前回(→こちら)の続き。
ヒシャム・アラジの天才に惚れこんだ私は、1998年オーストラリアン・オープンを現地に観戦に行った際、彼の試合を生観戦する機会に恵まれた。
相手は地元オーストラリアの英雄、マーク・フィリポーシス。
「スカッド」の二つ名そのままに、長身から重い弾丸サーブを撃ちこんでくる強敵相手に、アラジはスピードと、華麗なテクニックで対抗。
柔と剛がぶつかり合い、交差する好ゲームに、会場は興奮のるつぼと化した。
力任せに押しつぶそうとするフィリポーシスを、アラジは軽やかなフットワークで、ひらりとかわす。
いささか日本人的な例えでいえば、五条の橋の弁慶と牛若丸、といったところであるがゲームはファーストセットをフィリポーシスが取れば、負けじとアラジも、セカンドセットを取り返す。
そうして交互に取り合って、ついにはファイナルセットに、もつれこむ大熱戦となった。
期待にたがわぬ好ゲームに、観客も総立ちになっていた。
こうなるともう、いかなフィリポーシスが地元の人気者とはいえ、アラジの魅力にオージーたちも、だんだんと取りこまれていく。
それがピークに達したのは、アラジの得意なショットである、コートの外からフォアハンドの「ポールまわし」が決まったとき。
アドコート側に大きく振られたアラジは懸命に走り、見事なランニングショットで、ダウン・ザ・ラインにエースを放つ。
まさにミラクルショットで、このときばかりはオージーたちも、思わず地元期待の星のことを忘れ、立ち上がってアラジに拍手を送ったものだった。
まさかのスーパーショットに、唖然とするフィリポーシス。
試合はそのまま、アラジがファイナル9-7の激闘を、ものにしたのであった。
アラジはときに、こうしたトップ選手を沈める危険な男であった。
が、そんな才能のかたまりのような彼の残した実績といえば、自己最高ランキングが22位、優勝が1回。
そう聞くと、恵まれたものを持っていたわりには、結果が残せていないような印象も受けるが、そこがまた、天才型の選手らしいとも思う。
「天才」と「天才肌」は似て非なるもの。
どこがちがうのかといえば、私見では才能はプロならあって当たり前として、問題はその
「才能を御する才能」
が、あるかどうか。
天才型の選手は、それだけ才にあふれながら、それをもてあましてしまうことが、多々ある。
ジョン・マッケンローしかり、アンドレ・アガシしかり。
ゴーラン・イバニセビッチ、マルセロ・リオスに、マラト・サフィンも。
みな、平時なら目を見張るようなプレーをするが、いったん乱れると、とめどなく崩れていく。
いいときと、悪いときの出来が、激しすぎる。
その差は若いときのアガシと、ベテランとなって円熟味を増したころのアガシをくらべてみるとよくわかる。
その、いまいましいほどに、あふれくる才能を、苦難の末に乗りこなすだけのなにか。
これを得ることが、できたときに、「天才肌」の選手はようやく、花を咲かせられるのだ。
それは、サンプラスやフェデラー、ナダルなどのような、才能と努力とその開花がそれぞれにいいタイミングで出会って、伸びていった選手とは、ちょっとちがうところだろう。
だが不思議なもので、人というのはそういう「安定した天才」よりも、より「不安定な天才肌」に、惹かれるところがある。
人間くさく等身大でありながら、それでいて、常人ばなれした才能がある。
その、ある意味矛盾したところが、不思議であり、ミステリアスな魅力を生むのであろう。
ヒシャム・アラジはまさにそういう選手であった。
今のテニスは、フェデラーやナダルなど優等生な、大人のチャンピオンが多いが、たまにはアラジのような、天衣無縫の選手の爆発を楽しんでみたいものだ。
※おまけ 97年フレンチ・オープン4回戦対リオス戦の映像(→こちら)