2013年04月23日 技としての言葉
「人間は自己の能力の範囲内でしか事物を理解できない」という言葉がある。
この意味は小学生でも分かるのだろう。
しかし、言葉の意味が分かったからといって、この言葉を常に適切に使えるとは限らない事を、
今回コメント欄での「彼」とのやり取りで分かる事ができた。
それは、どういう事か、というと以下のような事である。
私は『武道の理論』シリーズ、『武道講義』、『”夢”講義』、『武道哲学』…を読んで、そして人生での荒波に揉みくちゃにされながら、何回も「分かった!」、「達人になった!」、「悟っちゃった!」との過程的量質転化化の過程を経てきた。
その中でも今回の量質転化化は、かなりの変化を実感して、とんでもなく舞い上がって喜んでいた。
そんな中、「正規分布的過程の繰り返し」の実践の為に、『試行』に連載された『武道の理論』のコピーの再読を始めた。
今までもそうであったが、今回はより強烈に感じたのは、以前は読んでいながら、全く気付かなかった箇所に気付けた、という事であった。
そこに「人間は自己の能力の範囲内でしか事物を理解できない」という言葉の意味がより深く理解できた。
それは、私は今まで読んだ著書の内容を、私の能力の範囲内で理解してきていた。
そして、私が人生の中でその能力が高められた結果、その著書の理解度も増してきた、という事である。
逆から言えば、自己の能力を高めなければ、著書は正しく理解出来ない、という事なのだろう~
つい先日に歩きながら考えた事は、「私の今後の弁証法の発展とは?」であった。
この答は、実生活で更なる認識的発展をさせ、その認識で著書を読み込む事なのだろう~
その為には、「Chang of place」、「Chang of brain」なのだろう~
さて~さて~私の次なる人生のステージは、どうなるのだろう~
「どうなる」とは、何か人ごと、他人ごとのようだが…
今回はかなり真面目に書いたが…真面目に書いた故に、分かり難いものになっているようである…
自分で自分の事が良く分からない、と分かっていれば、まだ良いのだが…
多くの人達は、自分を、自分は、分かっている、と思っていても…実際は分かっていない事が多いのだろう~
これが「無知の智」なのだろう~か?
「人間は自己の能力の範囲内でしか事物を理解できない」~
この言葉は私にとっては、言葉という認識の形なのだろうか…
形を技にするには、先ずは形を「創る」ことから始めるのだろう~
言葉の場合は、先ずは、その言葉の裏にある、その認識を言葉にした、
その人物の認識を自分の認識化する事から始めるのだろう…か…
コメント欄
この記事へのコメント
自由びと氏、ラブラブといった気色の悪い冗談は大概にして、家族への愛情は嫁さんとご子息に注いであげて欲しい。
貴君は「能力の範囲内でしか相手を理解できない」という南郷氏の言葉を偉く気に入っているようだが、
それを文脈で理解しているのかな?
私の管見内ではその発言は『全集版・武道の理論』p110にある。曰く
>人間はその各人の理解できる範囲内でしか相手を、したがってまた事物を理解できない存在=認識的実在である。
これは南郷氏のいわゆる「武道とスポーツの違い」を説く部分で用いられたものだ。したがって、しっかり文章を読むならば
この「理解できる範囲内」とは「個々人の必要性」を意味している。
そして、この「似たような表現」は『武道の復権』p16にある。
>「人間は自己の能力の範囲内でしか相手を理解することができない」というが、まことにその通りである。そういった「おかわいそうな人々」に…
このときは、南郷氏に対して「能力ないのでは?」と言ってきた相手への反論として、明らかに敵意を込めて発言されている。
『武道の理論』で「必要なければ理解できないよね」くらいのニュアンスだったものが、
『武道の復権』では「お前は能力ないだろう」との敵意に変わっている。生きた人間であるのだからこれは仕方ないことであるが、
問題はこの「生きた思考の表現された言葉」を「真理の命題」であるかのように扱ってしまう自由びと氏の
「おかわいそうな」頭の中身である。
似たような言語表現であっても、前者は「スポーツしか知らないと目潰しとか想定できないでしょ?知らないと理解できないよね?」
くらいのニュアンスだが、後者は「能力なくちゃ理解できないよね?」との敵意・悪意が含まれている。
これを自由びと氏のように「絶対的な命題」であるかのように滑稽な理解をしてしまうと、
「理解するためにはその前に能力を高めなければ」となるし、理解させるために説明を施すこともなくなるだろう。
何しろ理解できないのは「能力がないから」なのだからwww 本来、塾講師としての職業上からも必要とされるのは
