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新・悟りを求めて~
自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…
矛盾から運動へ
2017-12-20 11:35:20
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想いのままに…
このブログの記事は抽象的な一般論的言説だらけだ!
言葉・記述としては、南郷継正のコピーに読めてしまう、のだろう…
そんな点を、毎回ソクラテスに突っ込み・突っつかれている!
だが…わたし自由びとは、
自己の頭脳内認識を動的・運動的・運動状態として、
表現でき得る、ような努力をしている!主観的に…
そう~
~多くの読者が、ここでの矛盾を運動に変換してくれるだろう~
…そのような客観的事実が、数多くあってくれる事を祈りつつ…
昨日は昨日で、明日は明日で、みんな今日のように書き続ける!
コメント (2)
始まりの始まりは?
2017-12-19 14:57:41
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想い思い考える
始まりは、「ある」かな?
それとも、「ない」かな?
世界の始まりが「ある」とするのが「観念論」、
世界に始まりが「ない」とするのが「唯物論」。
ならば、その始まりの前の始まり?
「ある」? or 「ない」?
私は、「ある」!と考える。
その理由は、全てが「ある」からである。
「ない」モノは、初めから「ない」から問題にならない。
「ない」が「ある」から、「ある」か「ない」か、の問題になる。
ここに、世界の始まりがある、とする観念論が、ある、
そして、世界に始まりがない、とする唯物論が、ある。
始まりを「ある」とする人もいれば、
始まりを「ない」とする人もいるから、
「始まりがない」という事が「ある」。
「始まりをない」とする人が「いない」なら、
「始まりがない」というモノは、初めから「ない」。
だから、全てに始まりが「ある」のであり、
そして、全ては「ある」から始まっている。
それは、「ある」事も、『ある』し…
そして、「ない」事も、『ある』という事、で【ある】。
全ての始まりは唯ひとつである。
それは「ある」から始まっている。
コメント
始まり?ひとつ?
2017-12-17 20:03:33
|
想いのままに…
ヘーゲル哲学は、初めに絶対精神ありき…
その前の始まりは?
南郷継正は、初めに今の自分に満足できない己ありき…
その前は?
では、自由びとの始まりは、どこか?
悟りたい自分に気付いた己なのだろうか?
ならば、世界の始まりは?
では、弁証法の始まりは?
弁証法の始まりはゼノンの絶対矛盾、だと誰かが書いている。
その絶対矛盾って?
それは、運動を言葉で表現しよう、としたモノ!?
南郷継正は、書いている。
言葉は、認識の表現である。
認識は、頭脳内に蠢いている像である。
蠢いている頭脳内の像を言語化したモノが言葉である。
認識の言語化の為には、像の蠢きを止める必要がある。
認識・像の蠢きを止めたら、運動体ではなく、静止体である。
静止体の言葉で運動体の運動を表現しようとする事が矛盾。
弁証法とは、静止体の言葉で運動体の運動の表現である。
しかも、運動体の運動の法則化の為の方法であり、結果的な法則でもある。
植物の変化・運動と自然の変化・運動は違っている。
自然の変化・運動と社会の変化・運動は異なっている。
自然の、社会の、精神の…変化・運動も当然に異なっている。
それでも、みんなひとつの変化・運動としての弁証法なのである。
部分的変化・運動の法則化も弁証法なら、
全体的変化・運動の法則化も弁証法だとするなら、
その弁証法って何なのだろう?
部分的な運動法則と全体的な運動法則が同じモノなのだろうか?
部分と全体が異なっているのは当然・必然である。
なのに、それらを、同じひとつの「弁証法」という言葉で表現している。
弁証法という言葉はひとつ。
そして頭脳内の弁証法像もひとつ。
でも、ひとつの弁証法像・認識が対象に対応して自在自由に変化・運動する。
ひとつ実体で無限の変化・運動が可能なのが弁証法像・認識なのだろう?
その無限的変化・運動像を言語化すれば、これまた無限的な言語表現となり得るのかな?
