真・「真理は二つ」は真理か?
以下は前回の
「真理は二つ」は真理か?
2020/08/06
「真理は二つ」という言葉が正しい真理なら、
それは、「真理は二つ」という一つの真理となり、
初めの「真理は二つ」と矛盾してしまう。
ならば…
「真理は二つ」は真理たりえないのだろうか?
否!絶対に否!
「真理は二つ」の二つとは、
この言葉を二つの観点・視点から
「二つ」になり得る、という事であろう。
一つ、「真理は二つ」という真理の数を示す観点、
二つ、「真理は二つ」は一つの真理というと視点、
現実の一つの事物を視ていながら、
「真理は二つ」という、もう一つの観点から関わる。
現実・事物が変化・運動性を有しているなら
その真理・言葉にも変化・運動性があるべきであろう。
↑である。
そして、以下は上記の続編である。
七月から「”夢”講義(4)」を再読している。
P182
第一章 第五編 第三節
世界観から論じる二つの正しい「筋道(すじみち)」とは、
…では、以下のような事が書かれていた。
「論理とは、考え方の正しいすじみち」とするなら…
世界観から、「論理」には「観念論的な論理」と「唯物論的な論理」がある。
世界観は違っているが、この二つは、ともに正しい筋道であり、間違いなく「論理」である。
「真理」とは「真の論理」or「真の理論」とするなら、
「真理」には、「観念論的」な真理と「唯物論的」な真理の二つが考えられる。
これは、言い換えるなら~
「自分的な真理」と「みんな的な真理」、
「個人的な真理」と「社会的な真理」、
「哲学的な真理」と「科学的な真理」、
「学問的な真理」と「専門的な真理」、
「一般科学的真理」と「個別科学的な真理」、
「真実は一つ」でも「真実は一人に一つ」、
「真理は一つ」でも「真理は一人に一つ」。
以下は前回の
「真理は二つ」は真理か?
2020/08/06
「真理は二つ」という言葉が正しい真理なら、
それは、「真理は二つ」という一つの真理となり、
初めの「真理は二つ」と矛盾してしまう。
ならば…
「真理は二つ」は真理たりえないのだろうか?
否!絶対に否!
「真理は二つ」の二つとは、
この言葉を二つの観点・視点から
「二つ」になり得る、という事であろう。
一つ、「真理は二つ」という真理の数を示す観点、
二つ、「真理は二つ」は一つの真理というと視点、
現実の一つの事物を視ていながら、
「真理は二つ」という、もう一つの観点から関わる。
現実・事物が変化・運動性を有しているなら
その真理・言葉にも変化・運動性があるべきであろう。
↑である。
そして、以下は上記の続編である。
七月から「”夢”講義(4)」を再読している。
P182
第一章 第五編 第三節
世界観から論じる二つの正しい「筋道(すじみち)」とは、
…では、以下のような事が書かれていた。
「論理とは、考え方の正しいすじみち」とするなら…
世界観から、「論理」には「観念論的な論理」と「唯物論的な論理」がある。
世界観は違っているが、この二つは、ともに正しい筋道であり、間違いなく「論理」である。
「真理」とは「真の論理」or「真の理論」とするなら、
「真理」には、「観念論的」な真理と「唯物論的」な真理の二つが考えられる。
これは、言い換えるなら~
「自分的な真理」と「みんな的な真理」、
「個人的な真理」と「社会的な真理」、
「哲学的な真理」と「科学的な真理」、
「学問的な真理」と「専門的な真理」、
「一般科学的真理」と「個別科学的な真理」、
「真実は一つ」でも「真実は一人に一つ」、
「真理は一つ」でも「真理は一人に一つ」。
現在の私が、お宅のコメントを公開しない理由は、
お宅が、真のたわけ者である事が実感できてきたからであり、
そんな、たわけお宅のコメントを一々公開して、
それにコメントする愚かさ、面倒くささを悟ったからである。
そんな面倒で、どうでもいいような事を、するのは嫌になったのである。
そもそも…このようなコメントを書く事は非常に面倒であり、不毛でもあるが…
↑
南郷氏の色々な著作からの部分的な引用文で何がどう「色々と深まる」のでしょうか?
それこそお宅のような自分勝手な解釈・理解の連続でしようが…
>私が引用した南郷氏の金言を公開して下さい。
>それを見て勉強になる人は他にも沢山いるでしょう。
↑
引用といっても、個々バラバラな引用文では、
南郷氏の著書を読んだ事の無い者には、
南郷氏の言葉を正しく理解できる、
とは言い難いですね。
↑
で~だから何が言いたいの?
