえる…」という事ですね。

という事は、ここでのお宅のコメントの「空虚」とは、
私がお宅の記述に即して、返答・回答していない、
お宅のコメント内容に即さない私コメントの内容に対してのモノ…なのですね…




>私が自由びと氏の文章に空虚だというのは、以前も書いたように「内容が虚しい」ということではなく「本当に何を書いているのか理解できない」からなのです。


成る程…「本当に何を書いているのか理解できない…」ですか?
それも当然にその筈でしょうね…

ここでの自由びと記述は、思考過程の自由な精神運動過程の色々数々なのです。
支離滅裂・バラバラ…色々・数々…そんなモノを言語化している…のでしょうね…
思いのままに、思ったままに…、書き放題なのでしょうね…
それが、その活動の結果が、一つの姿形として表現されるのは、現実界での私の言動なのです。



>換言したなら「オバケ」とも書いたことがありますが、自由びと氏のような言語表現をする人間は大人から子供まで見渡しても稀であり、私の言葉でいうと「おバカ」な言語活動なので



それは当然でしょう…どこの誰が、その時々の自己の精神活動を言語化して相手に伝えますか?
多分…否絶対に、そんな大人は存在しません…


でも、新一年生レベルなら、
今この瞬間にその児童の思った事・思っている事を、突然に全く無関係な傍にいる私話しかけてきます。
そんな時、私は「そう~うん!うん!」と言って、
その内容は全く理解不能でも、その児童の思いの言葉化には共感しています。

お宅に言わせるなら、そのような新一年生との会話は…「空虚」でしょうが…
確かに「内容・思い…の理解不能な空虚さ」はあっても、
その児童が笑顔で「先生!」と話しかけている姿は「空虚とは無縁」です。

また…私のそのような態度は、その児童達に、
「先生は安心して話しかけられる(聞いてくる)♪♪♪」…という安心感の芽生えにもなり得る…
そんな空虚でも有効性あるモノでしょうね…
返信する
Unknown (弥勒)
2024-04-30 13:48:56
自由びと氏は誤解をされていますが、私は東京大学に入学したような人を尊敬していますよ。

つい先日も毎年恒例のイベントで東大に行きましたが、やはり東京大学出身ではない私のような中年でも憧れの気持ちが湧いてくるのです。

私が自由びと氏の文章に空虚だというのは、以前も書いたように「内容が虚しい」ということではなく「本当に何を書いているのか理解できない」からなのです。

換言したなら「オバケ」とも書いたことがありますが、自由びと氏のような言語表現をする人間は大人から子供まで見渡しても稀であり、私の言葉でいうと「おバカ」な言語活動なのです。
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