コメント (44)
「違和感」について…
2017-12-13 14:31:10
|
想い思い考える
コメント欄に頂いた以下のコメントを読んだ。
by tada氏
>南郷弁証法には 相変わらず 違和感を感じます。
by 青龍氏
>自身は弁証法と聞くと心が踊ります。
<ただ、自身にとっては弁証法=南郷継正なので、
>「南郷弁証法に違和感」とのtada氏の言(として引用されている)に、
>強烈な違和感を感じてのコメントでもあります。
そして上記の御二方のコメントに全く違和感を感じなかった私…。
さてさて~この「違和感」って何なのだろうか?
私にとっての違和感とは~
例えば、ある人に今日会って違和感を感じた…
そこで、「髪の毛切った?」と尋ねたら、「うん!」と返ってきた。
なるほど…違和感の原因は、
私の記憶の中の髪型と現実の髪型の不一致によるちょっとした落ち着かなさ…
そんなモノを「違和感」と思っていたが~
一般的な意味を知りたく、辞書を引いたら以下であった。
例解新国語辞典―第二版―
違和感~人や周りとしっくりせず、落ち着かないちぐはぐな感じ。
広辞苑ー第四版―
違和感~ちぐはぐな感じ。
大辞林
違和感~周りのものとの関係がちぐはぐでしっくりしないこと。
因みに例解新国語辞典での
「ちぐはぐ」とは、うまくそろわないで、くいちがったり、調和がとれない。
ここで分かった事は、
私の「違和感」と、辞書的意味の「違和感」の違いである。
弁証法と言えば、南郷継正の弁証法しか知らないに私にとって、
他の弁証法と比べても、全くの違和感はない。
というより、他の弁証法が南郷継正のモノに収まってしまう、のである
というか…他の弁証法を知らな過ぎなのかも?…
ならば、私同様に否!私以上に南郷継正の弁証法を知り得ているだろう青龍氏が「違和感」を感じたのは何故なのだろうか?
多分…それは以前の私が感じていた『あの感じ』なのかも…
その『あの感じ』とは、
『絶対的に正しいのに…なんで違和感を感じるの?あり得ないしょ!』
でも…今の私には理解可能です。
姿形の見え難い弁証法は、人によって見える姿形が違ってしまう。
観念的実体は一つでも、その観念的実態は様々。
更に現象形態は千差万別であり、その上、弁証法にも弁証法性があり、
時代と共に歴史的に変化・変遷している…なんて…
私って本当に…南郷継正の弁証法を分かっているのだろうか?
現実世界に弁証法はなく、
ただただ変化・運動し続ける森羅万象がある、のである。
そんな森羅万象を観念的に一つにしようとする時、
そこに、弁証法が観念的に実体化する、のだろう。
コメント (23)
弁証法について想う
2017-12-10 10:00:28
|
想いのままに…
Tadaさんは言っている~
「南郷弁証法には 相変わらず 違和感を感じます。」と…
南郷氏は書いている~
「弁証法には、弁証法性がある」と…
私は想う…
『弁証法とは?』と~、
『弁証法の弁証法性とは?』と~
子供時代の私は、周囲の人々の話を素直に聴けていた。
還暦を過ぎた私は、いちいち人の言った事に反感を抱いてしまっている…
それは何故なのだろう?
自我の未熟・未形成時代は、他人の言葉・行動に従っていても違和感はなかった。
しかし、自我が確立した私は、その自我に従って自らの意志で行動してしまう。
それはそれで間違いない…のだろう。
しかし…目的が眼前の問題解決であるなら、己の自我を滅し・無視して、素直に他人の言葉を聴くことも重要な手段である筈なのに…
弁証法修得のカギは、外界との相互浸透である。
それも、弁証法的相互浸透である。
「唯の相互浸透」と「弁証法的相互浸透」の区別と連関は?
それは、
眼前の対象とだけの相互浸透と
眼前の対象を通して世界と相互浸透の違いである。
眼前の対象の変化・運動との相互浸透を通して、
その背後にある世界の変化・運動性と相互浸透するのが、弁証法的相互浸透なのだろう…
人類が、自然しか見えなかった頃…
徐々に、社会が見え始めた頃…
そして、精神が見え始めた頃…
人類にとっての相互浸透する対象が変化する事で、
弁証法の内実・中身も変化してきたのだろう…
コメント (10)
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