新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
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~11年前の自由びと言説~

2024-05-21 11:37:18 | 「わたし事・学」
いや~ビックリである。
今のこのモヤモヤ感が11年前に発生していたとは…
以下が、旧・「悟りを求めて…」ブログの記事!


2013年04月13日

何だろう?このモヤモヤは? ~心のもやもやから頭のモヤモヤ、そして言葉に表現された「像」へ、その過程的構造~


何だろう?このモヤモヤは?
心のもやもやから頭のモヤモヤ、そして言葉に表現された「像」へ、その過程的構造

今~以下の以下の記述を書き終わってから、昼食に行き、その後に床屋に行って髪の毛のカット、家に帰って息子が、友達との遊びから帰って来るのを待っていて、その後、義弟の勤めるホテルで義母や義姉達と夕食をする息子を最寄りの駅まで送って行き、近くのTUTAYAに「エヴァンゲリオン」DVDの返却をして……まだマダ続くが~今、帰ってきて、これを書いている。

以下の「さあ~」から始まる記述を書き終わってから、今のこの瞬間までの私の、この認識の、気持ちの、安らかさ、と言うか、落ち着いている事と言うか~その平穏な事といったら、ここ数日間に感じた事の無いものである。
では~以下を読んで下さい~

さあ~今日は、どこから書き始めようか!?♪♪♪

今の、この書く過程は明るい未来へ、発展的自己への過程のように感じるのは、何故なのだろう?この答は、感覚的に分かっているが…

この私の分かっている事を、私が、現国を用いて他人にも了解可能な形で表現出来るとは、限らないのである。

ここには、2つの問題点がある。
① 私側の言語表現力の問題。
② 読者側の理解力の問題。

そして、この私と読者、双方のその努力の量と質の問題も、ここに存在しているのだろう。

ここで、双方の努力の質とは、どれ程に自己の感情を空しゅうして、私の言説の内容を客観的に分析する事、と同時に、私も、この感情を空しゅうした自己でもって、その時々の湧き上がる自己の感情を客観的に、みつめ表現する事であり、量とは、これらの継続時間の長さであろう…

今回の「彼」とのやり取りの長さは、最長新記録であった。
この全てが彼の努力の賜物であろうか…

何故に彼の努力であって、私の努力ではないか?というと~

私は忘れっぽいが、くどくしつこく負けず嫌いで、諦めが非常に悪い性格のようである。

それでも…外面上はスッキリ爽やかな感じを装うよう努力してきたが…このようなので、彼が私にレスしてくる限りは、私達のやり取りに終わり無いのだろう…

…私が不測の事態や病気、または不慮の事故などで書けない状態に陥ったりしない限りは…

梅雨さんも書いていた「彼も頑張っている」と…だから私も頑張ろうと思ったのであるが…

だから「人を呪わば穴二つ」の後に「闘い終わって?!」を書いたのである。

ほとんどが、速レス、即レス、直ぐレス的だった彼から「人を呪わば穴二つ」の後、レスが返って来ないのは、彼の「もうやめよう~」サインである事は、私にも想像出来たが…

それでも…『彼の理解は違う!私が期待している理解、私が求めている理解ではない!』、『私の理解している理解では無い!』、『私の理解の像とは違う!』…的な想いで「闘い終わって?!」を書き込んだのである。

その後の彼のレス(このレスに彼の努力を感じた…)、あれは、本当に「いい感じですね♪♪♪」だったのである。


さて、前置きはこれ位にして~今日の本題である「何だろう?このモヤモヤは?」についての記述を開始する。

先ずは、その構造である~「心のもやもやから頭のモヤモヤ、そして言葉に表された「像」へ、その過程的構造」である。

「心のもやもや」とは何だったのだろうか?

それは、あの「荒み感」、「荒廃感」だった…と言うより「荒涼感」の方がより近い表現のようである…

この全体的感じが「心のもやもや」だった…というより、この「荒涼感」として言語表現できるまでが、「心のもやもや」であり、あるのだろうか…

しかし、「荒涼感」と言う言葉で表現できた時点で、今度は、その「荒涼感」の原因は何か?となり、これは「頭のモヤモヤ」となるのだろうか…

その原因をあそこでは、「私のソクちゃん化…」と表現したが、これはこれで間違いとは言えないが…

その根本的私的原因は、私の中に、その「荒涼感」を感じとる感情が存在している事である。

この事は何となく感じてはいた。でも、このような言語表現に至っていなかった、というより彼に対して、この自分の原因を認めたくなかった、そのこれが「負けず嫌いな」私の長所(闘魂の源)であり短所(発展の障害)なのだろう…

前回の梅雨さんへ御手紙で以下のように書いたが、

そして~ここで得た結論は、ここには以下のように書いた。

① 相手を変える為に相手と関わる場合と、
② 自分を変える為に相手と関わる場合との、
2通りの場合が存在している、ということなのです。


①の「相手を変える為に相手と関わる場合」において、ここで必要なのは闘魂であり、私の「負けず嫌い」は長所として現象する。

しかし、②の「自分を変える為に相手と関わる場合」では、この「負けず嫌い」は、「彼」との関わりにおいては、自分の間違いを素直に認められないという短所として現象してしまう、のであろう(ここに嘉納治五郎の「負ける覚悟」が必要なのだろう)

