「信じる者は救われる」という話
上記の言葉をネット検索したら以下であった。
~~~転写開始~~~
「信じる者は救われる」は、聖書の言葉で、修行やお布施、巡礼をしなくても、イエス様を信じれば救われて天国に行くことができるという意味です。
聖書のローマ人への手紙 10:9-11 では、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と述べられています。また、マルコによる福音書 16:16-18 では、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とされています。
また、真言宗のお寺では、「信じるに足る教えかどうか。よくよく教えを知った上で、信じてみましょう。信じたなら、きっと救われます」と述べられています。
~~~転写終了~~~
さて~「信じる者は救われる」とは、聖書・宗教の言葉…という確認が得られた。
でも…宗教は、信じるだけで、救われるモノではない!
その信じた言葉通りの生き方が出来て初めて救われるモノだろう…
天国の存在を信じて、平穏・善良な人生を送れれば、幸せな人生。
地獄の存在を信じて、悪事をしない人生なら、それも平穏なモノだろう。
人類の原罪を信じて、悪事をしても…それは個人の責任ではなく、
人類的な私がしてしまうモノ…だから、私は悪くない・地獄へは行かない。
なんて~モノコトは考えようであろう。
さてさて…そもそも「信じる」とは何だろう?
例解国語辞典[第四版]によると~「信じるとは、本当だと深く思う事」。
↑だとするなら
「虚偽と確信している事を本当だと思える筈なし」-信じる事は不可能。
また、本当の事なら信じる必要なしー「本当だと強く思う必要なし」。
さすれば~「信じる事が出きるモノゴト」とは、虚偽の確信なし・本当だとう確信なし」の物事となろう。
更に「本当とは何だろう?」上記の辞書によると~
「本当とは、嘘や偽物だはない事。実際の事。事実である。」
事実とは、現実界で起こった事・起こっている事。
なので、人間の認識内の現実界の事実の記憶は、残念な事に「事実ではない」。
従って、ある人の事実の物事発言は、他人にとって、それを事実として認識可能とは限らない。
だから…そこに「信じる」事が必要であろう。
他人の語る事・語っている事が、自分にとっては、事実として認識不能な時・信じられない時…
その言った当人が「事実と確信している」モノでも…
自分には「その確信ができない」時、その言葉を「信じる」心が必要なのだろう…
その言葉を信じて御利益があるか・ないか…で信じる・信じないを決めるのも一法であろう。
最近の私が思った事は、
「天国・地獄」は兎も角…「あの世」の存在についてである。
元々私は神を信じる事はなかった。
ただ…子供時代にサンタさんへの御願いで、
「靴下の中に『身長を後10㎝伸ばして下さい』メモを入れた」事があるが…
最近は、「あの世」の存在を信じれば、
「死んだら家内に会える!」、「あってまた一緒に暮らせる」…
そんな希望が持てるから「あの世の存在を信じてみよう!」なんて…思っている。
そもそも…「あの世」の存在は、死人だけが、認識・確認可能であろう。
よく「死後の世界へ行った・を見た!」という体験談があるが…
それは虚偽であろう~
何故なら「真の死人なら生き返っては来ない。」
生き返ったという事は、「死んではいない事」になろう~
従って、「死後の世界・あの世」の存在は誰にも確認不能。
ならば、その「あの世・死後の世界」を信じる事で家内との再会が期待可能なら…
その事を信じた私は、現生に死後の希望が持てる事で「救われる」だろう。
どう~!
今回の「信じる者は救われる」体験談は???
>ブッタ
>・コメント
>自由びと氏のコメントを読んで、私なりに考えていることがあります。
↑
ブッダお宅の「下手な考え休むに似たり」ですね!
>それは自由びと氏の悩みというか思い患いは一口に言ったら「喪失感による悲嘆」ということかも知れませんね。
>「昔は高かった運動能力は今は失われている」だとか「いつも一緒に過ごしていた家内がもういない」とかの「喪失感」ですね。
↑
ヤッパリ下手な考えでしたね!
>そこを何とか埋めようとして一人で考え込むことで宗教だとか死後の世界だとかに繋がるみたいですけれど、それがイワユル「自動思考」というか「自然成長的」というか「喧嘩拳法的」ということみたいですよ。
↑
そのような考えは、ずっと昔からですよ!
ブッタお宅の「下手な考え」相手にするは「休むに似たり」ですから…
以下省略!
それは自由びと氏の悩みというか思い患いは一口に言ったら「喪失感による悲嘆」ということかも知れませんね。
「昔は高かった運動能力は今は失われている」だとか「いつも一緒に過ごしていた家内がもういない」とかの「喪失感」ですね。
そこを何とか埋めようとして一人で考え込むことで宗教だとか死後の世界だとかに繋がるみたいですけれど、それがイワユル「自動思考」というか「自然成長的」というか「喧嘩拳法的」ということみたいですよ。
私も心理ケアは専門ではないのですが、自由びと氏の喪失感は自由びと氏のほうの心・霊性の問題で、亡くなった奥さんのほうの問題ではないのでしょうね。臨床宗教師などが関わる宗教的な死後の世界だとかは、死に直面してこれから死んでいかなければならない人の心のケアであって、残された人のほうじゃないみたいです。
そうした大切な人を失った人がその後どうなるべきなのかは沢山の先達というか、立ち直って健康的に生きた人たちの事例があるみたいですから参考にされたらと思いますね。
それが、具体的な目的意識となるかも知れませんから。
私も自分の喪失感は自然成長的・喧嘩拳法的に独りで自分の中だけで解決してしまいましたけど、本当は失ってしまった悲しみを打ち明けて正面から受け止めて貰うことが心の回復への道のようです。
そうすれば、自分がどれほど嫁さんを愛していたのか、悲しんでいるのかを他者に認めて貰いたいというようなマズローの承認欲求のような段階を通り過ぎて、道を歩けば魅力的な異性は山ほどいるわけですから、あちらこちらに目が移り異性と関わるには契約が必要だという自然な状態に戻れるのではないかと思います。
軽薄な私?からの細やかな助言ですけどね。