平成のトンネルを下るとそこは津市平木地区。
その途中で明治・昭和・平成のトンネルを見てきたわけで、
異空間に迷い込み秘境の雰囲気を楽しんでた自分がいました。
(よろしければご案内いたします(笑))
「伊賀街道」は伊勢國と伊賀國をまたぎ、津から長野峠(=橡の木峠)を越え、
上野に至る全長約12里(約50㎞)の街道、現在の国道163号線に沿うように通っています。
江戸時代の街道は、馬がやっと通れるくらいの細い峠道だったとか、
今も約2㎞にわたり、昔の峠道が残っているとのこと。(これは次の宿題に残しておく)
平木地区から一気に下って津市美里町の『長野宿』へ。
いつもなら通過するところですが、今回の長野峠越え目的の2番目に設定しています。
右の写真は「美里側から見た『長野宿』入口」付近。
遠くに雲に覆われる山々が峠越えしてきたところ、
この日は雨模様だったのでこれはこれで幻想的に見えました。
『伊賀街道』には4つの宿場が置かれていました。
伊勢國側に「長野・前田」の宿。
伊賀國側に「平松・平田」の宿。
『長野宿』には屋敷跡や「火除け土手」の名残りがあるとのこと。
その「火除け土手」って何?(※参考:三重を歩こう「美里ボランティアガイド会」)
「旧長野宿」の街道両側に石垣が積まれ、高さ4m、幅16m。
北側の土手は長さ24m、南側の土手は約17mあったとか。
現在では北側のみ土手の一部が残っています。
名残りの「火除け土手」を見た後、少し山側に上って「美里ふるさと資料館」で美里の全体像をジオラマで見、
昔の農山村の生活用具、今も残る「かんこ踊り」の紹介など見てました。
その次の目的、年末に読んだ新聞記事「辰水神社のジャンボ干支『龍』」が気になっていたので…
これは見ておかねばと、3月末までしか見られないらしいので話しのネタに(笑)。
ここは、津市美里町家所(イエドコロ)は美里町で最も大きな地区だそうです。
「ジャンボ干支」は、昭和61年から「ふるさと愛好家」の方々が製作、奉納。
近くの「生活福祉センター」に駐車して穴倉川沿いに歩くと
すでに目立っています(笑)
記事によると正月のお参り時期には「口から白い煙を吐いていた」そう。
「龍さん」をくぐって「家族円満、万民和楽、五穀豊穣」を願います。
そしてこの階段を・・・
かなり上った記憶ですが、高さはこの見晴しで想像していただくとして、
先客がおられたので「吽狛犬」さんと拝殿後方の「本殿」を。
ジャンボ干支の製作風景
最後に「手水の龍」さんと「ジャンボ干支の龍」さんで〆
詳しくは下記記事をお読みいただいて、
『2024年度辰水神社ジャンボ干支』&『歴代ジャンボ干支マップ』(観光三重レポートより)
私的に思い出すのが、去年、アサギマダラを見に行った時に見つけた「ジャンボ干支うさぎ」。(過去ログより)
年ごとにあちこち場所を変えて置かれているそうです、探す楽しみもあるかもですね。
今回のミニ紀行の大きな目的はもちろん「長野峠三代のトンネル」探し、
伊勢國側の「長野宿」散策、ジャンボ干支。
実はこれらは当日(2/25・日)の後半の記録で、
トンネル探しまでに伊賀國側「伊賀街道の宿場『平松宿』界隈を散策をしていました。
その様子はまた後で書くことにします。
この週末もあちこち出かけてしまったので、記録が追い付かなくなってきました💦
関西に春を告げる「東大寺お水取り」、正式には「修二会」(シュニエ)といいます。
その「お水取り」の『松明』(タイマツ)は、名張赤目の一ノ井で作られ、運ばれています。
そんなお話を聞きに名張へ、その道中記を次回に。
ではまた
その途中で明治・昭和・平成のトンネルを見てきたわけで、
異空間に迷い込み秘境の雰囲気を楽しんでた自分がいました。
(よろしければご案内いたします(笑))
「伊賀街道」は伊勢國と伊賀國をまたぎ、津から長野峠(=橡の木峠)を越え、
上野に至る全長約12里(約50㎞)の街道、現在の国道163号線に沿うように通っています。
江戸時代の街道は、馬がやっと通れるくらいの細い峠道だったとか、
今も約2㎞にわたり、昔の峠道が残っているとのこと。(これは次の宿題に残しておく)
平木地区から一気に下って津市美里町の『長野宿』へ。
いつもなら通過するところですが、今回の長野峠越え目的の2番目に設定しています。
