「はへー、ここが【正しい歴史】から【七不思議】への分岐点やったんやなあ」
なんて、ため息をついたのは、若き日の屋敷伸之九段と森下卓九段が戦ったタイトル戦を調べているときのことであった。
勝負の世界には時折、
「この試合の結果がもし逆だったら、その後の歴史は全然違うことになってかもなあ」
と思わせるターニングポイントがある。
昭和将棋の世界だと、升田幸三と大山康晴の運命を変えた「高野山の決戦」に、大内延介九段が名人を取りそこなった「大内の▲71角」。
平成だと、谷川浩司九段が羽生善治九段に、強い苦手意識を植えつけられることとなった1992年、第5期竜王戦第4局。
谷川の2勝1敗でむかえた第4局は、中盤で谷川必勝に。
ここで△45桂と跳ねれば、順当に谷川が押し切り竜王も防衛した可能性が高い。
そうなれば「羽生時代」はもっと先の話で、谷川のタイトル獲得が「27期」という、ありえない数字も修正されていたはず。
「永世七冠」にほとんど手をかけながら、まさかの3連勝からの4連敗を喰らって羽生が9年ものおあずけをくらった「100年に1度の大勝負」こと2008年の第21期竜王戦七番勝負。
羽生の3連勝でむかえた第4局。
ここで▲38金、△36玉、▲41飛成。あるいは単に▲41飛成でも、そこで「永世七冠」達成だった。
本譜は奇蹟的な打ち歩詰の筋で後手玉が寄らず、なんとそこから渡辺が4連勝で大逆転防衛。
もしここで決まっていたら、4タテで失冠した渡辺のその後の将棋人生は大きく変わっていたことだろう。
これらはまさに歴史を動かした大逆転劇で、その舞台の大きさとシチュエーションから、その後の歴史に多大な変化と影響をあたえたことは容易に想像できる。
こういう話を「勝負にタラレバはない」と一蹴する人はいるけど、私は大好き。
それに我々は先日の王座戦で、村田顕弘六段戦、挑戦者決定戦の豊島将之九段戦に、五番勝負の第3局と第4局の終盤戦を見せられている。
将棋の世界では「現実」と「if」が本当にギリギリのラインで交錯をまぬがれただけの、儚いものだと思い知らされているのだから、このifは妄想の一言で片づけるには、少しばかりリアルが勝つわけなのだ。
で、今回脳裏によぎったのが、屋敷と森下のこと。
この2人には平成における大きな謎があった。
それこそが、
「森下卓が1度もタイトルを取れなかったこと」
「屋敷伸之がC級1組で14年も足止めを食ったこと」
これは平成の「将棋界七不思議」といった話になると、まず100%入ってくるもの。
当時なら谷川浩司、羽生善治に次ぐ格だった森下が無冠ということは、今でいえば藤井聡太八冠、渡辺明九段に続く、豊島将之九段や永瀬拓矢九段がタイトルを取ってないようなもの。
実際、豊島が棋聖のタイトルをはじめて取るまでは、森下と重ね合わせる声も多かったのだ。
また屋敷の件も、C1昇級が18歳で脱出が32歳だから、これまた今ならさしずめタイトル経験のある菅井竜也八段や斎藤慎太郎八段が、いまだC1で戦っているような異常事態だったのだ。
その「七不思議」が、まさに先日紹介した棋聖戦五番勝負と関連しているというか、シリーズのあった1990年12月から1991年の1月までのこの2か月こそが、この2人の運命を結果論的には決定づけることとなる。
まず森下の方はわかりやすく、ここでタイトルを取れなかったのは、大きな取りこぼしだった。
もちろん、「小さな天才」屋敷伸之を倒すことは簡単ではないが、そこからの5回の挑戦の相手が谷川浩司が1回に、羽生善治が4回だったことを考えれば、ここが一番大きなチャンスだったことは間違ない。
一方の屋敷もまた、この時期に人生を決める大勝負を戦うことになった。
それは棋聖戦ではなく、順位戦。
今回調べ直して思い出したのだが、このシリーズの第3局と第4局の間に、2人はC級1組順位戦でも当たっていたのだ。
日程を言えば、1991年の1月11日に棋聖戦の第3局、同14日に順位戦、25日に第4局。
まさにタイトル戦のド真ん中に順位戦が、しかも事実上の「昇級決定戦」がブッこまれているという、シビれるようなスケジュールだったのだ。
6勝1敗同士の直接対決は前期次点の森下が、2期連続の1期抜けをねらった屋敷を破っている。
しかも、その内容というのが屋敷が不出来で、ほとんど中押しのような形で終わっているのだ。
順位戦の森下-屋敷戦の投了図。手数はたった73手。
後手になにか誤算があったのは一目瞭然だが、これが14年の歳月と振り替わってしまうのだから怖ろしい。
森下はその勢いでB級2組に昇級。屋敷は8勝2敗で、おしくも昇級を逃した。
棋聖戦と順位戦。
これが結果論的には、2人のその後の苦難を決定づけた交錯となった。
森下はA級10期、棋戦優勝8回、通算800勝以上という素晴らしい実績を残しながら、タイトル獲得はゼロ。
