1970年の、第24期B級1組順位戦。
その最終日は、後の将棋界に、多大な影響をあたえることになる1日だった。
ということで前回は、自身は消化試合なのにもかかわらず懸命に戦い、大野源一九段の「58歳A級」という夢をはばんだ、米長邦雄七段の将棋を紹介した(今回の記事はこちらの米長−大野戦とセットで読んでいただくと、より理解が深まります)。
それを読んでいただいた方で、中でもカンのいい人なら、途中で察せられたのではないか。
そう、あれが「米長哲学」という言葉を生んだ、有名なエピソードなのである。
「米長哲学」とは、
「自分には関係ないが、相手には人生のかかった大勝負。こういうときこそ、真剣に戦って勝たなければならない」
論理的には筋が通ってないのだが、それゆえにというべきか、不思議な説得力と重みのある言葉。
実際、今の棋士は若手からベテランまで多くが、この哲学通り消化試合でも100%の力を出そうとする。
ハッキリ言って相手からすれば「よけいなお世話」で、かつて名人挑戦権をかけた勝負で、消化試合だった米長に敗れた森安秀光八段は、
「米長さんは、どうしてボクに意地悪をするんだ」
酔って泣きぬれたそうだが(森安と米長はウマが合う間柄だった)、このあたり、この問題を語るときに棋士や評論家のよく言う、
「プロなんだから勝ちに行くのは当然だし、負かされた方も勝負なんだからサッパリしたもので、それを恨んだり文句を言ったりしない」
という声と、微妙に温度差があったりして興味深い。
そりゃ人間の心なんて、そんな簡単なものではないですわな。
やはりこの哲学のキモは、
「どこか、矛盾をはらんでいる」
ことだろう。
実際、渡辺明三冠や、森下卓九段などは「違和感がある」と表明している。
この手の例は枚挙にいとまがなく、たとえば棋聖のタイトルを取り、大山康晴十五世名人と、何度も血涙の一戦を戦った山田道美九段。
勝てば、相手を強制引退に追いやる、という一番を勝利で終えたあと、
「人を不幸にして……ボクはなにをやっているんだ……」
終局後、盤の前で涙したという。
僕は、どうでもいいやと思って指し、しかも勝ってしまった。対局後、猛烈に後悔した。
それくらい、消化試合で「勝ってほしい相手」と戦うことは人を惑わせる。
逆に昔なんかは、若手棋士に昇級や降級のかかっている対局で、ベテラン棋士が、
「今日は、ごちそうになろう」
なんて早々と投げてしまうケースもあったりして、このあたりは人それぞれとしか言いようがない。
実際、米長も著書の中で、そういう「人情相撲」的な態度を、
「それが自然な心情」
そう書いているのだ。
複雑な気持ちにゆれながらも大野に勝利し、
「タイトルを争いうるところまできたと確信した」
と言い切った米長だが、それは、
「勝ってしまった罪悪感を、なんとか処理しようとする、アンビバレントな心情」
の発露のような気もするし、たぶんこれは、
「八百長はよくない」
「そこを非情になれるメンタルでないと、トップにはなれないのだ」
みたいな、われわれレベルでも思いつくような、ありきたりな考えでは、語れない問題なんだろう、きっと。
これはもう、「正解」なんてない。
もしあなたが
「プロなんだから手を抜くな」
と思っても、
「別に、負けてあげればいいじゃん」
と感じても、
「それは逆に対戦相手に失礼でもあるんだから、状況にかかわらず全力で」
「他力で待つ人の人生もあるんだから、やっぱりがんばるべき」
「強いヤツを足止めするため、わざと組みやすい相手を勝たせておくという手もあるぜ」
でも、なんでいいけど、それらはきっと「どれも正解」で、同時に「どれも間違い」でもあるのだ。
それこそ、私だったら別に勝ちません。
そこを「甘い」「プロ失格」とか言われても、「そうでっか」としか言いようがないのだ。
(「激辛流」丸山忠久の「友達をなくす手」編に続く→こちら)
目の前の事柄について、どんな状況であれ「手を抜く」という事を覚えてしまうと、後々に癖として付いてしまう恐れがあるので(無意識レベルでも)、全くもって正しい思想だと思います。
〉この米長氏の対局って実は全くの消化試合だった、というわけではないんですよね
たしかにそうなんですけど、A級のかかった他の3人と、また米長と大野、米長と芹沢、米長と中原、中原と芹沢。
という面々の関係性を見れば、順位1枚の差など、正直、米長さんの悩みの100分の1程度にもならなかったと思いますよ。
実際、著書『人間における勝負の研究』の中でも、対大野戦について、
「私は一所懸命やるが、うまく負かされたい、というのが本音でした」
という文のあと、
「私は勝っても、A級入りするわけじゃないし、負けてもB級から落ちるわけではないのですから」
修羅場を戦う3人とくらべたら、はなしにならないほど重みが違う。
少なくとも、
「私も来年の順位があるから、負けるわけにはいかない」
みたいなことは書いてないわけで、やはり、ほとんど「勝つ意味」はないと、米長さん本人が思うのは自然だと思います。
〉どんな状況であれ「手を抜く」という事を覚えてしまうと、後々に癖として付いてしまう恐れがあるので(無意識レベルでも)、全くもって正しい思想だと思います。
これも、本文にも書きましたが、私は後付けの「思想」だと感じています。
ちょっと、理屈として「正論すぎる」というか。そんなきれいに、割り切れるもんかなあ、と。
よくできた「伝説」や「名言」は、掘ってみると、そういうシンプルな話じゃないというのは、よくあることですし。
悩んだ末に、何とかひねり出した「落としどころ」のような印象なんです。
むしろ私は、亡くなるまで、本当には自分の出した結論を、信じてなかったんじゃないかなあ、という気すらしてるくらいです。
こっちは、すべて私の妄想ですけどね。