昨年8月3日にアップした記事の再録です。
『首都より帰省中の知人に興味深い冊子を借りました。
「街道いまむかし」という読売新聞社編の冊子で、これがなかなか面白い。
読売さんは連載物がお得意で、この手の記事でワタシはいろいろ勉強させてもらいました。
今回はたまたま「大山田の街道沿い(=伊賀街道)」に伝わるお話がいっぱい!
自分自身が訪れたことのある神社仏閣や石仏に勧請縄のことなど、興味は尽きません。
しばらく借りるつもりで、じっくり読みたいなと思っています。
連載期間は「平成元年11/14~2年5/20」だそうです、
なので実名や年齢など出ていることもありますが、約33年以上前のこととご理解くださいませ。
「平田の祇園祭」が行われるはずの7月の最終土・日曜日にココを訪問。
でも、賑やかなはずの「巡行」が執り行われることはなく、神社の儀式だけがひっそりと…
という状況でした。『疫病退散』を願うのはどこの神社も難しいらしく、
おまけに「祭」を持つ町村は限界集落化、少子高齢化甚だしく、祭りの担い手は年々少なくなり、
伝承することさえままならぬ事態。
わが住む上野のまちなかだって怪しげなもんです、、、大いなる「心配のタネ」です。
上の写真は、7/31夕刻の静かなる神社の境内の様子でした。(過去ログ「植木神社」)
さて、
『街道いまむかし』(読売新聞編)より
『大山田八景』より
≪明治時代に書かれた植木神社の祇園祭≫のようす。
すごく賑やかな祭りだというのがよくわかるし、
あの平田宿の街道が人で溢れかえっています。
【植木神社】(大山田平田)
見出しは『1100年続く祇園祭/楼車やミコシでにぎわう』
以下、掲載文転載です。(※「楼車」)
≪旧郷社で祭神が 健速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)など三十五を数える。
明治9年の「小祠小堂の合併の通達(=神社の合併政策)」以来、村内の小さな神社が合祀された。
氏子は当時593戸。(平成元年前後の数字と思われますが)
もとは出後(イズゴ)の清水谷にあったが、文永6年(1269)の大洪水に流され、現在地に移った、と伝えられる。
大山田村教委が保管している久寿2年(1155)の大般若波羅密多経に「殖木宮」の名前が出ており、神社の起源は古い。
久寿二年は、村出身の山田庄司行季の子孫、維行が平家の郎党として保元の乱(1156)を戦った前の年。
平家の後援で山田郡十か村の惣社(ソウジャ)として、清水谷から遷座したと大山田村史は推定している。
神社以上の歴史を誇るのが、毎年7月最後の土・日曜日に行われる「祇園祭」で、県の無形文化財に指定されている。
川口重正宮司(六)は「清和天皇の貞観11年(869) 「疫病退散の祇園会として始まったと伝えられ、
千百年続いていることになる。神社より古いわけで、これほど伝統を持つ保つ祭りは珍しい」と自慢する。
神社前に住む福山さん(当時46)は「祭りには上町、中町、下町の三台の楼車とミコシが出ます。
子供の花行列もあり、よそへ嫁に行った人もこの日ばかりは里帰りして祭りを楽しんでくれます。
通りの両側に屋台も出てにぎやかですよ」と話している。≫
ミコシ
花行列の時の「花」
本来なら、日曜日に「花行列」がお宮さん(植木神社)に戻ると、解体され配ってくれる(花奪い、とも)そうですよ、
その行事も今は神社の境内で鎮座するのみ、寂しいことですが、
よそもんとしては復活を願うばかり、、、
大変なことは承知のうえで無責任なことを書いていますが、
移住であれ、少子化対策であれ、お国の人はもっと地方を見やなアカンやろ!
と思うわけです…
「伊賀市の文化財」冊子より
こちらは「2019年の祇園祭の様子」、これまた少し若い知人のFBからお借りしました。
正真正銘「祇園祭」だよ。
そして、昨年のぎょんさん(地域の人はこう呼んでいるみたいです)の「お囃子」
2022/7/30大山田平田宿「祇園さんのお囃子」(上(東)町)
以上、再録。』
行ってみたいのですが…
『首都より帰省中の知人に興味深い冊子を借りました。
「街道いまむかし」という読売新聞社編の冊子で、これがなかなか面白い。
読売さんは連載物がお得意で、この手の記事でワタシはいろいろ勉強させてもらいました。
今回はたまたま「大山田の街道沿い(=伊賀街道)」に伝わるお話がいっぱい!
