前回の続き。
中世欧州史を学ぶオーストラリア人ジョージの誘いで、プラハの街を散策する私。
もちろん、ふたりの共通語は英語だ。外国人とイングリッシュでコミュニケーション。ペリーによる強制開国以来の、日本国民の悲願である。それを易々とこなす私は、まさに21世紀に求められる日本人像であるといえよう。
などと東海林さだおさん言うところの「ドーダの人」となって、大いにに語ると、おいおいちょっと待て、そんなえらそうなことをいっているが、お前の英語力など全然たいしたことがないではないか。
超カタコトしか操れないのに、なにをぬかしとるのかという意見はあるかも知れないが、これに関しては昔の人はいいことを言ったものである。
それは、「語学は気合」ということなのである。
そう、言葉は気合と根性。間違うことを怖れぬドあつかましさがあれば、コミュニケートというのはできるものだ。知識のなさは、恥を気にしない「精神力」でカバーするのである。
無茶苦茶でも、とにかくしゃべる。そしたら、だいたいは通じるし、間違ったら訂正してくれる。それを恥ずかしがらないこと。これが鉄則。
「あなたに伝えたい、あなたの言うことを理解したい」という誠意と大和魂さえあれば、なんとかなるものです。
ということで、文法も単語もデタラメな独自仕様の「俺イングリッシュ」を縦横無尽に駆使し、それでそれなりにジョージと会話を楽しんでいたのであるが、カレル橋をわたり、プラハ城を観光し、戦争博物館を見学していたあたりから、ある問題が生じるようになった。
ジョージの英語が、やや聞き取りにくくなってきたのである。
会ってすぐのころは、私の英語能力に合わせて、ゆっくりと平易な英語を使ってくれていたジョージであるが、親睦の度合いが深まるにつれて必然、次第にくだけた口調になってきた。
いわば丁寧語でしゃべっていたのが、タメ口になったようなものだ。
それ自体は、「外人とこんなにフランクなオレ」として、国際人としてさらにランクアップでうれしいのだが、となると、当然使う単語も軽めのものになってくる。
何度聞き返してもわからない単語など出てきたりして、どうやらそれはスラングのようなのであった。仲が深まるのはいいが、そこまでフランクにされても、リンダ困っちゃうなのである。いわば、若者言葉についていけないオジサンのようなものだ。それはわからん。
ときおり、小粋なジョークでもはさんだのであろう、ジョージが一人アッハッハと爆笑するにおよんでは、こちらも愛想笑いを返すしかない。意味わからんけど。
加えて、だんだんとなまりの方もオープンになってきた。
オーストラリア人の英語といえば、なまっていることで有名である。
たとえば、オージーのあいさつはハローよりも「good day」がポピュラーだが、その発音は「グッドデイ」ではなく「グッダイ」。
また友だちをあらわす「mate」も、「メイト」でなく「マイト」だし、またこれはメルボルン出身のオージー独特らしいのだが(ジョージはメルボルンの人)、口をあまり開かずに、モゴモゴとしゃべるくせがある。
この「もごもごオージー・イングリッシュ」が、私のしょぼい英語耳では、だんだんと聞き取りにくくなってきているのだ。
もちろん、それはジョージが私に心をゆるしてくれており、素直にリラックスしているからこそ、お国が出てそうなるのだが、仲が近づけば近づくほど、どんどん彼の言っていることがわからなくなってくるというジレンマ。
おまけに、欧州史専攻である彼は、あこがれのプラハで歴史を語り、興奮してきたためか、どんどん早口になってくる。
合わせるように、話の内容もどんどんと学術的に深いものになってくるのだから、難易度も倍々ゲームで上がっていく。いや、英語でミラン・クンデラの話とかされても、まったくわかりません。
スラング、なまり、早口、そして内容はチェコとフランス文学の関わりについて。そんなもん、日本語でもついていけるかい!
もうここまでくると、完全に置いてけぼりである。ジョージのラピッドなオージーイングリッシュは、こちらの耳のどこにも引っかかることなく、春風のよう脳の言語機関を華麗にスルーしていく。
と、ここである、先ほどからあからさまに口数が少なくなってきた私に気がついたのであろう。ジョージは心配そうな表情で、
「You understand?」
「ボクの話、わかってる?」と聞いてきた。
ここが引け際だった。ジョージの気づかいを温かく受け取って、「ごめん、さっぱりや。もっとゆっくりしゃべってえ」とでもいえばよかったのだ。文法など適当で。
そうすれば、ジョージは再び気をつかって、再びペースを落として話してくれるであろう。
が、同時にガッカリもするだろう。これまで大いに盛り上がっていたと思っていた話が、すべて独りよがりの一方通行だったのだから。
嗚呼、日本人は思いやりの民族である。私は彼の、そんな落ちこむ姿は見たくなかった。
もう一度、「You understand?」と聞かれたところで、親指を立て会心の笑顔で、「Yes sure! very interesting!」(あたぼうよ!キミの話、とってもおもしろいね!)。
と答えてしまったのである。こういう態度が、日本人の悪いくせだよなあ。
それを聞いてジョージは「そうか、安心したよ、もしかしたらボクの話を理解してないんじゃないかって思ってね。キミの英語力を疑って悪かったよ」
と、笑顔を向けてきて、会話の内容はますます学術的で難解になり、なまりもきつくなり、時には小粋なオージージョークも飛び出し、そのたびにあいまいな日本の私は、
「oh!」「interesting」「I think so」「You funny! hahaha!」
などと適当な相づちを打ちながら、「日本の英語教育がどう改善されても、結局のところなまりや口語に関しては無力だよなあ」
と、教育の未来について思いを馳せたのであった。
