いよいよ最終回、ざっとおさらい少し改稿編。
本日(3/5)は城下町西コース ↓ 『忍者市駅』からスタート。
マップと共に見上げる空はバッチリ!
赤い「マンサード屋根」を見上げ「ミジュマルのカラーマンホール」を見て、
南を見れば「駅ビル・ハイトピア」、ここは江戸時代「東大手門」のあったところ。
では、昔「外堀」だった道を西へ進みます、少し歩くと
『成瀬平馬家長屋門』、修理修復され「門」だけ残っていますが、
2017年に「伊賀市指定有形文化財」となっています。
藤堂藩城代家老に次ぐ要職「加判奉行(カハンブギョウ)」を務めたお家柄だそうです。
ここはいずれ「忍者体験施設」になるということですが…
何となく上を見上げる癖がついてしまった「鬼瓦と懸魚(ゲギョ)」。
それぞれの家の紋であり印であり個性があるので面白いかも…
(3枚目)一体これは何でしょう?
そのまま西へ、『鎌田製菓』で「かたやきの焼き風景」をみせてもらい、
『西大手門跡』を過ぎ、『旧上野警察署』へ。
明治初期には「東大手門」付近にありましたが、
昭和13年にこの場所に移築され、平成9年に「国の登録文化財」に。
この建物も「疑洋風建築」。
和洋折衷の建物ですが「釘」は一切使用していないとか…
そのまま北へ進むと通称(我々は子どもの頃から)『赤門』と呼んでますが、
『旧藩校 崇廣堂』、信号の右に見えるのが「御成門」。
お殿様がご入場される門です。
車で来られる時の「注意書き」、ぜひお守りくださいね。
今回はちょっと裏側を見てみたく、私的に奥へ行ってみました、
意外やいがい、まさかここで「蔵と梅」、もうすぐ咲き誇るかもです。
再び青空の元、見上げて「鬼瓦と懸魚」。
明治時代初期の写真(伊賀上野産業城の資料写真)では、
堀は埋められ、畑になり、西端に見えるのは「旧阿山高女(のちに崇廣中)」…
ワタシ中学生当時、まだ古い木造の校舎が残っていた記憶、
講堂も古かった、崇廣堂の名残だったのでしょうか。
『上野高校正門」前から「明治校舎」を覗く、
少し戻って「堀の道」を北へ、上野高校裏側、ここに「藤堂藩武器庫」。
上野高校の前身はこの武器庫が仮校舎だった、今は同窓会室。
「堀の道」沿いに西北の角、ここは『高石垣』撮影スポット。
ここから撮る「高石垣」は素晴らしい! 今日は撮りません(笑)。
お城へ上る北側の石段の途中から、左手側に昔「防空壕」があったところです。
子ども時代、男の子たちはよく探検に行ってましたね、今は埋められています。
ではいよいよ『伊賀上野文化産業城』へ。
今回は「お城の中」入ります、順に簡単に写真でご紹介。
「1階」は、武具甲冑類や(伊賀焼きの)古伊賀、現代作家の陶芸作品など展示。
ここで「伊賀上野産業城落成記念博覧会鳥瞰図」(昭和10年開催)を見ました。
※帰宅してから少し調べると
≪伊賀で三つの博覧会 by 伊賀上野ケーブルテレビより
「伊賀上野において今まで三つの博覧会が行われました。
①明治7年に行われた伊賀上野博覧会。
②昭和10年に開かれた伊賀文化産業城落成記念博覧会。そして
③昭和27年のこども博覧会です。(歴史街道HPより)≫
*㈱乃村工芸社HPもご参考にお読みください、当時の様子がよくわかります。*
(家人が幼いころ、この「こども博覧会に行った、ウォータースライダーが楽しかった」と自慢するのですよ(笑))
落成記念の「おしもんの型」であったり、
芭蕉さんの旅笠、これは「俳聖殿」の屋根の形を思い浮かべた「笠」ですね。
では「2階」へ、城下町の南の風景。
ここでは「藤堂家ゆかりの調度品」や
「川崎克氏関係の展示」をしています。
「日本100名城の写真」もあります。
さぁ「3階」は折り上げ格天井に数々の絵画など、
豪華な天井絵に「俳聖殿」も見え、四方山々も見えます。
駆け足の案内で申し訳ないのですが、
じっくり見に来ていただけることを願いつつ、
最後に「養成講座修了式」に参りましょう~~
お城下の広場にて
伊賀上野ICTで放送されるとか、ちょっとPR。
「伊賀上野パンフレット/令和版」(城内にて販売中、見ごたえありますよ@400)
めちゃくちゃ駆け足になっちゃいましたが、
改めて見所いっぱいの城下町だなぁと思いました。
こんなところを気軽にお散歩できることに感謝した次第。
的確なご案内はまだまだ日々精進ですが、
時折ご報告させていただきます、
ではまた。
本日(3/5)は城下町西コース ↓ 『忍者市駅』からスタート。
マップと共に見上げる空はバッチリ!
赤い「マンサード屋根」を見上げ「ミジュマルのカラーマンホール」を見て、
南を見れば「駅ビル・ハイトピア」、ここは江戸時代「東大手門」のあったところ。
では、昔「外堀」だった道を西へ進みます、少し歩くと
『成瀬平馬家長屋門』、修理修復され「門」だけ残っていますが、
2017年に「伊賀市指定有形文化財」となっています。
藤堂藩城代家老に次ぐ要職「加判奉行(カハンブギョウ)」を務めたお家柄だそうです。
ここはいずれ「忍者体験施設」になるということですが…
何となく上を見上げる癖がついてしまった「鬼瓦と懸魚(ゲギョ)」。
それぞれの家の紋であり印であり個性があるので面白いかも…
(3枚目)一体これは何でしょう?
