「開運招福 伊賀七福神めぐり」(web情報youより)という企画に参画しちゃいました。
「七福神めぐりチラシ」「ご朱印帳」「ご案内」など
ここで少し皆様にご紹介を…
伊賀上野城下町、「小玉町の七福神」があるということ。
古くから伊賀上野城下町にお住まいの方はご存知かもしれませんが、
小玉町は「印・三社の託宣(サンシャノタクセン)」と「だんじり・小蓑山(コミノヤマ)」があり、
そして過去には、「宝船と七福神」の練物が「上野天神祭」の行列に参加していた町です。
現在では行列に参加することはほぼないのですが、
「小玉町の蔵」にはまだ「宝船」や「七福神の面・衣装」などは残っており、
「印と七福神」が同居(七福神蔵)してるらしく、
「だんじり」は単独(だんじり蔵)で収納されているようです。
(むらい萬香園ご主人のお話による…)
ここで、「冊子『上野天神祭だんじり・おに』」(上野文化美術保存会発行)より抜粋
※『小玉町の七福神』について
上野天神祭にくり出す七福神には、寛延年間(1748~1751) 高井五兵衛(友月)が、
京都の供物練物の七福神にならって自ら仮面を作成したという逸話が残っています。
宝暦元年(1751)以来、小玉町が七福神の練物を祭礼の供奉にくり出すことになったとも記録にあり、
約270年の歴史がしのばれます。
『小玉町七福神踊り』について
七福神踊りの初期の踊りは〈七福神〉を踏襲して踊っていましたが、
昭和の初めに作詞家 西条八十氏を当市に迎え、長唄風に従来の歌詩を改作し、
踊りは花柳流を継承、現在に至っています。
この七福神も上野天神祭当日の行列に参加していましたが、
現在では行列に参加することは珍しくなっています。 ※
いつの頃だったか、「七福神踊り」を見せてもらった記憶があり、
何の機会だったか、遠い昔の「祭りの記憶」だったか忘れましたが、
とても楽しい踊りで、それぞれの「神様」に合わせたユニークな振り付けだったと覚えています。
そんなこんなの由縁があって、若者たちが考えたこの「伊賀七福神めぐり」企画に
参加してみようと思い立ったわけです。
※【七福神】とは、(上記冊子より)
七福神は、古くから日本の民間信仰の対象とされた幸福をもたらす神々です。
恵美須・大黒天・福禄寿・寿老人・布袋・弁財天・毘沙門天の七柱を指します。
恵美須は「夷」「蛭子」とも書き、家業を護り福利をもたらす神です。
元来生業(なりわい)の神であり、農村では田の神、の漁村では大漁の神とされます。
大黒天はインドの摩訶迦羅(マハカラ)天が変化して伝わったものです。
もとは三宝を守り飲食を司る戦闘の神でしたが、南中国の諸寺で台所の神となり、
日本に入って農産、福徳の神である大国主命(オオクニヌシノミコト)と習合しました。
福禄寿(外法ゲホウ)と寿老人は、中国の福徳、財産、長寿の神で、
南極寿星の化神とされます。
布袋は中国の唐代末から五代十国時代にかけての禅僧契此(カイシ)を表しており、
その独特の円満な風姿が喜ばれました。
弁財天はインドの水神で、音楽、弁才、財福、智徳を備えた天女の姿で信仰されています。
毘沙門天はインドでは仏法守護の四天王であり、「多聞天」とも呼ば れます。
甲冑を着けて北方を守る財施の神です。 ※
今日は、
チラシ裏面より
「七寺社」のご紹介まで。
追伸、(資料が見つかりましたので(笑))
「小玉町七福神」が最後に「上野天神祭」の供奉行列に参加したのは…
平成8年(1996年)
「上野天神祭冊子」より
この年は、小玉町さんが「1番くじ」(⇒だんじりの先頭)を引いたそうです。
「鬼行列」「七福神」「だんじり」の順に巡行したとのこと、
今、この資料をむらいさんから頂いて来ました(笑)。
これ以降、町民の数もどんどん減り、
「だんじり」と「七福神」二つの行列を出すことが困難になったようです。
何かおめでたいことがあった時など、単独イベントに参加することはあったけど
「上野天神祭」にはもう出られない と、寂しそうでした…
初冬の「伊賀七福神めぐり 七寺社参り」は、また次回から…