右の写真は「美里側から見た『長野宿』入口」付近。
遠くに雲に覆われる山々が峠越えしてきたところ、
この日は雨模様だったのでこれはこれで幻想的に見えました。
『伊賀街道』には4つの宿場が置かれていました。
伊勢國側に「長野・前田」の宿。
伊賀國側に「平松・平田」の宿。
『長野宿』には屋敷跡や「火除け土手」の名残りがあるとのこと。
その「火除け土手」って何?(※参考:三重を歩こう「美里ボランティアガイド会」)
「旧長野宿」の街道両側に石垣が積まれ、高さ4m、幅16m。
北側の土手は長さ24m、南側の土手は約17mあったとか。
現在では北側のみ土手の一部が残っています。
名残りの「火除け土手」を見た後、少し山側に上って「美里ふるさと資料館」で美里の全体像をジオラマで見、
昔の農山村の生活用具、今も残る「かんこ踊り」の紹介など見てました。
その次の目的、年末に読んだ新聞記事「辰水神社のジャンボ干支『龍』」が気になっていたので…
これは見ておかねばと、3月末までしか見られないらしいので話しのネタに(笑)。
ここは、津市美里町家所(イエドコロ)は美里町で最も大きな地区だそうです。
「ジャンボ干支」は、昭和61年から「ふるさと愛好家」の方々が製作、奉納。
近くの「生活福祉センター」に駐車して穴倉川沿いに歩くと
すでに目立っています(笑)
記事によると正月のお参り時期には「口から白い煙を吐いていた」そう。
「龍さん」をくぐって「家族円満、万民和楽、五穀豊穣」を願います。
そしてこの階段を・・・
かなり上った記憶ですが、高さはこの見晴しで想像していただくとして、
先客がおられたので「吽狛犬」さんと拝殿後方の「本殿」を。
ジャンボ干支の製作風景
最後に「手水の龍」さんと「ジャンボ干支の龍」さんで〆
詳しくは下記記事をお読みいただいて、
『2024年度辰水神社ジャンボ干支』&『歴代ジャンボ干支マップ』(観光三重レポートより)
私的に思い出すのが、去年、アサギマダラを見に行った時に見つけた「ジャンボ干支うさぎ」。(過去ログより)
年ごとにあちこち場所を変えて置かれているそうです、探す楽しみもあるかもですね。
今回のミニ紀行の大きな目的はもちろん「長野峠三代のトンネル」探し、
伊勢國側の「長野宿」散策、ジャンボ干支。
実はこれらは当日(2/25・日)の後半の記録で、
トンネル探しまでに伊賀國側「伊賀街道の宿場『平松宿』界隈を散策をしていました。
その様子はまた後で書くことにします。
この週末もあちこち出かけてしまったので、記録が追い付かなくなってきました💦
関西に春を告げる「東大寺お水取り」、正式には「修二会」(シュニエ)といいます。
その「お水取り」の『松明』(タイマツ)は、名張赤目の一ノ井で作られ、運ばれています。
そんなお話を聞きに名張へ、その道中記を次回に。
ではまた
安芸郡とか懐かしい響きです、伊賀のお隣は津市であったり亀山市で、広すぎて困ること多々。
現代の公的発信情報、何かと綺麗なんですが昔の方が一生懸命さが伝わるというかほのぼの感満載な気がしますね。
moni5187様、貴重な情報いつもありがとうございます。
「インターネットアーカイブ」の Wayback Machine で、見ることが出来ます(^^;)。
↑使い方はネット上に色々とありますので、そのへん参照です。
https://web.archive.org/web/20050210225637/http://www.vill.misato.mie.jp/indexn.cgi
2005(平成12)年2月10日22時56分37秒に保存された美里村公式サイト。
あの長野峠を登るなんて無茶苦茶やと言うておられました。
自身は長野峠の下りを走ったと💦
どちらにしても超人的なことですよね。
dawnさま、コメントありがとうございます。
旧旧伊賀街道、少し残っているそうなのでいつか挑戦したいです(笑)。
長野宿に「伊賀屋」「伊勢屋」という旅籠が並んでいるのが面白いです。古文書を基にした貴重な看板だと思いました。
「伊賀街道」は全長約50㎞の街道とのことですが。20年ぐらい前に上野城から津城までの50kmを走る「藤堂マラソン」というのが開催されていたのを思い出しました。今は国道163号の交通量が増えて、開催は困難なのでしょう。