前者の「理解を促す知識の提供」であるし、そこに対峙されるのは『全集版・武道の理論』p90の
>「この学者連中、自分が書いた文章の論理性についてきっと自分自身にも、なんとも説明できないに違いない。人間の頭の中身にそう出来不出来があってたまるものか!」と。
ご覧のとおり南郷氏は「人間の能力に大して差はない」という発言と「あんた能力ないね」との矛盾したことを言っているが、
これはその時々の感情に任せた発言であるし、文脈で理解すれば可笑しなところはない。ただ、ひとえに自由びと氏のように
教条化するところに滑稽なる偏向が立ち現れる。
自由びと氏、自由びと氏の発言をみていると塾講師というのは落ちこぼれが適当にやっても務まる職業のように思えてしまう。
ラブラブとか気色の悪いこと言われたから去るよ。
Posted by at 2013年04月24日 01:00
ソク爺爺へ
「自由びと」に戻って嬉しいのだが…貴殿の呼称については、相変わらずの「お名前欄」未入力なので、私としては「ソク爺爺」と書くしかないので…悪しからず。
「ラブラブ」が気色悪いとは確かに、でも…玄和スレのあのエログロコぺに比べれば、まだまだ可愛いものでしょう~
貴殿の「能力の範囲内でしか相手を理解できない」(正確には「人間は自己の能力の範囲内でしか事物を理解できない」であるが)、の理解そのものが、貴殿能力の範囲内での、「この言葉」の理解である。
南郷氏の著書の中に書かれている言葉の数々は、いうなれば、その言葉の使い方であって、言葉を技として捉えた時の「創り方」ではないのである。
彼は、その時々の自己の認識を「この言葉」で表現したに過ぎないのである。
そして、私は私の能力の範囲内で理解できた「この言葉」を、私のその時々の認識に当て嵌めながら、試しているのである。
いうなれば、南郷氏の御著書の中の使い方レベルの言葉を、私自身で真似して使う事を通して、その言葉で表現された認識の実態を推測して、そして更に彼のその認識の実体に迫ろうとしているのである。
もっとも、これらの実践の全てが、私の能力の範囲内での試みに過ぎないが…
それでも、私では無い、その他人に近付こうとする試みは、私の能力の範囲を拡大してくれる可能性がある、と私は信じて実践している。
貴殿のコメントでの解説の数々、その努力には感謝と敬意を表するが…その努力では、対象を自己の能力の範囲内での批判・批評であり、「自己の能力の範囲内」での理解にさえなっていないようである(私の勝手な感想であるが…)。
貴殿の記述を読んでいて、少林寺拳法時代の技の練習・審査を想い出した。
個々の技の名称は想い出せないが、昇級審査の度に違った技・型を審査された。しかし、松濤館空手の審査では、平安初段から五段は何回も審査された、覚えがある。
得意技・必殺技は、一つあればよく、その一つを使って相手を倒せればよいのでしょう~
ただ…言葉は相手を倒す為のものでは無いので、一だけでは自己の認識を豊かに表現できないが…
それでも…言葉を「創る」場合と、言葉を「使う」場合の区別と連関は、怠りたくは無いもの…
そろそろ結論である~
南郷氏の言葉をお借りして書けば、今回の貴殿の記述は以下のように言えよう~
貴殿は、言葉を「創ろう」としている私、言葉の「創り方」として言葉を使っている私に、南郷氏の著書の中の、その言葉の「使い方」を示して、私を批判・批評と言うか、私を小馬鹿にして喜び、貴殿の虚栄心=ソク爺爺は凄いだろう!的心を満足させている。
これは、貴殿の能力の範囲内における貴殿の自己満足にしか過ぎない~単なる「骨折り損のくたびれ儲け」的言動なのだろう~
因みに、この記述も私の能力の範囲内での努力に過ぎないが…
最後に一言二言、どんなに鋭く抜群に切れの良いカミソリでも、大木は絶対に切れません。
私は、そんなカミソリよりも、大木をぶった切る大きく鋭い斧になりたい!
それより、超音波カッター、万能電磁ナイフ、チェンソー等もありますが…人間はヤッパリ身体を鍛えないとね…
>ラブラブとか気色の悪いこと言われたから去るよ。
↑バイ~バイ~また、私が忘れた頃にいらっしゃい!
そうそう~他人をあまり馬鹿にしない方がいいですよ!
他人を馬鹿にする事は、同時に自分は凄い的思いあがり的認識になり、思いあがっている人間は、自分の悪い所が見えなくなり、他人への思いやり、気遣い等を忘れ、周囲の人から、嫌われていきますよ…
ソク爺爺は孤独な爺爺では無いのですか?
そのソク爺爺の言説パターンが、ネット内だけである事を心より、冥福を祈って擱筆します(変な文章ですが…悪しからず勘弁を)。
さらば!しかして希望せよ!
ソク爺爺の真っ暗な長い道は、未来永劫、永遠に続くのだろう~
それでも…いつの日にか、救世主の出現が…それを切望せよ!ソク爺爺!