新・悟りを求めて~

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「気付き」とは何か?を気付いた。

2021-08-16 12:07:19 | 認識論
「気付き」とは何か?を気付いた。


「気付き」とは何か?
「気付き」とは以下のようなモノであろう…
今までの経験・体験・知った事・学んだ事…自分の中の諸々なモノが、
それなりに筋を通して繋がった瞬間と言える。


では、私は何について気付いたのか?
今日、ふと思った!「武道の勝負」って何?と…

真剣を使って決闘したら「武道の勝負」?
時代劇の中で百姓が刀を振り回して闘っていた。
武技・真剣を駆使しての命を守る勝負だから「武道の勝負」!

南郷氏は、一般的・本質的には、
武道とは<武技を用いて命(いのち)を賭けた勝負の道>と書いている。

ならば、百姓には、武技=真剣を使える技術がない。
だから、これは、武道の勝負ではない。
真剣という武器は使っていても、武器を操る技術・武技はない、のだから…

日本刀・真剣を用いて命を賭けて勝負しても、
武技のない素人では武道の勝負とは言えない。


ならば、剣術家同士の闘いは、全て武道の闘いと言ってよいのだろうか?
例えば、一刀両断を目指すのではなく、先に相手の小手先をチョコっと切って、
後は、出血して相手が弱るのを待って切り込むような勝負の勝ち方は?

武道とは、<武技を用いて命(いのち)を賭けた勝負の道>であるなら…
それは、「道」である。「道」とは一本とは限らない。

正々堂々と<武技を用いて命を賭けて>「勝」のも武道勝負なら、
卑怯・姑息な手段で<武技を用いて命を賭けて>「勝」のも武道勝負。
または、<武技を用いて命を賭けて>逃げるのも武道勝負。


今回の私の「気付き」とは以下のようなモノである。

一つ~
武技=真剣・日本刀ではない事。
武技とは、武器を用いたから武技になるのではなく、
その武器を有効に使える技術を持って武器を用いた時、である事。

これは、武器(実体)と武技(機能)の区別と連関が
分かっていなかった事に「気付いた」という事である。

剣道なら上記のように分かり易いが…

空手や柔道の場合は、より分かり難いモノであろう。

相手に空手の形で突きを当てたら「武技」の駆使?
相手に空手の形で突きを当てたら「武器」の使用?

相手を背負い投げで投げたら「武技」の駆使?
相手を背負い投げで投げたら「武器」の使用?


真剣・日本刀は、誰もが使用した時点で「武器」の使用である。
しかし、素人が空手を突きの形で相手をついても
「武器」の使用にも「武技」の駆使しもなり得ない。

当然に柔道の背負い投げも然りであろう。


二つ~

武道とは、勝負の「道」である事の意味である。
「道」とは、一本ではない事。色々諸々の「道」がある。

勝負に勝つ事の選択も「道」、
勝負に負ける事の選択も「道」、
勝負を中途でやめる事も「道」、
負けを認めて相手の隙に乗じて倒すのも「道」、
敢えて勝負を選択しないのも「道」…

闘い方の選択も「道」なら
その結果の選択も「道」である。


三つ~
以上二つのような事を分かっていなかた自分に「気付いた」


では…何でこのタイミングで私は上記のような事に「気付けた」のか?

これには、実体と認識の双方の関係からであろう。

つづきは…またにしよう!




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