「知識⇒智慧⇒知識」について…
更に正確な言語表現なら~
過去の知識⇒智慧・叡知⇒現代の知識⇒知識・叡知⇒未来の知識⇒…
以下のような、昨日のコメント欄への私の記述~
「何か?が変わる! (自由びと)」 2024-04-04 12:42:21
>コメントを書いた人
>弥勒
・>コメント
>カテゴリーで区別するから「類推」という他の事実・他の事例で考えることができるわけで、それを「森羅万象」のままの「全て」だけでは何も分からないと思いますよ。
↑
確か、この「森羅万象」から「万物」という言葉を見た・読んだ・認識しただけでは「何も分からない」のでしょう。
それでも、初めて、この「森羅万象」という言語表現を可能にした人物の認識・過程…
そして、そこから「万物」という言語表現をした人物の認識・過程…
この二つの認識から言語への過程が思考可能で…それを体得可能になり得たから「何かが変わる」のでしょうね…
さてさて…その変わる「何か?」!とは、何!だろうか?
今朝ネット検索では以下のような事を知った。(知識を得た)
「しんら-ばんしょう【森羅万象】
天地間に存在する、数限りないすべてのもの(万物)や事象。▽「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶ意で、たくさん連なること。「万象」はすべての形あるもの、有形のものの意。「万象」は「ばんぞう」「まんぞう」とも読む。」
「万物(ばんぶつ)とは、宇宙に存在するすべてのものです。
「万物流転(ばんぶつるてん)」は、この世にあるすべてのものは絶えず変化し続けることを意味する四字熟語です。」
「万象(ばんしょう)とは、さまざまな形やあらゆる事物・現象を意味します。また、形あるすべてのものという意味もあります。」
上記の解説は、現代から解釈した「森羅万象」であり、「万物」であろう…
ここで、「森羅」とは、天地間に存在する、数限りないすべてもの。」
そして、「万象」とは、さまざまな形やあらゆる事物・現象を意味します。」
昨日までの私は、過去に南郷氏の言葉~
「人類の森羅万象から万物への認識変化には、数千年or数万年?…月日があった…」~
という記述を鵜呑みにしていた…
しかし、昨日、上記の以下のような弥勒お宅への私コメント~書いてから…
「
この二つの認識から言語への過程が思考可能で…それを体得可能になり得たから「何かが変わる」のでしょうね…」
「さてさて…その変わる「何か?」!とは、何!だろうか?」~…と書いてしまってから…
今朝、ネット検索して、「森羅万象」と「万物」の意味を再確認した。
そして…「万物流転」という、私の気に入っている言葉を思い出させてくれた。
この「万物流転」⇒「萬物流転」の四文字は、
母が他界した時、当時、読んでいた「弁証法はどういう科学か」から「萬物流転」頂いて墓石に刻み込んでいる。
今は、そこには、両親そして家内の御骨が収められている。
「森羅万象」は、「森羅⇒存在するモノ」、「万象⇒事物・現象」…
これは、「実体と機能」を別々に捉えた認識・概念。
「万物流転」は、「万物は流転する…」であり、
これは、「全ての物は変化運動して、コトモノ現象化」…
実体と機能を一つのモノとして把握している。
このような人類・文化遺産レベルの認識的な発展が「人類の叡知」とも言えるのだろう。
そんな私は、1983年の「玉川大学・文学部・教育学科・初等教育専攻の編入試験の面接での以下の質問。
「知識と智慧とは何?
当時の私は、「例えるなら、知識がパソコン(作り方?)、智慧がパソコンの使い方…」と答えたような記憶がある。
(と書いても…数週間前の私は、この面接時の私の解答を想い出そうとしても出来なかった…)
その時、面接官から、「それってハードとソフトの関係だね…」と言われ…
違和感を覚えた…(この事実数週間前にも思い出せていた)
今日は分かる!
パソコンの作り方は「知識」、パソコンのソフトプログラムの作り方・組み方の基本も知識。
でも…ここのハード・電子部品の知識から、初めてパソコン創出したモノの認識は智慧。
また、ソフト・プログラムの作り方・組み方の基本知識から、過去にないプログラムを作れた者の認識は智慧。
空手の技なら、
個々の基本技は、現代では知識、教えられた基本技の使い方も知識。
個々の基本技の意図的に駆使して、新たな使い方で対象に働き掛け、成果が得られた時、その者の認識が智慧。
知識は、人間が対象と関わって、その対象or働きを認識して、それを言語化できたモノ(言うなれば実態化できたモノ)
智慧は、人間が、対象の知識を駆使して、目的意識的に、対象を変化できた時の、その認識・過程…(言語化できるとは限らない)。
言語は認識でも、認識を必ず言語化でるとは限らない。
特に、感情的な認識の言語化は至難(人によっては…)
従って、ある者が、「自分の(智慧的)認識」を言語化出来た時、
それは、その者の「智慧」であっても、それを知った他人には「知識」。
これは、「知識と知恵の同一性」であろう、
あの人が表現した「智慧」は、他人には「知識」。
言うなれば、コインの裏と表。
書かれた文字が、知識or智慧かは、その者の認識による!
他人との「知識」の共有は、比較的簡単・可能でも…
その「智慧・認識像」の共有は、かなり難しく・至難。
更に書くなら、知識は、感情的認識があろうと、なかろうと…知識は知識。
しかし、「感情のない智慧」は、唯の知識!
逆なら説くなら、「知識」の感情化が、なされた時、その「知識⇒智慧」へ量質転化化~
これが、言うなれば、他人が措定された事柄表現の言語表現・知識を、再措定できたなら、それは「智慧」。