中世欧州史を学ぶオーストラリア人ジョージの誘いで、プラハの街を散策する私。
もちろん、ふたりの共通語は英語だ。外国人とイングリッシュでコミュニケーション。ペリーによる強制開国以来の、日本国民の悲願である。それを易々とこなす私は、まさに21世紀に求められる日本人像であるといえよう。
などと東海林さだおさん言うところの「ドーダの人」となって、大いにに語ると、おいおいちょっと待て、そんなえらそうなことをいっているが、お前の英語力など全然たいしたことがないではないか。
超カタコトしか操れないのに、なにをぬかしとるのかという意見はあるかも知れないが、これに関しては昔の人はいいことを言ったものである。
それは、「語学は気合」ということなのである。
そう、言葉は気合と根性。間違うことを怖れぬドあつかましさがあれば、コミュニケートというのはできるものだ。知識のなさは、恥を気にしない「精神力」でカバーするのである。
無茶苦茶でも、とにかくしゃべる。そしたら、だいたいは通じるし、間違ったら訂正してくれる。それを恥ずかしがらないこと。これが鉄則。
「あなたに伝えたい、あなたの言うことを理解したい」という誠意と大和魂さえあれば、なんとかなるものです。
ということで、文法も単語もデタラメな独自仕様の「俺イングリッシュ」を縦横無尽に駆使し、それでそれなりにジョージと会話を楽しんでいたのであるが、カレル橋をわたり、プラハ城を観光し、戦争博物館を見学していたあたりから、ある問題が生じるようになった。
ジョージの英語が、やや聞き取りにくくなってきたのである。
会ってすぐのころは、私の英語能力に合わせて、ゆっくりと平易な英語を使ってくれていたジョージであるが、親睦の度合いが深まるにつれて必然、次第にくだけた口調になってきた。
いわば丁寧語でしゃべっていたのが、タメ口になったようなものだ。
それ自体は、「外人とこんなにフランクなオレ」として、国際人としてさらにランクアップでうれしいのだが、となると、当然使う単語も軽めのものになってくる。
何度聞き返してもわからない単語など出てきたりして、どうやらそれはスラングのようなのであった。仲が深まるのはいいが、そこまでフランクにされても、リンダ困っちゃうなのである。いわば、若者言葉についていけないオジサンのようなものだ。それはわからん。
ときおり、小粋なジョークでもはさんだのであろう、ジョージが一人アッハッハと爆笑するにおよんでは、こちらも愛想笑いを返すしかない。意味わからんけど。
加えて、だんだんとなまりの方もオープンになってきた。
オーストラリア人の英語といえば、なまっていることで有名である。
たとえば、オージーのあいさつはハローよりも「good day」がポピュラーだが、その発音は「グッドデイ」ではなく「グッダイ」。
また友だちをあらわす「mate」も、「メイト」でなく「マイト」だし、またこれはメルボルン出身のオージー独特らしいのだが(ジョージはメルボルンの人)、口をあまり開かずに、モゴモゴとしゃべるくせがある。
この「もごもごオージー・イングリッシュ」が、私のしょぼい英語耳では、だんだんと聞き取りにくくなってきているのだ。
もちろん、それはジョージが私に心をゆるしてくれており、素直にリラックスしているからこそ、お国が出てそうなるのだが、仲が近づけば近づくほど、どんどん彼の言っていることがわからなくなってくるというジレンマ。
おまけに、欧州史専攻である彼は、あこがれのプラハで歴史を語り、興奮してきたためか、どんどん早口になってくる。
合わせるように、話の内容もどんどんと学術的に深いものになってくるのだから、難易度も倍々ゲームで上がっていく。いや、英語でミラン・クンデラの話とかされても、まったくわかりません。
スラング、なまり、早口、そして内容はチェコとフランス文学の関わりについて。そんなもん、日本語でもついていけるかい!
もうここまでくると、完全に置いてけぼりである。ジョージのラピッドなオージーイングリッシュは、こちらの耳のどこにも引っかかることなく、春風のよう脳の言語機関を華麗にスルーしていく。
と、ここである、先ほどからあからさまに口数が少なくなってきた私に気がついたのであろう。ジョージは心配そうな表情で、
「You understand?」
「ボクの話、わかってる?」と聞いてきた。
ここが引け際だった。ジョージの気づかいを温かく受け取って、「ごめん、さっぱりや。もっとゆっくりしゃべってえ」とでもいえばよかったのだ。文法など適当で。
そうすれば、ジョージは再び気をつかって、再びペースを落として話してくれるであろう。
が、同時にガッカリもするだろう。これまで大いに盛り上がっていたと思っていた話が、すべて独りよがりの一方通行だったのだから。
嗚呼、日本人は思いやりの民族である。私は彼の、そんな落ちこむ姿は見たくなかった。
もう一度、「You understand?」と聞かれたところで、親指を立て会心の笑顔で、「Yes sure! very interesting!」(あたぼうよ!キミの話、とってもおもしろいね!)。
と答えてしまったのである。こういう態度が、日本人の悪いくせだよなあ。
それを聞いてジョージは「そうか、安心したよ、もしかしたらボクの話を理解してないんじゃないかって思ってね。キミの英語力を疑って悪かったよ」
と、笑顔を向けてきて、会話の内容はますます学術的で難解になり、なまりもきつくなり、時には小粋なオージージョークも飛び出し、そのたびにあいまいな日本の私は、
「oh!」「interesting」「I think so」「You funny! hahaha!」
などと適当な相づちを打ちながら、「日本の英語教育がどう改善されても、結局のところなまりや口語に関しては無力だよなあ」
と、教育の未来について思いを馳せたのであった。