「七福神めぐりチラシ」「ご朱印帳」「ご案内」など
ここで少し皆様にご紹介を…
伊賀上野城下町、「小玉町の七福神」があるということ。
古くから伊賀上野城下町にお住まいの方はご存知かもしれませんが、
小玉町は「印・三社の託宣(サンシャノタクセン)」と「だんじり・小蓑山(コミノヤマ)」があり、
そして過去には、「宝船と七福神」の練物が「上野天神祭」の行列に参加していた町です。
現在では行列に参加することはほぼないのですが、
「小玉町の蔵」にはまだ「宝船」や「七福神の面・衣装」などは残っており、
「印と七福神」が同居(七福神蔵)してるらしく、
「だんじり」は単独(だんじり蔵)で収納されているようです。
(むらい萬香園ご主人のお話による…)
ここで、「冊子『上野天神祭だんじり・おに』」(上野文化美術保存会発行)より抜粋
※『小玉町の七福神』について
上野天神祭にくり出す七福神には、寛延年間(1748~1751) 高井五兵衛(友月)が、
京都の供物練物の七福神にならって自ら仮面を作成したという逸話が残っています。
宝暦元年(1751)以来、小玉町が七福神の練物を祭礼の供奉にくり出すことになったとも記録にあり、
約270年の歴史がしのばれます。
『小玉町七福神踊り』について
七福神踊りの初期の踊りは〈七福神〉を踏襲して踊っていましたが、
昭和の初めに作詞家 西条八十氏を当市に迎え、長唄風に従来の歌詩を改作し、
踊りは花柳流を継承、現在に至っています。
この七福神も上野天神祭当日の行列に参加していましたが、
現在では行列に参加することは珍しくなっています。 ※
いつの頃だったか、「七福神踊り」を見せてもらった記憶があり、
何の機会だったか、遠い昔の「祭りの記憶」だったか忘れましたが、
とても楽しい踊りで、それぞれの「神様」に合わせたユニークな振り付けだったと覚えています。
そんなこんなの由縁があって、若者たちが考えたこの「伊賀七福神めぐり」企画に
参加してみようと思い立ったわけです。
※【七福神】とは、(上記冊子より)
七福神は、古くから日本の民間信仰の対象とされた幸福をもたらす神々です。
恵美須・大黒天・福禄寿・寿老人・布袋・弁財天・毘沙門天の七柱を指します。
恵美須は「夷」「蛭子」とも書き、家業を護り福利をもたらす神です。
元来生業(なりわい)の神であり、農村では田の神、の漁村では大漁の神とされます。
大黒天はインドの摩訶迦羅(マハカラ)天が変化して伝わったものです。
もとは三宝を守り飲食を司る戦闘の神でしたが、南中国の諸寺で台所の神となり、
日本に入って農産、福徳の神である大国主命(オオクニヌシノミコト)と習合しました。
福禄寿(外法ゲホウ)と寿老人は、中国の福徳、財産、長寿の神で、
南極寿星の化神とされます。
布袋は中国の唐代末から五代十国時代にかけての禅僧契此(カイシ)を表しており、
その独特の円満な風姿が喜ばれました。
弁財天はインドの水神で、音楽、弁才、財福、智徳を備えた天女の姿で信仰されています。
毘沙門天はインドでは仏法守護の四天王であり、「多聞天」とも呼ば れます。
甲冑を着けて北方を守る財施の神です。 ※
今日は、
チラシ裏面より
「七寺社」のご紹介まで。
追伸、(資料が見つかりましたので(笑))
「小玉町七福神」が最後に「上野天神祭」の供奉行列に参加したのは…
平成8年(1996年)
「上野天神祭冊子」より
この年は、小玉町さんが「1番くじ」(⇒だんじりの先頭)を引いたそうです。
「鬼行列」「七福神」「だんじり」の順に巡行したとのこと、
今、この資料をむらいさんから頂いて来ました(笑)。
これ以降、町民の数もどんどん減り、
「だんじり」と「七福神」二つの行列を出すことが困難になったようです。
何かおめでたいことがあった時など、単独イベントに参加することはあったけど
「上野天神祭」にはもう出られない と、寂しそうでした…
初冬の「伊賀七福神めぐり 七寺社参り」は、また次回から…
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