続・「他由と自由について~」
前回の<「他由」と「自由」について~>の思考は、少々足りなかったようだ…
そこで、今回は続編として、再思考する事にした。
そもそも…前回は、戦争における国家レベルの思い「他由」と国民レベルの思い「自由」の比較がマズかった…ようである。当初から「他由と自由」を分けて思考を開始したたから…であろう。
では…どこから始めれば上手いのか?
それは、人間の「赤子」からであろう。
人間の「赤子」は、言うなれば「本能の塊」。
快不快の感覚が本能的なら、その不快の解消法も本能的…
しかし…人間の大人は本能レベルの快不快は持ち続けていても…
その解消法は社会的(非本能的・躾・教育的)。
赤子は、その誕生直後に、
その時代・場所での「不快感の社会的な解消法」を周囲から躾けられ始める。
この周囲の躾は、(まだ自我のない)本能的な赤子には、
言うなれば訳も分からずの「他由」の押し付けであろう。
そして、その赤子⇒乳児⇒幼児へと成長過程で、自発的に「社会的な解消法」に従えるようになり得た時、その「他由」だったモノが「自由」へと量質転化化した…言えよう。
「戦争と戦争責任」・「国家的・国民的・個人的」についても再考した…
徴兵制で、国民の参戦が義務化(他由)であっても…
その参戦・不参戦の決定するのは、国民の自由(意志)。
参戦・兵隊へ行くのも「自由」から、行方をくらまして逃げるのも「自由」。
国家の「他由」を強制されても、それに反発する自由・意志はあり得る。
参戦するのも「自由」なら「逃亡・脱走兵」も「自由」。
ただ…国家意志・法律に反する国民・個人的な「自由」行為・行動の結果には、国家的な処罰がある、…というだけであろう。
本来の戦争責任は、戦争を決定した最高責任者が負うべきモノであり…
直接戦争を指揮した者達の責任だけではない…のに…
それでも…最高責任者が責任を取ったら…
その国家は、国家として存続可能であろうか…という問題が…
だから…
今回の私の精神活動である「自由について」の思考の上記のような発展…
そのキッカケは、弥勒お宅の「他由」という言葉・概念の提示があった事であり、
「他由」と「自由」を相対的独立的思考から、対立物の統一的思考へと、
私が発展的に思考させた結果であろう。
個体としての人間の始まりは、ひと的な本能レベル「赤子」から…
人類の始まりなら、人類以前のサル類から、
国家の始まりなら国家以前の原始共同体から…
モノコトは、そのモノコトの生々(生成)から始める方が、
思考・精神活動が、より深く・広く・豊かに展開可能であろう。
ただ、その思考の展開・活動(正確さ)は、現在の私が持ち得ている(正確な)知識の範囲であろうが…
それでも…このブログでは、
私に比べて非常に知識豊かな弥勒お宅の反論・異論・暴論・罵倒・侮辱…のお蔭で…
私は、私の実力以上(私の範囲以上)の思考・精神活動の発展・展開をし得ている、ようである…