一方の屋敷は空白の14年。
その間に全日本プロトーナメント(今の朝日杯)で優勝し、一度は失った棋聖に復位するなど活躍を見せるが、なぜか昇級できない。
その間の成績も、8-2、6-4、8-2、7-3、7-3、5-5、7-3、7-3,7-3,7-3,7-3、6-4、8-2、8-2、9-1(B2昇級)と毎年好成績を残しているのに、どうしてもあと一押しが足りないのだ。
もしこの棋聖戦と順位戦の結果が、逆だったら。
森下はふつうに、実力通りタイトルを獲得し、佐藤康光九段や森内俊之九段と同じくらい積み上げていたかもしれない。
屋敷もすんなり、本来の位置であるA級まで駆け抜けたかもしれない。
想像してみると、こっちのほうがずいぶんと「本当の歴史」という気がしてならないではないか。
いや、絶対にそっちのほうが正しいやろ。「森下無冠」「屋敷C1に14年」なんて、今でもフェイクとしか思えないもの。
私がもし「そっちの世界線」の自分だとしたら、きっとこっちの自分と話しても、
「え? そっちでは森下がまだ無冠で、屋敷のA級昇級が40歳? おいおい、ダマしてからかうんやったら、もうちょっとリアリティーあるウソついてくれよ」
なんてつっこみを入れるのは、間違いないのだろう。
今思うと、1990年の12月からの2か月は、それほどに大きななにかを動かした冬だったのである。
てか、こんなこと書いてたら、こっちでは妄想することしかできない、別の世界線にある「あったかもしれない将棋界」の情報がたくさん知りたくなってきた。
「藤井聡太? あー、三段リーグで苦労して22歳でプロになったよ。これから期待できるけど、でもそもそもその間に将棋自体が色々ありすぎてオワコン化してるねんなあ。え? 八冠王? 阿呆か、今タイトルは5個しかないっちゅうねん」
なんてことがあってもおかしくないわけで、もしここを読んでいる「パラレルワールドのオレ様」がいたら情報交換したいんで、とりあえずメールかLINEで連絡ください。
★おまけ
(「大内の▲71角」はこちら)
(谷川と羽生の立場が入れ替わった瞬間はこちら)
(「100年に1度の大勝負」のシリーズはこちら)
(その他の将棋記事はこちらからどうぞ)
羽生 14-39
谷川 14-33
森内 11-24
佐藤 13-31
郷田 11-22
見事に全員に対してダブルスコア以上の差をつけられています。
森下が活躍していた時代はタイトルを取るには彼らに勝つことが必須だったと考えるとこれは結構致命的に思えます。
それじゃあなんでそんなに彼らに対して差をつけられてるのと言われるとなんとも言えませんが…
屋敷は…何なんでしょうね、今もB級1組で気を吐いている姿を見ると順位戦に適正が無いわけでもないでしょうし。
森下九段の無冠は本人がインタビューなどで何度もおっしゃっているよう、24歳で大恋愛をするなどして調子をおかしくし、その後も燃え尽きたように将棋への情熱が薄れ、どうしても元に戻らなかったとか、いろいろありそうですよね。
私もネタにした名人戦での大ポカは恋愛中で集中が切れかけていたそうですし、成績も1994年(39勝16敗 0.709)をピークに平凡なものになっています。
それまでは
1986年 37勝16敗 0.698
1987年 44勝15敗 0.746
1988年 39勝19敗 0.684
1989年 51勝18敗 0.739
1990年 56勝18敗 0.756(記録部門三冠)
1991 54勝23敗 0.701
と、すばらしい成績を残しているのとくらべると、5割を切る年もあって、いかにも見劣りしました。
また、谷川浩司九段、羽生善治九段はともかく、佐藤康光九段、森内俊之九段、郷田真隆九段相手には、1995年前後まではかなりいい勝負をしています(それぞれ佐藤に5勝7敗、森内に6勝8敗、郷田に6勝3敗)。
ところが、それ以降はまさに、水しぶきさんのおっしゃるようカモにされており、この差を見ても、やはり「気持ちが切れた」のが大きかったのかもしれません。
屋敷九段に関しては、めぐりあわせの悪さもあるのでしょうが、たしか豊川孝弘七段が
「プロになって屋敷君と指したときにガッカリした。奨励会で戦った時に感じた圧倒的なオーラのようなものが消え失せていたからだ」
という内容のきびしいコメントをしていた記憶があります。
中村太地八段に対して、『将棋世界』で泉正樹八段が同じことを言って奮起を促していたこともありましたから、どうしても棋士にはそういう時期があるのでしょう。
そこで「運」や「流れ」のようなものをつかめないと、足踏みが続くのかもしれません。
伊藤匠七段とかも、気をつけてほしいです。実力のある人が変なところでつまづくのは、もったいないですから。