新・「自分をみつめる禅問答」
P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。
ここでの「問い」とは、
この著者が、肉親を突然に理不尽になくした者から
「何故…?どうして…?」
と問われた時のモノであろう。
世の中に、明確な「答え」はあっても、全く納得し難い「答え」があるモノである。
それは、いつも他人事で済んでいる事実が、
ある日ある時、自分事になった時の「何故?どうして?」であろう。
ある日ある時、突然に宝くじの一等賞!これはビックリ!
「何故?」「どうして?」…
でも答えは、簡単明瞭「宝くじを買ったから…」である。
これは、答えに感情的に納得できずとも、
喜びの感情に溺れて「納得し難い感情」は全く問題外となろう。
しかし、突然の交通事故、突然の通り魔…
そんな不幸に対しての「何故?」「どうして?」の問いに対して、
「そこに立っていたから…」「車を運転していたから…」「あそこを歩いていたから…」
こんな答えに、誰が納得できよう…
アタマ・理屈で分っても…悲しみの感情で納得できない…
これは、「何故?」「どうして?」⇒「そうなったの」が問いではなく、
「悲しみと如何に関わるの?」
「この悲しみに耐えられないどうすればいいの?」
ここで、前回までの
「自己」と「非己」の関係性からの運動様式=「自己」…となろう。
その基本は、「ひどく悲しんでいる自己」を受容する事。
自分で『今とても悲しんでいるな~』といった
「自己の感情を観る」「非己」の創造であろうか…
自分には耐え難い「非己」的な大きな悲しみが自己のモノになってしまったなら、
その悲しみを自己ではない「非己」を創出して、
その「大きな悲しみ」を自己から意識的に分離した「非己」に背負わせる。
これは、言うなれば、
意識的な「二重感情の創出」であり、
大袈裟に書けば意識的・自覚的な「二重人格」の創出となろうか…
P268~
「問い」を「問い」のままに、それでも向き合い続ける以外に、とるべき道はないのだ。そして共にその「問い」に沿い続けることが「宗教者」の面目であると、私は思う。「天罰」だの「因果応報」だのは、ただの愚か者の言い草である。
ここでの「問い」とは、
この著者が、肉親を突然に理不尽になくした者から
「何故…?どうして…?」
と問われた時のモノであろう。
世の中に、明確な「答え」はあっても、全く納得し難い「答え」があるモノである。
それは、いつも他人事で済んでいる事実が、
ある日ある時、自分事になった時の「何故?どうして?」であろう。
ある日ある時、突然に宝くじの一等賞!これはビックリ!
「何故?」「どうして?」…
でも答えは、簡単明瞭「宝くじを買ったから…」である。
これは、答えに感情的に納得できずとも、
喜びの感情に溺れて「納得し難い感情」は全く問題外となろう。
しかし、突然の交通事故、突然の通り魔…
そんな不幸に対しての「何故?」「どうして?」の問いに対して、
「そこに立っていたから…」「車を運転していたから…」「あそこを歩いていたから…」
こんな答えに、誰が納得できよう…
アタマ・理屈で分っても…悲しみの感情で納得できない…
これは、「何故?」「どうして?」⇒「そうなったの」が問いではなく、
「悲しみと如何に関わるの?」
「この悲しみに耐えられないどうすればいいの?」
ここで、前回までの
「自己」と「非己」の関係性からの運動様式=「自己」…となろう。
その基本は、「ひどく悲しんでいる自己」を受容する事。
自分で『今とても悲しんでいるな~』といった
「自己の感情を観る」「非己」の創造であろうか…
自分には耐え難い「非己」的な大きな悲しみが自己のモノになってしまったなら、
その悲しみを自己ではない「非己」を創出して、
その「大きな悲しみ」を自己から意識的に分離した「非己」に背負わせる。
これは、言うなれば、
意識的な「二重感情の創出」であり、
大袈裟に書けば意識的・自覚的な「二重人格」の創出となろうか…