「人間も老いると面倒は避けたくなる」です。
お宅の思考癖を見詰める努力をすべきでしょうが…
「一つ」とは「一つ」であり、一種類ではない。
例えば、犬種が何十種類あろうが、
それらは、「犬」という一つの言葉で表現可能。
無限の全宇宙を、一つの言葉、「森羅万象」で表現可能。
無限の全宇宙を、一つの言葉、「万物」でも表現可能。
凄いでしょうが…
限りない無限のモノを「万物」という一つの言葉で表現して…
「森羅万象」にしても「万物」にしても…
先人が創出した言葉。
それらの裏にある認識・思い・像が創造できたから生まれた言葉。
お宅のように、他人の言葉と言葉を比較して、
自分勝手な結論を得て、それで満足していてはね…
問題は、その言葉に至った人々の認識・思い…過程でしょうが…
関数は、変化・運動する対象・事実を数学的に論理表現したモノ。
その「特定の指示対象」は自己の必要性に基づいて決定可能。
真理も同様に「真理」という事実があるのでなく、
ある事実・物事に対して与えられた「真理」という言葉・表現。
相も変わらず思考が短絡的である。
結論・真理の一致があっても、その真理・結論に至る過程が問題となろう。
真理・結論・目的地が分かっても、そこへ至る過程が分からなければ、
そこへ到着でき難い…ならば何の為の「真理」なのだろうか?
「真理が二つ」という「真理が一つ」である。
これは、「結論・真理が一つ」であっても、
その「真理に至る過程が二通り」という事でもある。
南郷氏の「真理は一つではなく…」という記述を見たときに「では、「真理は一つ」だと言った先人が歴史の上にいたのだろうか?」と調べてみると思うのですよ。
何しろ南郷氏は「私は現代の人物にはほとんど興味はなく、歴史上の人物とばかり対話をしてきた」とまで書いてるわけですし。
それで調べてみるとギリシャ哲学から中世哲学、ドイツ観念論だとかを見てみても「真理」を問うた人間は数多いたものの「真理は一つ」などと説いたのはブッダ=釈尊ぐらいしかいないということが浮上してくるわけです。
そして、その「真理は一つ」という記載は「スッタニパータ」という書物に書かれていると分かっているわけで、さらに「その真理を得た者は争わない」とまで説かれていると。
だから後年、「真諦と俗諦」という2つの真理として取り上げられる以前の「たった一つの真理=真諦」とは、他者と争い合わない、殺し合わない、滅ぼし合わないための真理だと内容が具体的に定まるわけで、その殺し合わない、滅ぼし合わないための諦=真理が「涅槃、生きながらに死人となる、つまりは見猿・言わ猿・聞か猿」なのだ、と。
その「殺し合ってはならない、滅ぼし合ってはならない」という諦=真理こそが、時空を超えて永遠に変化しない真なる真理であり、金儲けするために如何に他人を出し抜くか?といった相対的な世俗の真理とは区別されるのだ!というのが釈尊=ブッダの考えだったわけで。
だから、南郷氏が書いている「真理は一つでなく2つ」だという記述を仏教の「真俗ニ諦」という具体的な像で理解できた人間は、「真理は2つ」の「2つ」というのは「真諦と俗諦」という「2種類」という言わば「物理学で単位」をつけて考えることが出来るため、「『真理は2つ』という一つの真理ではないか」などとは考えません。
なぜなら、その自由びとさんの考えは「『真理は2種類』という1種類の真理ではないか」という、物理学で距離も速度も重さも体積も区別なく扱っている駄論のごとき考えだからです。
それは、人間というものは、それもある程度年齢を重ねた人間というものは新たな未知の事柄に遭遇しても今までに習い覚えた思考癖から対応しようとすることです。
自由びとさんの発言をみてみると、その専門としているのは経験諸科学ではなく数学だと思われますね。
経験諸科学を専門としている人間ならば、特定の言語表現されたものがあったとき、その言語表現の指示対象は何なのか?(どれなのか?)を探そうとします。
外界の特定対象と言語表現とを対応させようとする、つまりは「認識」ですよ。
ところが自由びとさんの発言(思考)は数学の代数や関数と同じで「その言語表現に対応する特定の指示対象など無い」かの如くに、関数のxやyが自由な値をとるように「言語表現の指示対象など何でもいい」という発想なんですね。
だから、自由に値が変化していく関数のxとyとの間の「比例」だとか「反比例」だとかの関係だけが重要=興味の焦点で、今回の投稿では「二つの真理、真理Aと真理B」との間の関係は「対義的」なわけで。
「真理は一つでなく二つだ」という南郷氏の記述は、自由びとさんのような人物には「自由な値(中身)を取り得る真理Aと真理Bとの対義的(対立的)な関数」という風に反映されるわけですね。
それは正に自由びとさんの個性なわけですけど、他者が客観的に判断し評定し得る個性だということで。
今年の3月あたりの「真理は二つ」に関する投稿や、去年のものも再読してみて、南郷氏が「真理は一つでなく二つだ」と書いているそのモデルがブッダだということが想起されてわけです。
「真理は一つ」というのはブッダが説いた「真諦」であり、「真理は二つ」というのは「真俗ニ諦」を頭に浮かべているのだな、と思いました。それを、まあ、弁証法の習得として説いてるわけですけどね。
ですから、「真理は一つでなく二つ」だと説く南郷氏は小乗仏教でなく大乗仏教の側に位置するわけで、
それは今回の自由びとさんの投稿からも読み取れるわけですが…。
ですが、まあ、南郷氏の著書に「本物中の本物の高み」を感じてしまった者としては、いささか残念ではありますけどね(笑)