自分自身が訪れたことのある神社仏閣や石仏に勧請縄のことなど、興味は尽きません。
しばらく借りるつもりで、じっくり読みたいなと思っています。
連載期間は「平成元年11/14~2年5/20」だそうです、
なので実名や年齢など出ていることもありますが、約33年以上前のこととご理解くださいませ。
「平田の祇園祭」が行われるはずの7月の最終土・日曜日にココを訪問。
でも、賑やかなはずの「巡行」が執り行われることはなく、神社の儀式だけがひっそりと…
という状況でした。『疫病退散』を願うのはどこの神社も難しいらしく、
おまけに「祭」を持つ町村は限界集落化、少子高齢化甚だしく、祭りの担い手は年々少なくなり、
伝承することさえままならぬ事態。
わが住む上野のまちなかだって怪しげなもんです、、、大いなる「心配のタネ」です。
上の写真は、7/31夕刻の静かなる神社の境内の様子でした。(過去ログ「植木神社」)
さて、
『街道いまむかし』(読売新聞編)より
『大山田八景』より
≪明治時代に書かれた植木神社の祇園祭≫のようす。
すごく賑やかな祭りだというのがよくわかるし、
あの平田宿の街道が人で溢れかえっています。
【植木神社】(大山田平田)
見出しは『1100年続く祇園祭/楼車やミコシでにぎわう』
以下、掲載文転載です。(※「楼車」)
≪旧郷社で祭神が 健速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)など三十五を数える。
明治9年の「小祠小堂の合併の通達(=神社の合併政策)」以来、村内の小さな神社が合祀された。
氏子は当時593戸。(平成元年前後の数字と思われますが)
もとは出後(イズゴ)の清水谷にあったが、文永6年(1269)の大洪水に流され、現在地に移った、と伝えられる。
大山田村教委が保管している久寿2年(1155)の大般若波羅密多経に「殖木宮」の名前が出ており、神社の起源は古い。
久寿二年は、村出身の山田庄司行季の子孫、維行が平家の郎党として保元の乱(1156)を戦った前の年。
平家の後援で山田郡十か村の惣社(ソウジャ)として、清水谷から遷座したと大山田村史は推定している。
神社以上の歴史を誇るのが、毎年7月最後の土・日曜日に行われる「祇園祭」で、県の無形文化財に指定されている。
川口重正宮司(六)は「清和天皇の貞観11年(869) 「疫病退散の祇園会として始まったと伝えられ、
千百年続いていることになる。神社より古いわけで、これほど伝統を持つ保つ祭りは珍しい」と自慢する。
神社前に住む福山さん(当時46)は「祭りには上町、中町、下町の三台の楼車とミコシが出ます。
子供の花行列もあり、よそへ嫁に行った人もこの日ばかりは里帰りして祭りを楽しんでくれます。
通りの両側に屋台も出てにぎやかですよ」と話している。≫
ミコシ
花行列の時の「花」
本来なら、日曜日に「花行列」がお宮さん(植木神社)に戻ると、解体され配ってくれる(花奪い、とも)そうですよ、
その行事も今は神社の境内で鎮座するのみ、寂しいことですが、
よそもんとしては復活を願うばかり、、、
大変なことは承知のうえで無責任なことを書いていますが、
移住であれ、少子化対策であれ、お国の人はもっと地方を見やなアカンやろ!
と思うわけです…
「伊賀市の文化財」冊子より
こちらは「2019年の祇園祭の様子」、これまた少し若い知人のFBからお借りしました。
正真正銘「祇園祭」だよ。
そして、昨年のぎょんさん(地域の人はこう呼んでいるみたいです)の「お囃子」
2022/7/30大山田平田宿「祇園さんのお囃子」(上(東)町)
以上、再録。』
行ってみたいのですが…
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