忍者回廊巡り 真っ最中! その11-2 千賀地氏城跡(伊賀市予野)へ

2020-07-13 09:27:28 | 伊賀忍者回廊巡り
念願かなって行きました。(訪問日:2020/7/11 16:00~)
これも「忍者回廊巡り」をしているおかげかな
ネット散策資料によりますと
≪千賀地氏城(ちがちしじょう)は、東西に丘陵が迫る千賀地谷(近地谷)の中にある予野地区、
地区の西側の丘陵には土豪の城が三城 〔木原氏城・浅井氏城・千賀地氏城〕あり、
千賀地氏城が地区の公園として整備されていて一番遺構が見やすい城≫とのこと。

ワタシの長女は爺様に連れられて行ったことがあるのに…ワタシは初見参!という場所です  

一人で行くにはなんとも心もとないので、親せきの叔父さん(長女からみて(笑))に案内を乞う。(無理言ってすみませんでした)
国道368号線山出の信号から県道687号線を5分ほど走ると右側に小さな石碑 
車で走っていたら見落としてしまう、というか多分見えない
ワタシは車を親せきの家に止めて、歩いて行ったので見落とすことなく行けましたが…
上出小場(かみでこば・予野地区の中のこの在所の名前)の住民たちが作ってくれた道案内の道標、2代目だそうです。

順に案内があります
   
一株の紫陽花にホッとします、まだこの先階段があるので…
  
小場の人たちが“出合い”(奉仕作業などをする機会)で作り直してくれた階段を上ったら、1代目の道標見っけ

ここでも、自治協議会の説明版があります、そして見渡すと(野外ですけど)お部屋のようにもみえる…
整備されているということですね、年に2回は草刈りなどしてくれているそうなので
 

さて、恒例の案内板とクイズ
  

答:

クイズを解いて、振り返ってそのまま行くと
 
「服部半蔵 藤堂采女誕生の碑」
その奥に、藪(ひょっとして土塁?)を背にして


    
「天正伊賀乱横死者慰霊塔」(左)
    「藤堂采女供養塔」(真ん中)
    「服部半蔵故郷塔」(右)

資料によると、
≪南を除く三方に土塁が築かれ、更に北側の丘陵を堀切で切り離した縄張りとなっている。≫と書かれています。
ここは「砦」ではなく、やっぱり「お城」。
この時代、地方の土豪は、みな小さいながらも「城」(=一国一城の主だったわけです)を構えていたようです。
伊賀地方ではこの時代の城のことを「中世城館」とよび、研究書も出ています。
(あのブラタモリにも出演され「柏原城址」の説明をされていた福井健二氏が著者になります)
参考に「花垣地区の城」。


ちょっと長くなりますが、
【伊賀流忍者の里】とはなんぞや? 興味のある方はどうぞ
≪大和国と接する伊賀国は、古代より東大寺を中心とする南都の有力寺院の荘園が多く、中世に入ってからも、
有力な守護や地頭に支配されることがなく、また他地域のように強大な武家が勢力を伸長することもなかった。
このため、多数の土豪や地侍の群雄割拠状態にあった。
その頃彼らは、敵から自らを守るため独自の諜報術やゲリラ的な武闘術を編み出し、
それが伊賀流忍術、忍者の始まりと考えられる。

そして伊賀国には千賀地(旧姓・服部)宗家百地家藤林家上忍三家を中心とした、
伊賀惣国一揆と呼ばれる自治共同体が形成されていった。
ところが戦国時代になると、そんな伊賀惣国一揆も時代の波に洗われていく。
元々耕作地が狭いうえに忍家の組織の肥大化により財政的に逼迫したことで、
宗家の保長が室町幕府十二代将軍・足利義晴に出仕し伊賀を離れた(なお、この保長が初代服部半蔵で、
後に徳川家康の祖父・松平清康に仕え、その家督を継いだ次男・正成が家康の神君伊賀越え※で功をなし、
徳川家の隠密頭まで務めた二代目服部半蔵である
)。
そして伊賀惣国一揆を壊滅に追いやったのが、織田信長による二度にわたる伊賀攻め(天正伊賀の乱)であった。
(※伊賀越えのルートには諸説あり)
やがて時代が徳川の世へと移ると、生き延びた伊賀者は、神君伊賀越えの功績から伊賀組同心として
幕府に召し抱えられることとなる。
ちなみに、家康の命で伊賀に入った藤堂高虎は、
伊賀に残った忍家・忍者の勢力を巧みに温存する政策をとっている。
その一つが無足人制度(農兵)といわれるもので、彼らは俸禄を受けないが、帯刀が許される無足人として
武士と農民の間に位置づけた

そしてもう一つが、
伊賀国の執政を司る城代家老に、初代服部半蔵・保長の孫と伝えられる保田采女(改姓後は藤堂采女)を起用したことである。
築城技術ばかりが賞賛される高虎であるが、政治家としても超一流だったのである。≫(M-NETWORKより

また、こんな簡単な説明もあります~~
≪城跡には、服部半蔵の故郷塔がある。
服部半蔵正成は、本能寺の変の折、堺から三河へ逃げ戻る家康の「伊賀越」を助け、
江戸城(現在の皇居)にある半蔵門の名前の由来ともなった。
また、藤子不二雄Aの「忍者ハットリくん」の主人公、ハットリカンゾウは、
この服部半蔵の子孫という設定でもある。≫



案内板などができたおかげで、いろんな人たちが訪れてくれるようになった…のですが、
「訪問者の中には、マナーがね、、、」と思わずにはいられないような状況もあるそうです。 
この城址の周りはのどかな田園風景です。今は、紫陽花に目が喜んでいます。
   

あぁ、ワタシも気を付けないといけません、「来てやってる!」んじゃないですからね、
お邪魔させていただきます、失礼します、そして感謝の気持ちは忘れてはいけませんよね。

最後に、「比自山城」で伊賀の盆地が焼き尽くされたのを見て、忍者たちが逃げた先は「赤目柏原」辺りとか、、、
 千賀地城址の山道


現代の地図ですが確かにほぼ一直線で峠に沿って「予野・千賀地城」から「名張・柏原城」まで行けます・・・凄っ!!

さぁ、まだ行くよ・・・運命の出会い、なるか!

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