因みに、梅雨さんへの御手紙後に気付けた事は以下であるが…

①は、いうなれば相手への技(言葉)の「使い方」であり、
②は、相手への技(言葉)を通して自己の認識を変え、その自己の言葉の「使い方」を変えてゆく過程。いうなれば「技の使い方を創る」過程なのであろう。


そろそろ結論である~「心のもやもや」は全体的感覚的感情的な「もやもや」であり、その全体的感覚的感情的な「モヤモヤ」を、自分自身がある程度、部分的に感じ取れるようになったが、言葉で表現出来ない時の「モヤモヤ」が、「頭のモヤモヤ」なのだろう~

ここで「彼」のレス(と新参者さんの現国発言とで)で分かった事は以下である。

個人の体験・経験を、そのまま言語表現した場合において以下のような危険が存在している、という事である。

認識において、自己の相手化が出来ていないのに、自己の自分化しか出来ていないのに…その自覚の無い人物、その無自覚な自分を認識出来ない人物(「無知の知」的理解の無い人物)は、その相手の、その経験・体験の意味を分かったつもりになってしまい、その自己の自分化の認識で、肯定・否定を繰り返してしまう、という事である。

この事は、赤裸々に書き綴った私の異常体験への彼の言説であり、その彼の言説への私の言説(私自身が自己の彼化が不十分だった事)に如実に表れている、と私は感じている。

それが「人を呪わば穴二つ」の記述であり、あの時の私の感情である。

あの時の私は、何故に「彼」が私の、あの赤裸々な体験・経験的記述を、私の期待している、私の意図通りに理解してくれないの!的な感情でいっぱいであった。それに対する「彼」の以下の指摘

>貴方は「私」という他人に対して「自分を変えろ」と要求するだけの「他人を変えたい欲求に包まれた人間」でしかありません。<

を読んだ時、私の中の闘魂がむらむらと湧き上がったのは事実でした。しかし、あの彼の言説の前半は、かなり私的に受け入れ易かったものであった事もあり、その彼の指摘を比較的冷静に以下のように受け入れられたのです。

 追伸~

>貴方は「私」という他人に対して「自分を変えろ」と要求するだけの「他人を変えたい欲求に包まれた人間」でしかありません。
   
↑これって~案外「的を得ている」のかも…この想いが無ければ、私はこんなにも貴殿と関わっていないのかも…この欲求が消えうせた時は、私と君の~バイ~バイ~の時なのかもね…~

 

このように、否定的感情を含んだ自己の認識を、その否定的感情部分を否定・無視して、その認識の中の肯定部分をみつめて、言葉にした時、自己のその認識は、その自己の言葉に規定されて変化するのだろう。それが私のこの「案外的を得ている」という表現なのである。

その後に気付けたのが上記の①であり、②である。

私の場合、憎き?「彼に」…ここまで書かれて、ここまで言われて、私の「負けず嫌い」の虫が、どれ程に怒り狂ったか!~

この事を、どれだけの読者に分かって頂けるか?!それは謎!であるが…その自己の怒り、荒れ狂う怒りの荒波に飲みこまれないよう~踏みとどまって上記の言説を書けた時、それは、ある意味自分の暗黒面を飲みこんで時、暗黒面をも自己化、一体化した時と書いて良い!と今、想っている私である…

それ以後の過程に、当然のように、梅雨さんへの御手紙での自己の認識の整え、「心に浮浪雲→心に積乱雲」様への御手紙書こうとの取り組みも存在していたが…

このように、私の中には「梅雨さん」的認識、「心に浮浪雲様」的認識、「S・Kさん」的認識、その奥には、「南郷継正」的認識、その奥にはさらに、「私の母」的「私の父」的、そして、今まで私の関わって来た人々、事物からの全てから、その全てを私的に受け入れ感じ考えた認識…等、それらの私の認識が存在しているのだろう…

これは目に見えず、感じる事も普通の人達には出来ない、と言うより、思いも考えもしない事なのだろう~

では何故に私は考え思い、そして、今の私の存在があるのか?

それは、『武道哲学』の全てを受け入れようと努力・頑張っているからなのだろう~か…さも無ければ…単なる壮大な妄想的想い込みなのだろう。
(こんな事は考えたくも思いたくも無いが…可能性は否定できないのだろう)

ここは「努力・頑張って」では無く、「真面目に」と書きたいところだが…

自分の「真面目」は、他人からの「真面目」とは限らないし、また自分は真面目だと思った瞬間に、その自分は真面目で無いような感じがして、書けないでいる。

ここでは、答は、やはり私的には、「押忍!一生懸命にやっています!」なのだろう~か…

しかし、数十年の昔に、私が初めて師範から
「真面目にやっているか?」と聞かれた時の私の返事、
「オッス!一所懸命やっています!」とは、言葉にしたら同じ表現であるが、その中身、その思いに想い感情、その構造、…全てが違っているのだろう~
 
その違いは、数十年前の私は「一所」懸命であり、今の私は「一生」懸命、と言う事ができよう~(ここをソクちゃんなら、ただの言葉遊びだろう!と書きそうだが…)

私自身の口から出た同じ言葉なのに、違っている…この意味を「彼」が分かる事が、出来るのは、いつの事なのだろうか…

私の影が、私の影で無くなる時が、もう~直ぐそこまで、迫っている、近付いている、ような~

そんな予感と、その~寂しく嬉しい、嬉しいのに悲しく淋しい~複雑な想い思い感情を感じ味わいつつ、それらの感情と共に…今日のところは擱筆しよう…




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