そのまま西へ、『鎌田製菓』で「かたやきの焼き風景」をみせてもらい、
『西大手門跡』を過ぎ、『旧上野警察署』へ。
明治初期には「東大手門」付近にありましたが、
昭和13年にこの場所に移築され、平成9年に「国の登録文化財」に。
この建物も「疑洋風建築」。
和洋折衷の建物ですが「釘」は一切使用していないとか…
そのまま北へ進むと通称(我々は子どもの頃から)『赤門』と呼んでますが、
『旧藩校 崇廣堂』、信号の右に見えるのが「御成門」。
お殿様がご入場される門です。
車で来られる時の「注意書き」、ぜひお守りくださいね。
今回はちょっと裏側を見てみたく、私的に奥へ行ってみました、
意外やいがい、まさかここで「蔵と梅」、もうすぐ咲き誇るかもです。
再び青空の元、見上げて「鬼瓦と懸魚」。
明治時代初期の写真(伊賀上野産業城の資料写真)では、
堀は埋められ、畑になり、西端に見えるのは「旧阿山高女(のちに崇廣中)」…
ワタシ中学生当時、まだ古い木造の校舎が残っていた記憶、
講堂も古かった、崇廣堂の名残だったのでしょうか。
『上野高校正門」前から「明治校舎」を覗く、
少し戻って「堀の道」を北へ、上野高校裏側、ここに「藤堂藩武器庫」。
上野高校の前身はこの武器庫が仮校舎だった、今は同窓会室。
「堀の道」沿いに西北の角、ここは『高石垣』撮影スポット。
ここから撮る「高石垣」は素晴らしい! 今日は撮りません(笑)。
お城へ上る北側の石段の途中から、左手側に昔「防空壕」があったところです。
子ども時代、男の子たちはよく探検に行ってましたね、今は埋められています。
ではいよいよ『伊賀上野文化産業城』へ。
今回は「お城の中」入ります、順に簡単に写真でご紹介。
「1階」は、武具甲冑類や(伊賀焼きの)古伊賀、現代作家の陶芸作品など展示。
ここで「伊賀上野産業城落成記念博覧会鳥瞰図」(昭和10年開催)を見ました。
※帰宅してから少し調べると
≪伊賀で三つの博覧会 by 伊賀上野ケーブルテレビより
「伊賀上野において今まで三つの博覧会が行われました。
①明治7年に行われた伊賀上野博覧会。
②昭和10年に開かれた伊賀文化産業城落成記念博覧会。そして
③昭和27年のこども博覧会です。(歴史街道HPより)≫
*㈱乃村工芸社HPもご参考にお読みください、当時の様子がよくわかります。*
(家人が幼いころ、この「こども博覧会に行った、ウォータースライダーが楽しかった」と自慢するのですよ(笑))
落成記念の「おしもんの型」であったり、
芭蕉さんの旅笠、これは「俳聖殿」の屋根の形を思い浮かべた「笠」ですね。
では「2階」へ、城下町の南の風景。
ここでは「藤堂家ゆかりの調度品」や
「川崎克氏関係の展示」をしています。
「日本100名城の写真」もあります。
さぁ「3階」は折り上げ格天井に数々の絵画など、
豪華な天井絵に「俳聖殿」も見え、四方山々も見えます。
駆け足の案内で申し訳ないのですが、
じっくり見に来ていただけることを願いつつ、
最後に「養成講座修了式」に参りましょう~~
お城下の広場にて
伊賀上野ICTで放送されるとか、ちょっとPR。
「伊賀上野パンフレット/令和版」(城内にて販売中、見ごたえありますよ@400)
めちゃくちゃ駆け足になっちゃいましたが、
改めて見所いっぱいの城下町だなぁと思いました。
こんなところを気軽にお散歩できることに感謝した次第。
的確なご案内はまだまだ日々精進ですが、
時折ご報告させていただきます、
ではまた。
大きな画面で自分の住んでいる町の様子が映ることって初めての経験だったような…
元警察署は確かに旧北泉邸で、何かの折に一度だけ中に入れていただいたことがあります、猫ちゃんと一緒に住んでおられた記憶です。
保存修理などの話が進まないので今。何とかならないものかと、ちょっと心配しています。
なんたって城下町のランドマークである「お城」があるということにとても感動しています。
知れば知るほど川崎克翁に感謝です。
「木造です」と説明するだけでも感動されますが、
できることならお城にも入城していただき、なんでこのお城を建てようと思われたのか、その「理念」をやっぱりわかっていただきたい。
「弓と矢」が欄間のように飾られているその様を見て感じてもらいたいと思うようになりました。
その時に、やっぱり説明できる人が必要かもしれないとも思っていますが…
改札から玄関まで撮影用のレールが敷かれていて、栗原小巻を見たかは覚えておらずです。
近年になり、原作は伊賀上野(街)の北泉優子さんで、そういうことだったのかと知りました。
改築前の上野映劇で封切りされたはずで、新天地に行った時前を通ったような気がします。
上野城が建設された当時の川崎克氏による「攻防策戦の城は滅ぶ時あるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」という理念は、とても意義深いです。こんな素晴らしい思想をもったお城は他にないように思います。